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2025年8月31日 聖霊降臨後第12主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 8月31日
  • 読了時間: 12分

聖書交読 詩編112編(旧約p953)

司)112:1 ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人は。

会)112:2 彼の子孫はこの地で勇士となり/祝福されたまっすぐな人々の世代となる。

司)112:3 彼の家には多くの富があり/彼の善い業は永遠に堪える。

会)112:4 まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。

司)112:5 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。

会)112:6 主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。

司)112:7 彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。

会)112:8 彼の心は堅固で恐れることなく/ついに彼は敵を支配する。

司)112:9 貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。

全)112:10 神に逆らう者はそれを見て憤り/歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。


聖書朗読 ルカ14章7~14節(新約p136)

14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、

14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。

14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。

14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。

14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。

14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


説教 「私たちにとっての幸いとは」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


導入

8月も最後の日となりましたが、まだまだ強烈な暑さが続いております。皆さんは体調の方いかがでしょうか。最近はこの猛烈な暑さによって、子どもたちが外で遊ばない、という現象が起こっているそうです。それだけでなく、一つの最近の傾向として、街中で肩がぶつかった、ということで何かのトラブルに発展する、ということも見受けられるようです。暑さのストレスもあるのでしょうか。


ひとつには、歩きスマホが原因になっているとも言われます。それが原因で、人ごみの中で肩がぶつかる、ということです。皆さんも人ごみに出かけられるときは、ぜひ歩きスマホの人にぶつかってしまわないようご注意いただければと思います。中には、歩きスマホの人になぜ道を譲らなければならないのか、そんなことをしている人は懲らしめなければならない、と、わざわざ自分からぶつかっていく人もいるそうで、そんな世の中になってしまったのか、と驚きますけれども、自分は正しい、と思い込んでしまっているんでしょうね。


では、その背後には何があるのか、ということを考えますと、なかなか自分を低くすることができない、という心理があるようにも思えるのです。皆さんいかがでしょうか。私は間違っていない、歩きスマホの方が悪いんだ、と胸を張る姿は高慢、あるいは傲慢にも見えてきて、なかなか身を低くすることができない。もしかして、私の方が間違っているのかもしれない、と腰を低くすることができない。そのような、謙遜になれないことが、様々なトラブルのもとにあるようにも思うのです。


本日の福音書の箇所を開いてみますと、イエス様がご覧になった状況は、まさに、身を低くできない人の姿です。「招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて」、イエス様はたとえを用いて教え始められます。この箇所を通して、イエス様は本当の謙遜と愛について教えておられる、と言われます。少しずつ読み進めてまいりましょう。


イエス様の当時にも、「上席」、すなわち上座の概念があったようで、人には内心、そこへ向かいたい気持ちがないわけではありませんが、イエス様はむしろ率先して「末席」に座るように勧めます。「上席」は第一の席、「末席」は「最後の場所」という意味です。率先して末席に座り、あとで「もっと上座へ」と勧められたら、あなたは面目を施すことになる、ということです。これは、それによって「栄誉を得る」というような意味合いです。


これは単に人間の間での話ではなく、神様の前で自らを低くすることを勧めるたとえです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)と、旧約聖書の箴言のような教えが続きますが、旧約聖書の伝統に生きておられたイエス様ならではの教えです。これは自らを高くするのではなく、自らを低くすることを勧めるものです。


先ほどのトラブルの話でもそうですが、「私は正しい」とふんぞり返って高慢になり、自分を高くすることが、間違いのもとであることになります。婚宴の席で上座を選ぶのも、私の価値基準が正しい、絶対だ、と思っていることの表われです。だいたい、婚宴の席では席次というのはたいへん気を遣う問題で、大抵は宴席の主催者の方が、あらかじめ角が立たないよう、席次は決めてあることが多いのです。それなのに、「私が上座に座るのは当たり前だ」とばかりにズカズカと上座に向かって行くというのは、「もしかして私の方が低いかもしれない」などとは思いもよらない、「まずは主催者側の決めた席次に従うべきだ」と身を低くすることもない、たいへん高慢で傲慢な姿勢だと言わざるを得ません。


