「新約聖書の学び」第8回 マタイによる福音書9章
- 明裕 橘内
- 6 日前
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今月は、新約聖書の学びの第8回目、マタイによる福音書9章の学びをご紹介します(担当:橘内玲子牧師)。
【マタイによる福音書8章を振り返って】
マタイによる福音書8章では、イエス様は多くの人々をいやし、嵐を静め、悪霊に取りつかれた人々をいやされたが、律法学者や異邦の地の人々からは、イエス様の言動に対して反感を持たれていた。イエス様がメシアであるからこそ、いやしや奇跡を行われたが、ファリサイ派の人々は、イエス様がメシアであることを認めることはできなかった。
9章では、イエス様が罪を赦す権威を示されるが、最終的には、イエス様への批判が増していってしまう。
【マタイによる福音書9章】
「中風の人をいやす」(1~8節)
・イエス様は舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、「自分の町」、つまりカファルナウム(4:13)に戻られた。
・「中風」は現在では脳卒中や脳血栓などの脳血管疾患とされている。突然倒れて半身不随になったり、言語障害を起こすなど後遺症が残りやすい病気と考えられる。
・「あなたの罪は赦される」と罪の赦しの宣言をされた。メシアとしての権威が表れている。
イエス様の時代においては、神様だけが罪を赦す権威があると考えられていたので、イエス様は神様をないがしろにしていると、ファリサイ派の人々には思われた。
・イエス様は律法学者の考えを見抜いておられた。
・『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが容易かと言うと、すぐには結果を見定められない「罪の赦しの宣言」と言えるが、イエス様はその両方を成し遂げられた。
・イエス様は神様を冒涜していると憤慨する律法学者と、イエス様にこれほどの権威をゆだねられた神様を賛美する群衆との対比が描かれている。
「マタイを弟子にする」(5~13節)
・当時、取税人はローマの手先として働く売国奴と考えられていたので、同胞から忌み嫌われていた。取税人は同胞から搾取することで裕福になっていた。また、取税人はユダヤ人の共同体の交わりから追放され ていたが、ローマから地位が与えられていたので、漁師から弟子になった者たちよりも、このような地位を捨てることは犠牲が大きいと考えられる。
・ファリサイ派の人々は、イエス様がメシアであるとしたら、一緒に食事をしている人は罪人であると見抜いて、交流を持たないはずである、と考えていた。
・ファリサイ派の人々は、弟子たちに質問をした。イエス様に近づいて行っている。
・イエス様の答え
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」
「憐れみ」は、内面的なもの(行動の背後にある動機)を、
「いけにえ」は、外側に表れた行動(律法主義的生活)を示している。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」
「正しい人」は律法を守っている人々、「罪人」は律法を守る生活ができていない人々を示している。
・ファリサイ派の人々は、自分たちのことを、律法を守っている「正しい人」であると考えていた。
「ファリサイ」には「分離した者」という意味があり、別格の存在であると、自負していた。
・メシアは、自らが罪人であることを認めている人を招くために来られた。
「断食についての問答」(14~17節)
・紀元前6世紀のバビロン捕囚という出来事によって、ユダヤ人たちは神様に従うべきであるとたいへん反省した。70年後に 帰還した以降は、指導者たちはモーセの律法を熱心に解説した。次の世代の指導者たちは、その解説にさらに種々の命令を付け加えた。その後、400年に渡る様々な言い伝えが「口伝(くでん)律法」となり、イエス様の時代においては聖書と同じ権威を持つようになっていた。ファリサイ派の人々は、「口伝律法」に基づいて、週に2回断食をしていた。 また、ヨハネの弟子たちも断食をしていた。断食は神様への敬虔のしるしと考えられていた。「イエスがメシアであるなら、口伝律法を破るはずがない」 と、ヨハネの弟子たちは考えていた。
・イエス様は、3つのたとえを用いて答えらえた。
①今は、喜びの時(婚礼)だから、断食する必要はない。
* 花婿がいるのに、花婿につき添う友人に断食させることはできない。
②だれも、新しい布切れで古い服の継ぎ当てをするようなことはしない。
* 「新しい布切れ」とは、イエス様の教え、
「古い服」とは、当時のユダヤ教、つまり、口伝律法を重視するファリサイ派的ユダヤ教。
* 両者は、全く異質のもの。組み合わせることはできない。
③新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしない。
* 新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるというのが、当時の常識。
* 醗酵途上の新しいぶどう酒は、古い皮袋を張り裂いてしまうので。
つまり、イエス様は、口伝律法をモーセの律法と同等に扱うファリサイ派的ユダヤ教を批判された。
「指導者の娘とイエスの服に触れる女」(18~26節)
・指導者(ヤイロ)の娘のいやしの話の途中に、イエス様の服に触れた女性の話が組み込まれている。
並行箇所であるマルコによる福音書5:21~43とルカによる福音書8:40~56も同様である。
この出来事は、マルコによる福音書において、丁寧に描かれているので、マルコによる福音書を学ぶ時に丁寧に扱いたい。
・指導者の娘を死からよみがえらせたことは、その地方一帯に広まるような大きな出来事であったが、群衆の一人でしかない女性の長年の病にも、その信仰を見過ごされなかった。
「二人の盲人をいやす」(27~31節)
・イエス様のみわざが言い広められた話が続く(9:26、9:31)。
・「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(9:27)
メシアはダビデ王の家系から出ると、イスラエルの多くの預言者が語ったので、メシアは「ダビデの子」とも呼ばれた。ダビデ(紀元前1000~961年在位)はイスラエル史上、最も偉大なる王様。
二人の盲人は視覚的にはイエス様のお姿は見えていなかったが、どのような存在であるかは見えていたと考えられる。
・「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われて、いやされた。
「口の利けない人をいやす」(32~34節)
・当時の悪霊の追い出しは、悪霊の名前を聞き出して、その名を呼んで追い出しを行ったとのことである。口の利けない人の場合は、名前を聞き出せないので、それは、メシアだけが行う奇蹟であると考えられた。
・ファリサイ派の人々は、「この男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
同じ出来事を見ても、信じない者は信じず、かえって神様のみわざを悪霊の働きと言った。
このように考えられてしまうので、「このことは、だれにも知らせてはいけない」(30)と言われたと考えられる。
☆このように、聖書は読み進めていくことで、理解が深まるので、一つの章を読む、この学びの時を、続けていきましょう。一つの物語だけでは理解し難い時にあきらめてしまわないで。
「群衆に同情する」(35~38節)
・8~9章の総括として
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9:35~36)
・10章(十二使徒を派遣される)へと続いていく
そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9:37~38)
【感想】
・イエス様が病の癒しだけでなく、神様としての「罪の赦しの権威」も両方示されたのは、当時の人々にはとても驚きだったんだろうと思った。
・弱さや罪を自ら認める者に対しては、どんな人でも招いてくださるイエス様の優しさを感じた。




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