「新約聖書の学び」第13回 マタイによる福音書14章
今月は、今年9月20日に開催された第13回の「新約聖書の学び」の内容をご紹介します。担当は橘内玲子牧師です。
【マタイによる福音書13章を振り返って】
マタイによる福音書13章において、イエス様は群衆に対して、様々なたとえを用いて語られた。弟子たちにはたとえの説明を語られた。故郷のナザレでは、知り合いや親族が住んでいたので、イエス様を救い主としては受け入れられなかった。人々が不信仰だったので、ナザレではあまり奇跡をされなかった。
【マタイによる福音書14章】
洗礼者ヨハネ、殺される(1~12節)
領主ヘロデはヘロデ大王(マタイ2章)の息子で、異母兄弟と結婚していたヘロディア(へロデ大王の孫娘)を離縁させて、結婚した。洗礼者ヨハネは「兄弟の妻と結婚することは律法で許されていない」と言ったので、牢に閉じ込められていた(ルカ3:19~20)。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、ヨハネは預言者であると、民衆が思っていたので、民衆が騒ぎを起こすことを恐れていた。2年余り投獄されていたと考えられるが、ヘロデの誕生日に、ヨハネを殺すこととなった。ヘロデはヨハネを恐れていたが、またヘロデの誕生会に招かれていた人々をはじめ周囲の人々、また群衆をも、たいへん恐れていた。
残忍な物語であるが、ヨハネの死を通して、イエス様はご自分の死後のことも考えられ、弟子たちを訓練していく必要性を感じる転換点となったと言える。
五千人に食べ物を与える(13~21節)
イエス様は、ヨハネの最期の出来事の報告を聞くと、舟でガリラヤの東側に一人で向かわれた。しかし、方々の町から集まって来た群衆は歩いて後を追って来た。イエス様はおおぜいの群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
夕暮れになり、イエス様は弟子たちに、群衆のために食べる物を準備しなさいと言われた。弟子たちの訓練のために言われたと考えられる。イエス様のみわざに弟子たちを参加させてくださった。イエス様は弟子たちが差し出した五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りをし、弟子たちにお渡しになった。たったこれだけと落胆するよりも、神様を賛美し感謝し、恵みを分け与える大切さを教えてくださった。
十二の籠はイスラエルの十二部族を示していると考えられる。男が5千人とは、男女、子どもを合わせると1万人を越えると推測できる。これだけの群衆を満足させるということは、イエス様が救い主であることを表している。
湖の上を歩く(22~33節)
それからすぐにイエス様は群衆を解散させられた。
ヨハネ書6章にも五千人に食べ物を与える奇跡が書かれているが、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(15節)で終わっている。ローマ帝国を倒して、ユダヤ人の国を治める王として、群衆は救い主の到来を期待していたので、群衆をすぐに解散させられたと考えられる。
イエス様は群衆たちから離れて、父のみこころを求めるために一人になって祈られた。
夜が明ける頃(新改訳聖書では夜中の三時頃)、舟に乗っていた弟子たちは逆風に悩まされていた。湖の上をイエス様が歩いて来られた時、「幽霊だ」と恐れた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語られた。このように、私たちの信仰生活において、不安なことがある時にも、神様の祝福を受ける計画の始まりかもしれないと期待していきたい。
ペトロのように、怖く感じたり、落ち込む時には、「主よ、助けてください」と祈ったりすることは大切である。この出来事を通して、イエス様を神の子であると、弟子たちは感じ取った。
ゲネサレトで病人をいやす(34~36節)
ゲネサレト(ガリラヤ湖の北西岸の町)の地の人々は、イエス様にある、いやしの力を信じていた。その信仰は、病人がイエス様の服のすそにでもさわったら、いやされるというものだった。服のすそは、神様の言葉を象徴していた。歩くと揺れ動くので、神の教えに従うことを思い起こさせるために(民数記15:38)、服のすその四隅には房を縫い付けてなければならないとされた(申命記22:12)。十二年間も出血が続いていた女性はイエス様の服の房にさわっていやされた(マタイ9:20)。
14章の最後には「触れた者は皆いやされた。」と書かれている。今はイエス様の服の房をさわることはできないが、神様の言葉に日々触れることはできる。神様の言葉への信頼は、神様からの恵み、いやしを受ける秘訣となる。
【感想】
・一般的な感覚では、洗礼者ヨハネが亡くなったことで自分の身にも同じようなことが起きると考え隠れるように生活する選択肢もあったと思うが、そうではなく、弟子たちを訓練しようと活動的になられたイエス様はすごいと感じた。
・当時の人々はイエス様を直接見ることができたが、そのせいで素直に受け入れられない人々も中にはいたのではないかと思う。私たちは直に見ることはできないが、聖書を通して神様の言葉を素直に受け取ることがたいせつだと思った。




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