2025年9月7日 聖霊降臨後第13主日
- 明裕 橘内
- 9月7日
- 読了時間: 12分
聖書交読 詩編1編(旧約p835)
司)1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
会)1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
司)1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
会)1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
司)1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
全)1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
聖書朗読 ルカ14章25~33節(新約p137)
14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
説教 「イエス様の弟子であること」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
9月に入りました。昨日あたりはまだまだ暑かったですね。残暑が厳しいと予想されていますが、どうなりますでしょうか。今朝も、私たちの前にいのちの御言葉が開かれています。それに耳を傾けてまいりましょう。
本日の福音書の箇所の冒頭は、「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」(25節)となっております。この時イエス様は、エルサレムに向かっておられたと言われています。それを見て、いよいよメシアの支配がはじまる、と予感したのか、群衆はイエス様について来ています。彼らは恐らく、何か自分たちが責任を負わなければならない、などとは夢にも思わず、気楽にイエス様について来ていたのではないでしょうか。本来、イエス様につき従っていく人はイエス様の弟子である、ということになるはずなのですが、群衆の大部分に、その覚悟はなかったと思われます。その彼らに、イエス様の弟子であることが決して簡単なことではないことを、イエス様はいくつかのたとえを出してきて教えておられます。
イエス様はまず、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(27節)という厳しい弟子の条件を示しておられます。これはルカによる福音書だけでなく、マタイによる福音書でも、たとえば10章38節で、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と言われている中に、同じような考え方が見られます。このマタイによる福音書の場合は、それ以降の御言葉と合わせて考えると、自分の命を得ようとするのではなく、イエス様のために命を失うことが、自分の十字架を担っていくことにつながるようでした。このルカによる福音書の御言葉に関しては、のちに紹介する33節にある「自分の持ち物を一切捨てる」ということが、自分の十字架を背負うこととつながるように見えます。
そのような弟子の条件を示したうえで、イエス様は塔のたとえを話されます。口語訳では「邸宅」と訳されていましたが、この頃、ヘロデの邸宅の造営など、大きな建築事業が行われていたようです。このたとえに関しては、思い出があります。ずいぶん昔、子どもたちの小学校のPTAの会長をしていた頃、ちょうど予算を検討する時期のPTAの会合で、このたとえの箇所をお読みして、慎重に予算を検討しましょう、というようなお勧めをしたことを覚えております。そのような場面でも紹介できる御言葉ではありますが、実際は、弟子の条件のことが教えられている流れの中で語られていますので、やはりイエス様の弟子になる、ということに関係するたとえであることがわかります。
塔の造営に対して、それを完成させられるか事前に慎重に検討することは、弟子になるうえで、事前に慎重な計算と覚悟が必要であることを暗示しています。若気の至り、というわけにはいかないのです。この中には、神学校を卒業した人が何人もいますが、その誰もが、神学校に入る前は、十分にやっていけるか、真剣に、そして慎重に検討したはずです。場合によっては一人では決められないで、いろいろな方との相談のうえで、決断していった、というケースもあったことでしょう。かく言う私の場合は、関東から関西の神戸への移動が伴いましたので、より慎重に検討を加え、最終的には、フェローシップ・ディコンリー福音教団の助けを借りて、その正式な神学生として認められて、奨学金などのサポートを約束されての決断でした。それと同じように、イエス様の弟子になる、というのも、一時の感情では決められない、しっかり考えて、また祈って、覚悟を決めることが必要だ、とイエス様はおっしゃるのです。
また、続く戦いのたとえは、今の時代、あまりテーマとしてはふさわしくないように思われますけれども、この当時においては身近な話題だったのでしょう。「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」(31,32節)とイエス様はたとえを語られます。自分の兵の方が少ない時、慎重に検討してもし相手に勝てないと分かったら、和を求めるものだ、と教えるのです。戦いは命にかかわるだけに、それだけ慎重な検討が必要なのです。それと同じように、イエス様の弟子になることも、慎重な検討なしにはありえない、ということです。ある意味では、それは命にもかかわるのです。
必要な覚悟なしに、イエス様の弟子になることは、自分たちの兵の方が少ないのに、自分たちよりも強大な敵に無謀にも突入するようなことであり、また、それでなくてもイエス様は私たちを弟子として送り出すことに関して、狼の中に羊を送り出すようなものだ、とおっしゃっておられるのですから、みすみす悪魔の巣窟に丸腰で臨むようなものです。それは勇気ではなく無謀であり、勧められることではありません。それだけ世の力というものは大きく、あっという間にそれに飲み込まれてしまうものです。たとえば、チラシを配っても配っても人が教会に来ない、誘っても誘っても教会に行くのを断られる、という、日本においては当たり前に経験することであっても、もし心の準備ができておらず、そんなことなどあるとも思っていないで遭遇したら、簡単に挫折して、こんなはずではなかった、イエス様の弟子であるのは難しすぎる、ということで、単に落胆するにとどまらず、もしかして教会から離れてしまうかもしれません。そのようなことにならないように、イエス様はあらかじめ、警鐘を鳴らしておられるのです。ですから、それはもちろん、イエス様の優しさなのです。
