「新約聖書の学び」第4回 マタイによる福音書5章
- 明裕 橘内
- 1 日前
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今月お届けするのは、新約聖書の学びの第4回目、マタイによる福音書5章の学びです(担当:橘内玲子)。
【マタイによる福音書5章について】
・荒野での悪魔の誘惑に勝利したイエス様は、ガリラヤで伝道を開始され、その活動は大きな広がりや影響を及ぼした。
・5章~7章は、山上の垂訓として有名であるが、解釈が難しいとも言える。
5:20 「あなたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、
あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」
5:48 「完全な者になりなさい」
・かつては、天の御国に入るためには律法を守る必要があるという前提があった。
・山上の垂訓の本質は、「メシアによる律法の義の解釈」であると言える。
5:20 「ファリサイ派の人々の義にまさる義」とは、時代的背景からたどってみれば、
(1) 旧約聖書の預言者たちは、神の国とメシア(王)の到来について、様々に預言した。
(2) 中間時代に台頭したファリサイ派は、神の国に入るために必要な義について論じていた。
この時代のイスラエルの人たちは「神の国に入るための義とは何か」を追求していた。
パリサイ派の神学では、「律法の義」は幅広いものであり、 「ユダヤ人として生まれた者は、すべて神の国に入れる」と考える人々もいた。
しかし、バプテスマのヨハネやイエス様は、悔い改めの必要性を説いた。
イスラエルの人々はどちらの義が神の国に入ることを可能にしてくれるのかという疑問がわいた。
イエス様の答えは、マタイ5:20にある。
【 20節 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。】
・福音書の前半における 「福音」とは、「十字架の福音」ではなく、「天の御国が近づいた」という福音である。
・「救い」とは、 信仰により、恵みによって救われるのだが、イエス様の十字架の以前の段階では、イエス様をメシアとして信じることに「救い」を見出した。これこそが、「ファリサイ派の人々の義にまさる義」 と考えられる。
・イエス様をメシアとして信じた人は、「神の義」を手に入れている。 この世の基準からではなく、神様の目から見た「幸い」。1~10節では 「神の義」を手に入れた人の8つの特徴が描かれている。
【5章の内容】
《1~2節 山上の説教(五―七章)を始める》
モーセがシナイ山に登ってイスラエルの民に教えるべきことを神様から学んだように、イエス様は山に登られた。
《3~12節 幸い》
1. 前半の4つは、神様との関係における幸い
(1) 「心の貧しい人々」
心が卑しいとか、心が狭いとかいう意味ではなく、自分の霊的な貧しさを知っていて、「自分の義」より「神の義」により頼んでいる。
(2) 「悲しむ人々」
自分の罪やこの世の悪を嘆き悲しむ人々のことを表している。そのような人々は、罪を告白して赦しを受け取って、罪の赦しを体験し、将来、神の義の完全な実現を見て、慰められる。
(3) 「柔和な人々」
静かな中に神様への揺るぎのない信頼を持っている人のことを表している。そのような人々は、自己弁護から解放されているので人と言い争う必要がない。黙って十字架の死に向かわれたイエス様を思い起こさせる。 そのような人々は、神様から多くの物や人々をゆだねられる。
(4) 「義に飢え渇く人々」
モーセの律法によって示された「神の義」に従うことを求めている人々を表している。いつも神様との関係を第一にしているということであり、そのような人々は、肉体的な満たしだけでなく精神的、霊的な満たしを体験する。
2. 後半の4つは、人との関係における幸い
(5) 「憐れみ深い人々」
周りの人々の痛みや必要を敏感に察知し、それに応えようとする人々を表している。神が憐れみ深いお方なので、私たちも憐れみを示すように期待されている。 隣人にあわれみを示した人は、自らも神の憐れみを受けるようになる。
(6) 「心の清い人々」
行為だけでなく、動機まで清い人々を表している。そのような人々は父なる神様を仰ぎ見ることができる。
(7) 「平和を実現する人々」
まずは家族や信徒同士の間の和解と平和を求める人々を表し、世界に平和をもたらす働きは、近しい人々との関係修復から始まる。
