「新約聖書の学び」第12回 マタイによる福音書13章
今月は、今年8月16日に開催された第12回の「新約聖書の学び」の内容をご紹介します。担当は橘内玲子牧師です。
マタイによる福音書12章においては、イエス様は安息日にいやしを行ったので、ファリサイ派の人々によって、イエス様を殺す相談が行なわれた(14節)。また、イエス様が悪霊に取りつかれいる人をいやした時には、悪霊の頭ベルゼブル(24節)の力を使っているとファリサイ派の人々に批判された。
また、イエス様の兄弟たちもイエス様を救い主としては信じていなかった。
13章からは、イエス様は群衆に対してはたとえを用いて語られるようになった(34節)。様々なたとえを用いて、天の国について語り、弟子たちはイエス様に説明を求めた。このようにして、弟子を教え導かれていった。
【マタイによる福音書13章】
「種を蒔く人」のたとえ(1~9節)
イエス様は、再びガリラヤ湖のほとりで教え始められた。大勢の群衆が集まって来たので、イエス様は舟に乗り、群衆は浜辺で聞いていた。すると、イエス様はいくつかのたとえを用いて語られた。たとえで話されると、話そのものは聞きやすいが、その真理を理解することは難しい。「種を蒔く人」のたとえは、集まっていた群衆にとって、たいへん身近な内容であったが、「耳のある者は聞きなさい」(9)という言葉でしめくくられている。つまり、すべての人々が理解することを期待しておられなかったと考えられる。
たとえを用いて話す理由(10~17節)
弟子たちは、これまでのイエス様の説教を聞いていたので、イエス様の語り方の変化に気付き、たとえを用いる理由を尋ねた。
「天の国」は、神様の永遠の支配を意味する。「神の国」とも表現されている。
「神の国」はイエス様の教えそのものであり、イエス様の言葉と行動のすべてであり、将来の希望としても表現されている。「天の国の秘密」(新改訳聖書では「神の国の奥義」)を知りたいという求道心を持って真剣に聞く人は、いよいよ知識を豊かにされるが、無関心な人は聞いていながら理解しないで、ますます真理から遠ざかってしまうことになる。
悔い改め(15)とは、神様への向き直ることであるので、神様に向き合うことによって、いやされていく。
一方、弟子たちは、旧約聖書にある預言がイエス様によって成就することを見聞きすることができるので、この上なく幸いであると言われた。
「種を蒔く人」のたとえの説明(18~23節)
同じ御言葉であっても、聞く者の心によって、大きな違いが起こってしまう。
御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまう人もいる。また、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑のため、実らない人もいる。そして、御言葉を聞いて理解する人は、100倍、60倍、30倍とそれぞれに豊かな実を結ぶ。
「毒麦」のたとえ(24~30節)
「毒麦」が混入した飼料を食べると、家畜は中毒を起こすとのこと。
このたとえの大切なところは、主人が毒麦の刈り取りを、収穫の時まで待つようにしたことである。その理由は、「良い麦もいっしょに抜くかもしれない」からである。
「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)とあるように、毒麦があるからといって、一緒に滅びる者がないようにと、待つ必要もある。
イエス様の十二弟子の中にも、毒麦とも言えるイスカリオテのユダがいた。イエス様を裏切り、ユダヤ人の宗教指導者に売り渡した。ユダの心はイエス様から離れて行ったが、ユダをすぐさま、裁く、遠ざけることは、イエス様はなさらなかった。そのようなユダのためにも、罪の罰の身代わりとなって、イエス様は十字架にまで、従っていかれた。
「からし種」と「パン種」のたとえ(31~33節)
「からし種」は0.5ミリ程の小さな種だが、人の背丈よりも高く成長する木となる。天の国の拡大する生命力を示している。
「パン種」はイースト菌のこと。聖書では悪影響を及ぼす物と言われることが多いが、このたとえでは、この世界全体に浸透し、内的に変革していく天の国の生命力を示している。
3サトンは約40リットルで、約100人分のパンができる分量である。
たとえを用いて語る(34~35節)
旧約聖書において、預言されているように、イエス様はたとえを用いて、群衆には語られた。
「毒麦」のたとえの説明(36~43節)
「人の子」は、イエス様がご自分のことを示す時によく使われる表現である。
「天の国」のたとえ(44~50節)
このたとえでは、人が天の国を手に入れるためならば、どんな犠牲を払っても惜しくないと思うほどの、天の国の計り知れない価値を示している。
また、網が湖に投げ降ろされ、魚を集めるというたとえは、代々の教会が行う福音宣教を示すとも考えられる。宣教の網には悪いものもかかることもあるかもしれないが、何が良くて何が悪いかは、世の終わりの審判を待たなければわからない。世の終わりには、正しい人々の中にいる悪い者がより分けられ、裁きを受ける。
天の国のことを学んだ学者(51~52節)
弟子たちはこれらのことを完全に理解したとは思えないが、イエス様は、将来の弟子たちの姿を予見して、天の国のことを学んだ者であると考えてくださっている。
弟子たちはたとえを通して神の国について理解することができたので、自分の倉に蓄えた神の国についての新しい理解と、それによって解釈し直された古い物を、自由に取り出すことができるようになると言われている。
ナザレで受け入れられない(53~58節)
その後、イエス様は故郷のナザレにお帰りになり、会堂で教えられた。しかし、母マリアや兄弟のヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、また姉妹の身近な者たちもいたので、イエス様を幼なじみのようには感じていたが、救い主としては受け入れられなかった。
【感想】
・毒麦をすぐに抜くのではなく、最後の審判の時まで待つというのは、良い麦も一緒に抜いてしまうかもしれないということと共に、それまでに良い麦に変わって欲しいという願いも込められているのかなと感じた。
・たとえ話は、今では礼拝の説教の中で、その真意を教えてもらうことができるが、当時は聞いて理解するしかなく、すぐに理解するというのは難しかっただろうと思った。




コメント