top of page

「新約聖書の学び」第11回 マタイによる福音書12章

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 6 日前
  • 読了時間: 7分

今月は、今年7月19日に開催された第11回の「新約聖書の学び」の内容をご紹介します。担当は橘内玲子牧師です。


【マタイによる福音書11章を振り返って】

マタイによる福音書11章の終わりでは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われた。

そして12章では、イエス様はファリサイ派の人々から、安息日に関して、律法を厳守すべきと主張されるが、そこでは神様の憐れみや安らぎはないがしろにされている。律法を厳守することによって、自己を正当化し、また、他者を裁くために、律法を用いることは、憐れみ深い神様の御心とはかけ離れている。「殺してはならない」と律法に定められているはずだが、イエス様の殺害計画にまで進んでいってしまう。

 

【マタイによる福音書12章】

安息日に麦の穂を摘む(1~8節)

・安息日は金曜日の日没に始まり、土曜日の日没に終わる。

 モーセの十戒によって、神を敬うために聖別された休息の日と定められていた。

 イエス様の時代には、安息日にしてはならない行為が細かく定められていた。

 それを厳格に守ることが律法に忠実なことの証拠とされていた。

 ファリサイ派の人々は律法を守ること、特に安息日や断食を強調したので、

 麦の穂を摘むことは仕事であり、安息日を規定する律法に違反すると考えた。

 しかし、申命記23章25節では、「隣人の麦畑の中に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」と、空腹の時には食べてもよいと、書かれているので、弟子たちが行なっていたことは、律法にかなっている。

続いて、イエス様は律法を越えて、神様の憐れみが示された物語を語られた。

サウル王がダビデを殺そうと考えていたので、逃れ去った時に、律法では祭司しか食べることのできない供えパンを欲しいとダビデが願い出たら、祭司はそれを与えた。律法を越えて、ダビデの必要に答えられた神様の憐れみを示していると考えられる。(サムエル記上21章)

そして、イエス様は、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という預言者ホセアの言葉を引用された。

「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく

   神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア書6:6)

ファリサイ派は、律法を守ることによって、この世の汚れから離れ、神様に従うという強い信念から始まったが、律法を守ることが自己目的化していった。律法を与えられたのは憐れみ深い神様であるのに、神様の憐れみの中で生かされていることを忘れてしまっていたので、律法を用いて、イエス様の弟子たちを非難していた。

そしてイエス様は、「人の子は安息日の主なのである」と言われた。安息日に関しても、権威と主権を持っているのは、イエス様ご自身であるということを示された。

 

手の萎えた人をいやす(9~14節)

ファリサイ派の人々はイエス様を訴える口実を見つけようとして、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている」と お答えになり、いやしを行われた。ファリサイ派の人々は律法に従ってどのように生きるべきかを教えていたために、イエス様が自分たちの立場や影響力をおびやかすと考えて、どのように殺そうかと相談した。いやされた人の幸いよりも自分たちの立場を守ることを重要視した。

 

神が選んだ僕(15~21節)

イエス様は人々の病気をいやされたが、言いふらさないようにと戒められた。それは、人々がいやしの奇跡のためにだけイエス様のところに来ることがないようにと考れられたからであった。イエス様は救い主としてこの世に来られたことが、イザヤの預言を通して示されている。異邦人を含むあらゆる人々に神様の正しさを知らせるために、イエス様はこの世に来られたが、争うことやご自分を強く主張することはされなかった。「傷ついた葦」や「くすぶる灯心」は弱い者を表している。弱い者と共にいてくださる救い主の預言が、イエス様によって実現された。

 

ベルゼブル論争(22~32節)

イスラエルの預言者の多くは、救い主がダビデ王の家系から出ると語り伝えていたので、「ダビデの子」とは、救い主を示していた。

悪霊に取りつかれて、目も見えず、口も利けない人がいやされるということは、ユダヤ人の中では前代未聞のことであった。当時はユダヤ人の中でも悪霊追い出しは行なわれていた。その時に使われていた手法は、悪霊に対して「お前は誰だ」と問いただしたが、口が利けないと、それさえもできないはずだが、イエス様はいやされた。これは決定的な救い主の特徴であると言える。

そこで群衆は驚いて「この人はダビデの子」つまり、救い主、キリストなのだろうかと言った。そこで、ファリサイ派の人々は「ベルゼブルの力で、悪霊を追い出している」と言った。ベルゼブルはサタンの別称で、サタン(神の敵対者)や悪魔としても知られていた。イエス様の御霊の働きを、サタンによって行っていると言った。それは聖霊に逆らう冒涜であり、赦されない罪であると、イエス様は言われた。

 

木とその実(33~37節)

ファリサイ派の人々が言った「ベルゼベルの力に悪霊を追い出している」という言葉に対して、裁きの日には自分の言葉によって罪ある者とされると、イエス様は語られた。

 

人々はしるしを欲しがる(38~42節)

先程、手の萎えた人のいやしを見たにもかかわらず、律法学者とファリサイ派の人々はしるしを求めた。イエス様は悔い改めを願っておられた。

神様はヨナに、敵国アッシリアの首都二ネべの人々が悔い改めるように語らせようとされた。神様がアッシリアを赦されることをヨナは望まなかったので、船に乗って逃げた。しかし神様は嵐を起こし、ヨナは海に放り出され、巨大な魚に飲み込まれた。ヨナは三日間祈り、吐き出された。

「ヨナのしるし」というのは、ヨナが三日間、大魚の中にいたことであり、イエス様が三日間、墓に葬られて、よみがえることを表している。預言者ヨナよりも勝ったお方であるイエス様がおられる。

ヨナ書に書かれているニネベの人々と、またソロモン王に謁見した南の国の女王(シェバの女王)は、どちらも異邦人だった。二ネべの人々はヨナの言葉で悔い改めた。またシェバの女王は、ソロモンに一回会っただけで、イスラエルにまことの神がおられることを認めたにも関わらず、ファリサイ派の人々は同じユダヤ人であるイエス様の言葉を受け入れることはできないのかと指摘されたと考えられる。預言者ヨナにまさる、また女王にもまさるイエス様の言葉であるのに。

 

汚れた霊が戻って来る(43~45節)

ここでイエス様は、イスラエルの国について語られている。イスラエルの民はバビロン捕囚(紀元前6世紀)後、離散もするが、ネヘミヤ記に書かれているように悔い改め(紀元前5世紀)、律法によって生きていこうとした。しかし、汚れた霊が追い出されても、神様による新しい統治が確立されていないなら、心は空き家同然となり、追い出された汚れた霊が悪い霊を連れて来る。

イエス様の福音に心を閉ざしたファリサイ派の人々のことが示されている。

 

イエスの母、兄弟(46~50節)     

イエス様が群衆に話しかけられているときに、母上マリヤや兄弟たちがやって来た。まだ親族にはイエス様の救い主としての言動は理解されていなかったと考えられる。

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、また母である」とイエス様は言われた。神様の御心を行う人々を家族として受け入れてくださる、イエス様の愛の広さが示されていると考えられる。


【感想】

・形式的なルールを守ることよりその場の悩みや苦しみに寄り添うイエス様の姿が、神様の御心そのものなのだと改めて考えることができた。

・「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、また母である」と、だれでもとはっきり言ってくださるイエス様のふところの深さのようなものを感じました。



コメント


御影ルーテル教会

658-0047 神戸市東灘区御影3-10-5

tel: 0788420446

©2022 by 御影ルーテル教会  Wix.com で作成されました。

bottom of page