2025年8月3日 聖霊降臨後第八主日
- 明裕 橘内
- 8月3日
- 読了時間: 10分
聖書交読 ルカ12章13~21節(新約p131)
司)12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
会)12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
司)12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
会)12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
司)12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
会)12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
司)12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
会)12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
全)12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
聖書朗読 コロサイ3章1~11節(新約p371)
3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
3:7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
3:8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
3:9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
3:11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
説教 「上を目指して」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
暑い毎日が続いておりますが、皆さんよくお集まりくださいました。あまりの暑さに、何かに向かって進む、というのも難しいような状況ですが、本日開いていただいている聖書箇所は、人間の上を目指して、そこに向かって行きたいという上昇志向に沿って、上にあるものを求めるように、と教えています。一緒に開いているこのコロサイの信徒への手紙は、本日の箇所から、倫理的勧めの部分となっています。パウロは、信仰者はキリストと共に復活させられたのだから、キリストによって、キリストと共に新しい生き方をせよ、と勧めています。それが、一言で言えば、上にあるものを求めて生きる、という生き方なのです。
1)上にあるものを
ここでは、「上にあるものを求めなさい」と勧めたうえで(1節)、改めて「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(2節)と勧めています。このように繰り返されていることからしても、この、「上にあるものを求めなさい」というのが、本日の箇所の中心であることは間違いないでしょう。ちなみに、「上にあるもの」とは、天国に属するもの、と考えていいかと思います。
このように、「上にあるものを求める」、また、それが言い換えられて「上にあるものに心を留める」と言われている土台は、キリストの復活にあります。私たち信じる者が、洗礼によってキリストと共に復活させられたのだから、上にあるものを求めるのだ、ということです。そのことからも、キリストの復活自体が、地上の事柄に属するのではなく、上にある天に属することであることがわかります。
1節後半の、「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」という表現からも、「上」というのが、神様がおられる領域である「天」のことである、ということがわかります。そこで、キリストが神の右の座についておられる、と言われています。「右の座」というのは、権力と栄誉の場所のことです。場所、あるいは位置として、右か左か、というよりも、キリストが天において、そのような重要な場におられる、ということのほうが重要です。キリストの偉大さを表す表現です。
2)逆に、地上的なものについて
続いてパウロは、むしろ「地上のものに心を引かれないように」という面について、詳しく教えています。「地上的なもの」を「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」(5節)であると特定し、ことに最後の貪欲に関しては、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と、警戒を強めています。「貪欲」とは、もとの意味は「もっと持ちたい欲望」であるとされています。誰しも、日用品や嗜好品などの持ち物ばかりでなく、神様に仕えるための賜物であっても、もっと持ちたい、という思いを持つものです。私たちは、つい周りの人と比較してしまって、私よりあの人の方が教会でよく奉仕している、私にもそれだけの賜物や奉仕の機会がほしい、と思ってしまうこともたびたびかと思います。しかし、そのような「もっと持ちたい」という思いがが度を越すと、害となる、ということです。
ここには、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」と、言ってみれば5つの悪徳のようなものが指摘されており、それは人間の五体に働く欲であると考えられていたのかもしれません。あるいは、12節に指摘されている「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」と、同じ5つということで、数が揃えられている可能性もあります。いずれにしても、これらは、この当時のコロサイの教会において、その信徒たちが陥りやすい罠のようなものでした。多少どぎつい表現のようにも思われるので、現代の日本に生きる私たちには無関係であるようにも思われます。このようなドロドロしたものは、テレビの2時間サスペンスとか、そういったものでしか見ることのないもののような気もします。しかし、これを人間の持つ古い性質と捉えるならば、多少なりとも、私たちにもそのようなものは残っているわけで、そのようなものに戻っていかないように、キリストと共に復活した者として、それらから離れて生きるよう、パウロの勧めを聞いていきたいと思います。
