2025年9月14日 聖霊降臨後第14主日
- 明裕 橘内
- 5 時間前
- 読了時間: 11分
聖書交読 出エジプト32章7~14節(旧約p147)
司)32:7 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、
会)32:8 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」
司)32:9 主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。
会)32:10 今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」
司)32:11 モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。
会)32:12 どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。
司)32:13 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」
全)32:14 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。
聖書朗読 ルカ15章1~10節(新約p138)
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
説教 「天にある大きな喜び」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
9月半ばになってもまだまだ暑い日が続いております。夏の疲れもすでにピークに達しているかと思いますが、皆さんいかがでしょうか。
この暑さの中で、まさに日本の気候が変化している、ということを痛感しているわけですが、それだけでなく、社会の価値観も、様々に変化をしています。コロナ禍を経て、私たちはますます人間関係の希薄化というものを経験しています。そのような中で、私たちの社会において、一人の価値、というものは変化しているのでしょうか。時代がたつにつれて、社会はよくなっていく、という夢想の中で、それでも、一人の価値、というものはいつも集団の中に埋もれて、なかなか大事にされない。この社会の中で、一人声を上げたところで、何が変わるだろうか、という無力感は、想像以上に大きなものです。そのような、集団と個のせめぎあいの中で、それでも、変わらずに個が大事にされてきたのが、まさに聖書の価値観です。今日はまさに、そのような、一人の価値、というものを、再確認できるような福音書の箇所が開かれています。
イエス様は、当時ユダヤにおいて嫌われていた徴税人や罪人と呼ばれる人々と積極的に関わろうとしておられました。ですから彼らも、イエス様のもとに、「話を聞こうとして」(1節)近寄って来たのです。徴税人たちは、通行税などを徴収していましたが、異邦人であるローマの手先のように思われていただけでなく、宗教的に汚れているとさえ思われていました。罪人、というのは、私たちが普段自分たちを指して「私は罪人に過ぎません」と言う時の罪人とはまた異なり、習慣的に十戒をはじめとする律法を守れない人々、その中には羊の世話をする羊飼いなども含まれるのですが、そのような人々のことを指していました。決して犯罪者、という意味ではありません。
このように、徴税人や罪人と呼ばれる人々がイエス様のもとに集まってくる様子は、なぜかファリサイ派の人々や律法学者たちにも知られることとなりました。それだけ、いい意味でも悪い意味でも、イエス様は注目されていたのです。そして、ファリサイ派の人々や律法学者たちは反発し、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(2節)と文句を言い出します。彼らの中には、「一人の価値」どころか、皆に嫌われている徴税人や罪人と呼ばれる人々に、価値などない、という思いがあったのでしょう。誰がイエス様と一緒に食事をしたって、いいじゃないですか。しかし、それが許せない。何であんな、価値のない者たちがイエスのもとに集まっているんだ、とばかりに、遠慮もなく非難するのです。もしかしてその中には、「なぜ迎えられるのが私たちではないのか」という妬みも含まれていたかもしれません。
そもそも、「この人は罪人たちを迎えて」というのは、ファリサイ派の人たちの解釈です。「迎える」は「受け入れる」とも訳されるのですが、受け入れて、ウェルカムする、という意味です。イエス様が罪人たちと接している様子を見て、それをウェルカムしている、とファリサイ派の人たちは解釈していたのです。彼らはそれだけ、イエス様のことをよく見ていた、ということを表しています。そして、かなりうらやましく思っていたのではないでしょうか。
ファリサイ派の人々の批判を受けて、どれだけ徴税人や罪人を大事にしておられるかを明らかにするために、2つの類似したたとえをイエス様はお話しになられます。本当は、続く「放蕩息子のたとえ」もセットになって、3つの連続したたとえだったようです。いずれもテーマは同じです。徴税人や罪人を大事にされるイエス様は、それよりさらに一歩進んで、「一人の価値」ということにもまた、触れていかれるのです。
一つ目のたとえは、新共同訳の小見出しによると、「見失った羊」のたとえと呼ばれています。百匹の羊を持っている人が、そのうちの一匹を見失ったら、残りの九十九匹を置いても見失った一匹を捜し回るものだ、とイエス様はお話しになります。ここには、一匹を大事にする羊飼いの姿が描かれています。ですが、実際この当時、ここまでする人はいなかったであろうと言われています。ですからこれは明らかに、イエス様ご自身のことを指しています。私たちの良い羊飼いであるイエス様、ということです。