あなたがたはそうあるのではなく、むしろ身を低くして末席に座るのだ、とイエス様は教えられますが、これは神の国の精神を表す、とも言われます。神の国は、高慢や傲慢とは無縁なのです。私が正しいに違いない、という思い込みの入る余地はないのです。謙遜に、身を低くして、「他の人の意見を聞こう」「私も間違っているかもしれない」と思うところに、神の国は始まるのです。


ここで神様は何も、私たちを束縛して、「末席に座りなさい」と押さえつけようとしておられるわけではありません。今日は「私たちにとっての幸いとは何か」ということを考えたいのです。すなわち、高慢で、上席ばかり求めているようでは、幸せではないよ、ということなのです。むしろ身を低くして、真っ先に末席に行くことができるような人生の方が幸せだ、それがあなたがたにとっての幸せだ、とイエス様はおっしゃるかのようです。


考えてみれば、「身を低くして末席に座りなさい」と言われたところで、それで素直に「その通りだ」と思って末席に向かえるようであれば何の苦労もないのです。なかなか自らを低くすることができない。それで悩むわけです。あるいは、「わかりましたよ、末席に座ればいいんでしょ、座れば」ということで、いやいや従うというぐらいが関の山。そう簡単に身を低くすることはできません。そこには葛藤があるわけです。だからこそ、「身を低くできない」と悩むよりは、「心の高慢から解放されて、すがすがしく身を低くして末席に座れる方が幸いですよ」と私たちに「何が幸せか」を示され、それに憧れるように導かれるのが、私たちの救い主イエス様であるわけです。


そのように、肉のままでは人間は自らを低くすることができないのですが、聖霊によって照らされて自らの高慢の罪が示されるとき、人はイエス様のもとに駆け寄り、赦しを得、きよめられて自らを低くすることができる自分へと変えられていくのです。そうやって、私たちは高慢から解放され、身を低くする幸いにあずかるのです。


12節からは、招かれる立場から、招く立場の人の方に視点を変え、本当の愛について語られています。宴を催す際に、近所の金持ちなど、自分に利のある人を招くのでは、それは人間関係を単に利用しているだけで、本当の愛に基づく行為ではありません。いずれ自分に帰ってくることを期待しているからです。そのようなことが期待できない人を招くことができるのは、愛が与えられている時だけです。イエス様によってその愛をいただけるのは、私たちの幸いです。


今日私たちは、福音書を開いています。ということは、このところから福音、すなわち良い知らせを聞くことができる、ということです。最後にまとめとして、今日の福音は何か、ということを確認したいと思います。


まず第一には、私たちが高慢から解放され、謙遜にしていただける、これが本日の福音書か

らいただく福音、良い知らせです。


本日は、礼拝後、午後1時から映画会がありまして、三浦綾子の小説が原作の『氷点』を鑑賞することになっています。三浦綾子と言えば、教会で毎月第4週目午後に三浦綾子読書会を開催しておりまして、私たちに関係の深い作家です。この『氷点』に関しては、何せそれまで全く無名であったひとりの主婦が朝日新聞社の一千万円懸賞小説に当選したということで、たいへんに話題になったと言われています。文庫版の『氷点』下巻には、関西学院の水谷昭夫氏による素晴らしい解説が載っています。そこには、こんな一文があります。三浦綾子氏が、当選を報じる新聞記事の中で、小説執筆時に、「寝る前に必ず主人と旧約聖書を一章ずつ読んだ」と語っているのを受けての文章です。少しお読みします。「一日の仕事を終えて、夫とともに食卓をかこみ、旧約聖書一章ずつを読んで祈る。そんな彼女の姿に、私は多少古風だが、あのミレーの『晩鐘(ばんしょう)』を思い浮かべる。自己主張にはじまって自己主張におわる、私たちの時代のうんざりするような小説作法とはいささかちがう」。ここでは小説作法について言われているのではありますが、でも、これは現代にも通じる、謙遜さを忘れた、自らを高くする人々の姿をも鋭くしているようにも思えるのです。「幸せを求めるなら何をしてもいい」、という大義名分のもとに、「自己」というものが肥大化して、私が、私がと主張して生きる姿は、冒頭でお話しした「私は正しい」と主張して、人ごみで肩をぶつけながら歩く一部の現代人の姿ともどこか共通しているようにも思えてきます。


