われはその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、 ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉(よみ)に下り、 三日目に死人のうちよりよみがえり天に上り、父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、 生けるものと死にたるものとをさばきたまわん。
[問い] これはどういう意味ですか。
[答え] 私はイエス・キリストがとこしえの父なる神により生まれたまことの神であることを信じます。 私はまた、イエス・キリストが処女マリアから生まれたまことの人間であることを信じます。 イエス・キリストこそ私の主です。 イエスは私をあがないました。 私は道に迷い、呪われた人間でした。 すべての罪、死、悪魔の支配下から、イエスは、私を買い取り、私を勝ち取りました。 それは金や銀で買い取ったのではありません。 イエスさまの聖なる貴い血潮、イエスさまの無実の体 —— イエスさまの死によってです。 このようにして、私はイエスさまのものとなり、イエスさまの王国でイエスさまの元で暮らし、 義とされ、罪ゆるされ、祝福をうけて、永遠にイエスさまに仕えるのです。 イエスさまが死から復活し、永遠に治めるのと同じように。 はい、そうです。このことは真実です。
(結城浩訳 『ルターの小教理問答書』より)
使徒信条の第二回目です。三位一体に合わせ、前回の第一の記事が父なる神様について、そして今回の第二の記事が御子なるキリストについてとなっております。テーマは「あがないについて」です。
「あがない」とは、犠牲を払って買い取る、という意味です。ここでは、イエス・キリストが尊い血を流されて「私」を買い取って下さったことが強調されています。「それは金や銀で買い取ったのではありません。 イエスさまの聖なる貴い血潮、イエスさまの無実の体 —— イエスさまの死によってです」とルターは説明しています。
ルターはあがないの「結果」についても述べています。「私」はイエス様のものとなるのです。そのように、罪赦された「私」がイエス様の所属になることが明らかにされています。
イエス様と「私」が個人的に、このような親しい関係に入ることを使徒信条は明らかにしています。つい「私たち」と曖昧にしたくなるところですが、この「イエス様と私」という親密な間柄を大事にしたいものです。
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