(8) 「義のために迫害される人々」
「神の義」を追求しているために、攻撃されている人々を表している。 迫害は神様に従っていることの証拠だとされている(IIテモテ3:12)。
〇テモテへの手紙二 3章 12節
【キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。】
《13~16節 地の塩、世の光》
1. 地の塩
塩は防腐剤。イエス様を信じる人々はこの世を腐敗から守るという役割を果たす。また塩は、調味料としても用いられた。 塩が食べ物の味付けを助けるように、他者を助けるようにと語られている。
旧約時代に、イスラエルが完全に滅びなかったのは、真の信仰者のゆえである。このような人々は「イスラエルの残りの者」と言われている。
2. 世の光
暗い世にあって、神の光を灯す役割が与えられている。私たち自身が光なのではなく、私たちの内にキリストが生きておられるからである。
《13~20節 律法について》
マタイ5:20が、山上の垂訓を解釈する鍵
(1) 救いに至る道を教えているのではない。
(2) 山上の垂訓の本質は、「メシアによる律法の義の解釈」である。
【20節 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。】とは、
ファリサイ派の人々は律法を学び、実践していたので、ファリサイ派の人々の義にまさることは不可能に思える。さらに律法主義的な生き方をしなさいということではなく、自分の無力を認め、神の憐れみにより頼むことであり、その結果、自らも憐れみ深い者へと変えられていくことと言える。イエス様の弟子たちは律法の目指すものを、律法主義とは別の道筋《イエス様の十字架》を通って実現していくことになる。
☆21節~48節では、定型句に注目する。当時すでに、口伝(くでん)律法があった。
「あなたがたも聞いているとおり」
「しかし、わたしは言っておく」
メシアによる律法の解釈、あるいは、義の解釈であり、外側に現れた行為ではなく、人の内面が問題とされている。
《21~26節 腹を立ててはならない》
殺人という行為を問題にする。行為の前に、心の中で罪を犯している。
《27~30節 姦淫してはならない》
姦淫という行為を問題にする。心の中で、姦淫を犯している。
右の目(罪が入る道)、右の手(罪を犯す道具)を取り除く。
《31~32節 離縁してはならない》
申命記24:1にあるように、妻の権利を保護するためであったが、後代になると、離婚状を出せば、合法的に離婚できるようになった。
不貞以外の理由は不法となっている。 離婚されると他の男性に身を寄せるしかないので、
「姦淫を犯させる」という表現になっている。
《33~37節 誓ってはならない》
誓ったことは実行するように、とのこと。イエス様の教えは、「正直な人になれ」ということ。
父なる神様は誓いを守られる方であるから。
《38~42節 復讐してはならない》
「目には目を、歯には歯を」(出エジプト21:24、レビ24:20)に示されるように、同害復讐法は、際限のない復讐に歯止めをかけるためのものであるが、私的復讐の根拠として利用されることがあった。イエス様の教えは、無抵抗の姿勢。 仕返しをしないで、求められた以上のものを差し出す姿勢を示している。
《43~48節 敵を愛しなさい》
「隣人」とは、同胞のユダヤ人のこと。
しかし、イエス様の定義では、「隣人とは助けを必要としている人」と考えられている。
ルカ10章、良きサマリヤ人のたとえによって、それが示されている。
【5:48 だから、天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。】
神の子とされた者は父である神様に似て、相手の態度によって自分の態度を変えない「完全」な愛を持つ者と変えられていく。神様が神の子にされた者を作り変えてくださるという信頼を示している。
【感想】
・今回の箇所は、説教や教会学校などでもよく取り上げられ、読んだことがある箇所だったが、改めて玲子先生の解説とともに読むと、例えば「悲しい人々」がなぜ幸いなのかを理解したり、「世の光」が神様の輝きを現すものなのだというところを再確認できたりと良い機会となった。
・律法そのものが悪いものなのではなく、何のために律法があるのかを見失っていたのがファリサイ派だったのではないかと思った。





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