【第十の戒め】
あなたは、隣人の妻、男性の奴隷、女性の奴隷、家畜、 そのほかどんなものであれ、隣人のものを欲しがってはいけません。
[問い]これはどういう意味ですか。
[答え]私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。 ですから、私たちは隣人の牛を放したり、雇い人を奪ったり、妻を誘惑したりしてはいけません。 そうではなくて、彼らが隣人のところにとどまりつづけ、 それぞれの義務を果たすようにしなければなりません。
(結城浩訳 ルターの小教理問答書より)
十戒は旧約聖書の出エジプト記の20章と申命記の5章に記されていますが、「第一の戒め」「第二の戒め」・・・と番号がふられているわけではありません。ですから、どれを第一の戒めにするか、どれを第二の戒めにするか・・・は解釈次第、ということになります。ルターの解釈によると、どうしても第九の戒めと第十の戒めが同じような「欲しがってはいけません」というテーマの戒めになってしまうのが苦しいところです。
第十の戒めにおいても、「答え」の冒頭には「神を畏れ、愛さなければなりません」という共通の前置きが見られます。すべての戒めを貫いて、この「神を畏れ、愛する」ということが、ルターのテーマであったことがうかがえます。
また、「欲しがってはいけない」という戒めの消極的な側面を、「放す」「奪う」「誘惑する」と理解したうえで、この戒めの積極的な面を、「彼らが隣人のところにとどまりつづけ、 それぞれの義務を果たすように」する、と解釈しています。
企業間でも、野球やサッカーなどのスポーツの世界でも、「この人が欲しい」ということでより良い人材の確保がなされることが日常茶飯事となっています。「引き抜き」という形で別の企業、別のチームに移り、ますます本領を発揮することもあるわけですから、それが否定されるべきではないでしょう。個人の可能性は大事にされるべきです。
しかし、そのようなことが常態化する中で、あえて「ひとつのところにとどまり続けることを促す」ということは、世の中の動きに反するようでありながら、それもまた、個人の価値を正当に、高く評価していることの表れであり、「あなたが必要とされている」という温かなメッセージを伝えることにもなるのではないでしょうか。そしてそれが、「上へ、上へ」という貪欲な思いから人を救うことになるかもしれません。
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