幸せを求めて、私が幸せになるんだ、と自己主張し、我が物顔で世の中を闊歩して、それで幸せになったのかと言うと、そうではありませんでした。『氷点』をはじめとする三浦綾子の文学は、そのような姿勢とは全く異なり、静かな幸せを表しており、高慢、あるいは傲慢へともつながっていく果てしない自己主張からは全く解放されていたのです。それは、三浦綾子氏のイエス様への信仰に基づくものでした。幸せを求めながらも、そのあくなき追求の中で、逆にそれにとらわれて、不幸せになっていくジレンマの中に、三浦綾子文学は、謙遜であるとか、それをもとに静かに生きる幸せを示していったのです。それは、本日の福音書が語る福音、身を低くして生きる幸いにも通じるものです。私たちが、ともすると高慢に生きざるを得ない、なかなか身を低くすることができない、という葛藤の中で、イエス様によって、その高慢から解放され、身を低くして謙遜に生きることができ、それを通して本当の幸いをいただける、というのは、まさに福音であるのです。


第一がだいぶ長くなってしまいましたが、次に、本日の福音書から得ることの出来る福音、良い知らせの第二番目、それは「本当の愛をいただける」ということです。人間関係すら、どこかで自分のために利用しようとしてしまう、それが人間だ、そのように、本日の聖書箇所は鋭く指摘します。せっかく宴を開くなら、自分にとって得となる人を招きたい、と思うのは、ごく自然な人間心理であるのかもしれません。私たちの信仰の交わりが、そのようなものであってはならないことを、このところでは語っています。どこかに利害関係の陰のある人間関係が、幸せであるはずがありません。そのことを、イエス様は伝えようとしておられるのです。


その反面、洗礼によって新しい人がよみがえりながらも、なおも古い人が残っている私たちに、その肉の力で、完全に愛に基づいて人間関係を築くことは不可能です。どこかに、「得になることはないか」と、利害関係が働くのは目に見えています。それから解放されることのない私たちに、「本当の愛が与えられる」という希望を与え、その道筋を示すのが、本日の福音書の役割です。イエス・キリストによって罪赦された者が、新しく変えられて、キリストの愛をいただき、それに基づいて生きるようになる。「あなたは幸いだ」と語られるイエス様の存在こそ、この世に対する福音、良い知らせであり、この方が、本当の愛に基づいて生きる幸い、利害関係から解放され、純粋に人を愛して生きる幸せを私たちに与えてくださるのです。


本日の福音書の箇所の最後に、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とあります。「正しい者が復活するとき」とは、信仰深い人々が神様の永遠の支配の中で生きるために、死から呼び戻される将来の時、と説明されることがあります。この世において、報われることばかりではないことが多い私たちに、たとえ将来のことであっても、「あなたは報われる」と、確かに約束されていることは、もしかして本日の福音書の箇所での、三つ目のよい知らせ、福音であるかもしれません。私たちは高慢という縛り、束縛から解放され、すがすがしく、身を低くして生きる幸いが与えられます。また、利害関係の陰のある、実りのない、それこそ報われないような人間関係から解放されて、イエス様の与えられる本当の愛に基づく、豊かな人間関係を築く道が開かれました。そして、私たちの将来には、報いがあります。私の人生、これでよかったんだ、と納得できる将来が、私たちを待っています。このうだるような暑さの中で、疲労感の方が先だって希望も何もない、となってしまいそうな中で、私たちには希望が与えられています。その希望に向かって、新しいスタートを切ることができますように。


お祈りします。

天の父なる神様。今朝のこの礼拝の時を感謝します。

私たちに、高慢から解放され、身を低くして生きる幸いの道を示してくださり、感謝します。また、利害関係からも解放されて、愛に基づく人間関係の持つ幸いも、あなたは示してくださいました。しかも、ただ示すだけでなく、そのように生きることができるように、私たちの罪を赦し、汚れをきよめ、新しく造り変えていてくださることに感謝します。まだまだ暑い日は続きますが、その中でも勇気を失わず、あなたが与えてくださる報い目指して、希望を持って進んで行くことができますように。生きづらさを抱えて生きる人々の上に、あなたの助けがありますように。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日は三浦綾子読書会はお休みです。その代わり、来週8月31日、午後1時より映画上映会があり、三浦綾子の小説が原作の『氷点』を鑑賞します。それぞれ昼食をとってから、ご参加ください。


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