しかも、7節で見失った羊を「悔い改める一人の罪人」と言い換えていることからすると、これは羊の話をしているのではなく、人が悔い改めることについて話している、ということがわかります。人が悔い改めれば、天において大いなる喜びがある、とイエス様はお話しになります。今ここに集まっている徴税人や罪人が悔い改めたら、天において大きな喜びがあるのだ、とイエス様はおっしゃるのです。しかもそれは、集団でなく、一人悔い改めることで起こる、というのです。
次のたとえも内容は同じです。当時ドラクメ銀貨一枚というのは、羊一匹の価格に相当したと言われています。先ほどの見失った羊のたとえで出てきた一匹の羊と、このたとえでなくした一枚のドラクメ銀貨は、同じ価値であることがわかります。そのことから、先のたとえとの関連で語られています。二度同じようなたとえを話しておられるのは、それだけこの「天においての喜び」が大きなものだからでしょう。
先のたとえと同じように、なくした銀貨一枚を見つけたら、皆で喜びますが、これが、天における喜びをたとえている、ということになります。銀貨一枚を見つけて、地上で友人同士喜ぶように、一人の罪人が悔い改めれば、天においても神の天使たちが喜ぶ、と教えておられます。
もう少しこのところを詳しく見ていくと、見失った羊のたとえの方は、地上で一緒に喜ぶのはみんな男性です。友達も近所の人も、男性形で書かれているのです。それに対し、ドラクメ銀貨をなくした女性が共に喜ぶのは、女友達であり、近所の女性たちです。女性形で書かれています。ここからわかることは、喜ぶ範囲の広さです。男性だけが喜ぶ、また逆に、女性だけが喜ぶ、というのではなく、男性も女性も、このなくしたものを見つける、という喜びにあずかることができる。それと同じように、天においても、実に幅広い範囲で、喜びが起こる、ということなのです。ですから、大きな喜び、というのは、大小のことだけでなく、範囲の広さ、規模、それも表すのではないかとも思えてきます。
この喜びは、私たちが救われた日にも天において沸き起こりました。天のごく一部で、ひっそりと、ではなく、広範囲にわたって、天においては、天使たちも巻き込んでの、大きな喜びが起こったのです。そしてそれは、天におられる神様の喜びをも表しています。神様は私たちのことを、喜んでおられるのです。
どうせ私一人、と思われるでしょうか。いえ、そうではないのです。改めて、聖書における、一人を大事にする神様の姿を思い起こしましょう。それには、今日読みました、交読文の御言葉も参考になります。
今回、少し長かったのですが、出エジプト記から共に交読しました。出エジプト記32章7節から14節で、モーセが主なる神様から十戒を受け取った後、そんな大事なときに、何とイスラエルの民はモーセが不在であることに不安を覚え、金の子牛の像を作り、堕落していきます。主はそんな彼らを滅ぼそうとされますが、モーセがとりなして、神様に思い直していただく、というエピソードです。この時、イスラエルの危機に際して、立ち上がったのはモーセ一人でした。モーセ一人で、何ができるでしょうか。でも、モーセが立ち上がることで、主なる神様は災いを思い直されたのです。その時に、モーセはこう言いました。
「どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください」(出エジプト32章13節)。
イスラエルとは、ヤコブのことです。ここで、モーセは「強大な民を思い起こしてください」と言ったのではないのです。もちろん、イスラエルは強大な民ではなかったのですが、ここでは、数で勝負、ということではなかったのです。現代において、選挙にしても、私一人投票したところで何も変わらない、政治にしても、私一人発言したところで何になる、という無力感が漂っていますが、神様はアブラハム、またイサク、そしてヤコブ、という個人を見てくださる方なのです。世界から見たら、実にちっぽけな一人の存在、しかも、完璧でもないアブラハム、あるいはイサクやヤコブを見て、神様は思い直される方なのです。
そうであるならば、創立70周年を迎えようとしている御影ルーテル教会、また昨年秋より新しい場所を得てそこでの礼拝を開始した園田伝道所において、一人が立ち上がれば、教会は、また伝道所は変わるのです。神様が、一人を見てくださる方だからです。教会は、数で勝負、の世界ではない。一人が真剣に神様の前に出て、祈りにおいて訴え出る時に、神様はどんな小さな声でも聴きとってくださり、その力強い御手を差し伸べてくださるのです。
今日は、もう皆さん良くご存じかとは思いますが、改めて、一人の価値、というものを確認してまいりました。本当の意味で、一人が大事にされる世界、それは完全にこの地上では実現しないかもしれません。だからこそ、私たちは天を仰ぎ、そこにある大いなる喜びにあこがれ、そこで、私、という個人が本当に認められ、報われる時を待ち望むのです。そして、それは願っても手が届かない希望ではありません。私たち一人一人を大事にされ、どこまでも捜し出し、見つけては肩に担って、帰るべきところに帰してくださるイエス様が、その苦難の十字架において私たちの罪を赦し、救ってくださって、私たちに天に迎えられる望みを与えてくださいました。そして、私たちが救われたその日に、天においては、大きな喜びがわき起こったのです。神様に喜ばれている、私たち一人一人。そのことを知ることは、私たちにとっても喜びです。まさに、今日耳にする福音です。この喜びに、今週も生かされていくのです。
お祈りします。
天の父なる神様。この礼拝の時を感謝します。あなたが御言葉から語ってくださり、感謝します。あなたは、一人を大事にしてくださいます。一人の力などあってないようなものだ、と諦めがちな私たちに、それは福音として届きます。あなたは私たち一人一人を見て、その救いの時に喜んでくださいました。天に大きな喜びがありました。その喜びを受けて、それに励まされて、私たちも希望を持ってこの世を歩んでいくことができますように。困難の中を歩む方々、生きにくさを覚える方々に、あなたの福音による慰めが届きますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・来週は礼拝後、新約聖書の学びがあります。本日午後の園田伝道所礼拝では、時田直也さんが賛美してくださいます。

コメント