[使徒信条 第三の記事:聖めについて]
われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒のまじわり、罪の赦し、からだのよみがえり、 とこしえの命を信ず。アーメン。
[問い] これはどういう意味ですか。
[答え] 私は、私の主であるイエス・キリストのもとへ自分自身の知性や力で向かうことはできません。 しかし聖霊様が福音によって私を召してくださり、 聖霊の賜物によって私の目を開かせてくださり、 まことの信仰のうちにあって私を聖なるものにし、保ってくださるのです。 それはちょうど、 聖霊が地上の全教会を召してくださり、 一つに集めてくださり、 目を開かせてくださり、 イエスとともに唯一のまことの信仰のうちにあって聖なるものとし、保ってくださるのと同じです。 この教会において、 神様は毎日、私やすべての信仰者がおかした罪をすべてゆるしてくださいます。 そして終わりの日に神様は、私とすべての死んだ人を墓から引き上げてくださいます。 神様は、私と、キリストを信じるすべての人に永遠の命を与えてくださいます。 はい、そうです。このことは真実です。
使徒信条も3回目、聖霊の項となりました。5月28日が聖霊降臨祭(ペンテコステ)でしたので、ちょうどタイミングとしてはふさわしいように思います。
聖霊に関しては、どうしても「その働きがわかりにくい」という印象がもたれることが多いようです。ルターはこの項を「私は、私の主であるイエス・キリストのもとへ自分自身の知性や力で向かうことはできません」という文章で始めており、イエス様を信じる上で聖霊の働きがどうしても必要であったことを明らかにしています。ルターが福音の再発見をしたことの背後には、聖霊の働きがあった、ということです。
また、この聖霊は教会において豊かに働かれます。そのことを、ルターは「聖霊が地上の全教会を召してくださっている」と表現しています。そのことがあるからこそ、神様が私たちのすべての罪を「教会において」ゆるしてくださる、と言われているのです。私たちが教会につながっている必要がある理由がここに示されています。目には見えませんが、聖霊の働きがあるからこそ、私たちは豊かな赦しの恵みの中にくつろいで過ごすことができるのです。
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