最後に33節で、「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と結論付けますが、これは先にも少し触れましたように、すでに語られている27節の言い換えでもあります。すなわち、自分の十字架を背負ってイエス様について行くことこそ、自分の持ち物を一切捨てることでもある、ということです。
最近は、断捨離という言葉も流行っていますので、捨てる、ということに、それほどマイナスのイメージを持たないかもしれません。それでも、やっぱり世代によって、また性格によって、「捨てられないんです」というのが悩みであったりもします。かく言う私も、捨てられない、何でこんなもの残してるの、と言われるかもしれないけれども、「またいつ使うかわからない」と言って、残しているものがいくらもあります。それで、「いつか使うかも」と思っていて、結局は全くそれ以降使っていない、というものも、もちろんたくさんあります。考えてみれば、関心のないものは捨てられる、でも、自分の中で関心のあるものは、未練もあって、なかなか捨てられない。そのようなものではないでしょうか。もちろん、これは先ほども申しましたように、年代や性格によっても異なりますので、一概には言えないのですが、言うほど捨てる、というのは簡単なことではないように思います。比較的よく物を捨てる、という人の中でも、分野があって、この分野のものは気楽に捨てられるが、別の分野のものは、少し捨てるのにためらう、ということもあるでしょう。これを、先ほどマタイによる福音書から紹介した、自分の十字架を担うとは、イエス様のために命を失うこと、という教えと重ね合わせると、究極的には、単に身の回りのものを捨てる、ということを越えて、自分の命を捨てる、というところにまでつながっていく可能性があるわけですから、なお簡単なことではないことがわかります。
そう考えると、これではあまりにも、イエス様の弟子になることは難しすぎます。イエス様は、私たちを拒絶して、私たちに弟子になってほしくないのでしょうか。それでも、イエス様は、私たちを捨てて孤児にはしない、と約束してくださいました。ヨハネによる福音書14章18節の御言葉です。ですから、イエス様は私たちを拒絶してはおられません。それだけでなく、イエス様は私たちに、弟子になってほしくないわけではないはずです。イエス様は、私たちが自分の十字架を負い、すべてを捨ててイエス様の弟子になる決断をすることを待っておられます。そして、その決断の勇気と力をも、イエス様の方で与えてくださるのです。
今日はこの後聖餐式がありますので、その大事な礼典への導入として、あらためて、このイエス様の弟子であることについて、考えていきたいと思います。
ルターによる小教理問答書の聖餐の礼典の所を読みますと、そこに繰り返し出てくるフレーズがあることがわかります。それは、「罪の赦しを得させるように」という言葉です。イエス様の体と血について、繰り返し、「罪の赦しを得させるように、あなたがたのため与えられ、流された」と書かれています。それでは、そのように罪の赦しが大事にされ、それが私たちに提供されることによって、それで私たちは何になるのか、ということです。それは、イエス様の弟子になる、ということなのではないでしょうか。
時々お話ししますように、なぜこの後聖餐式の「中」で主の祈りを祈るかと言いますと、そこで祈られる「日用の糧」、その究極的なものは聖餐式で私たちに提供されるイエス様の体であるパンと、イエス様の血であるぶどう酒(ぶどうジュースで代用)ではないかと思うのです。それでは、私たちの体と生活を支える、私たちに必要なものであるその日用の糧が与えられることによって、私たちに何がもたらされるかというと、それが、イエス様の弟子になるための厳しい条件をクリアするための力、励まし、ということになるのではないか、と思うのです。そのための日用の糧、ということです。
キリストのからだと血をいただくことで、その十字架を身に帯びる、と考えるならば、それはまさに、十字架を背負うことにならないでしょうか。そしてまた、私たちが本当に必要としている罪の赦し。私たちは、やはり赦されて生きる、という側面があります。神様とのわだかまりを持ったままでは生きていけません。どうしても、赦しが必要なのです。それが、この礼典においてこそ与えられるのであれば、究極的には、「この聖餐式の恵みさえあれば、ほかには何もいらない」、というところにまで至ることもあり得るのではないでしょうか。そして、それこそ、すべてのものを捨てる、ということにつながるのです。
今日の箇所は、改めて、私たちがイエス様の弟子になるということを教えていました。「イエス様の弟子であること」と言う時、それに続く言葉は何か。「それは必要だ」であるかもしれません。すなわち、「イエス様の弟子であること、それは必要だ」ということです。しかし、その基準は厳しい。自分の十字架を背負い、すべてを捨ててついて来なさい、とイエス様は言われるのです。ということは、イエス様は私たちを突き放しているのか。そうではなく、私たちに、私たちが祈り求めるまことの日用の糧である聖餐の糧によって私たちを力づけ、あるいはまた成長させ、私たちを弟子になるようにつくり変えてくださる、すなわち、自分の十字架を負うことができ、すべてを捨てることができるようにしてくださる、それはイエス様側の業なのだ、ということなのです。これは今日私たちが耳にする、この福音書の箇所からのまさに福音です。これを胸に、今週の歩みをスタートさせましょう。
お祈りします。
天の父なる神様。この朝の礼拝のひと時を感謝します。あなたの御前に出て、あなたからの恵みをいただくことができありがとうございます。自分の十字架を背負い、すべてを捨ててイエス様の弟子になることは簡単な事ではありません。しかし、だからといってイエス様は、私たちが弟子になるのを拒絶しておられるのではありません。私たちが弟子になろうとすることを喜ばれ、御言葉と聖餐の糧によって私たちを強め、イエス様の弟子へと造り変えてくださることに感謝いたします。私たちの弟子としてのこの地上での歩みを強めてください。なお弱さの中にある方々、生きにくさを感じざるを得ない人々に、あなたの福音による慰めと助けがありますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日は礼拝後に昼食会があり、フェローシップMLCの交わりの時に、すこやか感謝会を行います。人生の諸先輩方に感謝を表す一時となりますように。

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