能登半島地震から3週間以上が経ちました。元旦に起こった大きな災害で、こちらの地域での揺れも大きく、お子さんやお孫さんとともに、その後の報道に注目してこられた方も多いことでしょう。被災地には発災当初から大きな悲しみが生じていますが、中学生が親元から離れ、集団で別の地域に避難、と聞きますと、それがまた新たな悲しみを生むのでは、と心を痛めます。
子どもさんたちから、「どうしてこのような災害が起こるの?」と尋ねられるケースもあるかもしれません。神様を信じていたらそのような災害には遭わない、ということにはならないので、どう答えるか困ることもあることでしょう。
旧約聖書の『哀歌』というところには、あまり教会学校で取り上げられる箇所ではないのですが、エレミヤが神殿崩壊を目にして嘆き悲しむことばが残されています。神様を信じてきた人であっても、そのような悲しみを体験することになりました。その点では、残念ながら、信じていれば悲しみや苦労はない、とは言えません。でも、エレミヤは、神様が慈しみと憐れみに富んだ方だと信じていました。そして、悲しみの先に希望がある、とも信じていました。たとえつらく、悲しいことがあっても、神様の優しさは変わらず、その先には希望があると、子どもさんたちに伝えてあげられたら、幸いかと思います。
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。
(哀歌3章22〜24節)
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