このことに関して、ちょうどこの前の三浦綾子読書会で読んだ『光あるうちに』の中の「自由の意義」というエッセーを思い出しました。そこでは、「人間には拒絶する自由もある」と書かれてあり、言ってみれば「誘惑に乗らない自由」もある、ということが打ち出されていました。悪い欲望や貪欲への誘惑は私たちから去ることはないのでしょうが、それに乗らないといけない、そのように束縛されているわけではありません。そのエッセーの中では、「真理はあなたがたたを自由にする」という、有名なヨハネ8章の御言葉が引用されていましたが、そのように、私たちはすでに真理であるイエス様によって自由にされており、それは、誘惑からも自由にされているのです。そのことに感謝する思いです。
さて、このあと、さらに「地上的なもの」を「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」(8節)であるとして、それらを捨て去るように勧めています。怒り、憤りといったものはコントロールしがたいものですし、人は誰でも口で罪を犯しがちなものです。だからといって、人間だから仕方がない、と開き直るのではなく、キリストと共に復活した限りは上を目指していくのだ、という一致した思いをもとに、それらから離れたいものです。特に、たいへん具体的なこととして、口から出る言葉に気を付ける、ということは、今日、今からできる、キリストに従う生き方です。完璧にできるかどうかを考えるよりは、キリストと共に復活した者として、ぜひともふさわしく生きたい、という敬虔な願いを持って、言葉には気を付けたいものです。何も語らなくなる、というよりは、周りの人の役に立つことを、徳を高めるために必要に応じて語る、というのがパウロの勧めでもありますので、そのことが実践できればと思います。
加えて、パウロはうそをつくことを禁じ、古い人を脱ぎ捨てるように求めています(9節)。
3)改めて、上にあるものを求める
これは、上にあるものとは、このようなものではない、と訴えているかのようです。上を求めるとはこういうことなのだ、と具体的に教えるよりは、地上的な生き方がどのようなものかを具体的に、詳しく述べて、「そうしないように」と教える。そしてそれがすなわち、上にあるものを求めて生きることなのだ、という論の展開の仕方です。
そして、10節でパウロは、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」るように勧めます。とてもわかりやすい教えです。エフェソの信徒への手紙でも教えられている、パウロ独特の教えで、一言でいえば「新しい人を着なさい」ということです。もちろん、9節の「古い人を脱ぎ去る」という教えとセットになっています。新しい人を着る前には、その前提として、古い人を脱ぎ去るのです。着替えと同じです。ただただ上に積み重ねていくのではなく、まずは古いものを脱ぐのです。このことが大切です。ですから、古い人を脱ぎ去ることが、地上的な生き方を離れる、ということを意味します。そして、新しい人を着る、ということが、上にあることを求める、ということと実質的に同じ、ということになるのです。
パウロは、その効果、あるいは結果についても書き進めます。そのように、古い人を脱ぎ去り、地上的なことを捨てて、新しい人を着て上にあるものを求めれば、日々新たにされ、真の知識に達することができる、ということです(10節)。日々新しくされるとは、なんと素晴らしい恵みでしょうか。古い人を脱ぎ去って行くのですから、このことは必ず実現します。そして最後には、「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(11節)と言われるほどの恵みが広がっています。そこには何の区別もなく、キリストがすべてのすべてとなっているのです。そのような世界を、目指して進むのです。
本日はこのように、上にあるものを求める、ということについて、御言葉から聞いてまいりました。聖書の中では、上にあるものと地上のもの、あるいは新しいと古い、光と闇など、二つを対比させて、どちらを選ぶか、と迫られることがあります。その時、私たちが上にあるもの、すなわち天国に属するもの、キリストによって新しくされたもの、世の光であるキリストの光が当てられたものを選べるように、と願います。特に、上と下だと、上を求める、というもともとの価値観もありますので、選びやすい、ということはあろうかと思います。しかしそれが、人間の、神様抜きの上昇志向に過ぎないのであれば、ちょっと立ち止まって、自らの心の中を点検しなければなりません。人間として生まれてきた限り、何が何でも、人を蹴落としてでも上に行きたい、という上昇志向と、ここで言われている上を目指していくのとでは決定的に異なります。そこには、キリストがおられます。キリストと共に復活させられた者だからこそ、上にあるものを求めるのです。しかも、そのキリストは、天において神の右の座におられる偉大なる方ですから、その方と共によみがえらされた私たちは、その方がおられる天を目指して、なお上にあるものを求めて、生きるのです。
お祈りします。
天の父なる神様。あなたの御名を賛美します。この礼拝の時に導かれ、御言葉を聞くことができ感謝します。罪ある者が、恵みの洗礼を受けることでイエス様の十字架と共に罪に死に、キリストと共に復活し、新しい生活へと導き入れられていること、感謝します。それは、上にあるものを求めて生きる生き方です。地上の古い部分を脱ぎ捨て、新しい人を着て、日々新たにされる生活を送れる恵みは何と大きいことでしょう。これからもその歩みを続けることができるよう、導いてください。この異常な暑さの中でも私たちが守られ、また、世界の戦火の絶えない地に生きざるを得ない人々にも、あなたが平和を実現してくださいますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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・本日は下山主事の就任式がありました。午後はミニバザーです。

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