2025年8月24日 聖霊降臨後第11主日
- 明裕 橘内
- 8月24日
- 読了時間: 12分
2025年8月24日 聖霊降臨後第11主日
聖書交読 詩編103編1~8節(旧約p939)
司)103:1 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。
会)103:2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
司)103:3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
会)103:4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
司)103:5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。
会)103:6 主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。
司)103:7 主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。
全)103:8 主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。
聖書朗読 ルカ13章10~17節(新約p134)
13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
13:12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
13:17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
説教 「束縛からの解放」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
先週は神学校デーでした。神戸ルーテル神学校から校長代行の小賀野先生、また土井神学生が来られ、豊かな礼拝の時となったことに感謝します。私の方は、小賀野先生の東徳島ルーテル教会に、神学校の後援会会長として、後援会デーということで行かせていただきました。途中、車のナビが全く何も言わないぐらい、ほぼまっすぐに淡路島をひたすら走る、という感じでしたが、無事奉仕してくることができました。お祈り感謝します。
それでは、本日の福音書の箇所を見てまいりましょう。イエス様は、会堂、すなわちユダヤ人たちがみことばと祈りのために時を過ごすシナゴーグで教えることに熱心でした。とある安息日にも、イエス様は会堂で教えておられたのです。
すると、その会堂に、「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」(11節)女性がいました。現代においては、どのような病、また症状だったのでしょうか。私はパーキンソン病の患者さんで、体がもう折れ曲がるかのように、腰が曲がったままの方を見たことがあります。現代においては異なりますが、イエス様の当時は、そのような状態は「十八年間も病の霊に取りつかれている」(同節)とみなされていました。病が何かの霊によるものであると考えられていた時代背景を考えに入れる必要があります。
イエス様はその女性を見てくださいました。他にも会堂には人がいたのに、また、あとで出てきますが、会堂長と呼ばれる立場の人もいたのに、誰も彼女の存在に目を向けませんでした。見て見ぬふりをしていたのです。しかし、イエス様はそのような人に、目を留めてくださったのです。しかも、彼女をイエス様は呼び寄せました。イエス様は、彼女の近くにいようとされたのです。誰もがどう接したらいいか迷い、遠巻きに見ていた彼女の隣人に、イエス様はなられたのです。
そしてイエス様は、「婦人よ、病気は治った」(12節)と言われます。これはある意味で、病気からの解放の宣言です。このところ、新しい新改訳2017は、「女の方、あなたは病から解放されました」と訳しています。原文の書き方をふまえて直訳するならば、「すでに病から解放されています」としてもいいぐらいのところです。
13節で、イエス様が手を置かれると、彼女はすぐに回復します。「腰がまっすぐになり」とあるところは、原文では「回復される」であるとか、「強められる」「再建される」という言い方になっています。曲がっていた腰が、ただまっすぐになっただけではないのです。それはいやしだったのです。回復だったのです。そのことを経験して、彼女は「神を賛美した」とあります。「神をあがめた」と訳すこともできます。よほどうれしかったのでしょう。会堂の中にいて、周りに人が大勢いるのに、人の目も気にせず、彼女は神様をほめたたえたのです。どんなことばでほめたたえたのでしょう。私たちは本当にうれしかったりすると言葉も出ないものですが、彼女は「何と言っていいかわかりません」などと口ごもったのではなく、はっきり神様を賛美したのです。昨日は祈祷会がありましたが、エズラ記3章を読んでおりまして、バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民が、神殿再建の工事が始まったことを喜び、「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」という具体的な言葉を用いて主を賛美したことが記録されていました。そのような、賛美の伝統のあるイスラエルに属する婦人でしたから、もしかして彼女も明確に、「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」などといった、旧約聖書の御言葉に土台のある賛美の言葉を用いて、神様を賛美したのかもしれませんね。
こんなすばらしい出来事に対し、私たちには意外と思われるような出来事が起こりました。そこにいた会堂長、彼はこの女性に対して何も働きかけをしていなかったのですが、彼は腹を立て、「安息日はいけない」(14節)と言います。これは、イエス様が、安息日なのに、彼女をいやしたから出てきた言葉でした。と言うのも、当時、病気のいやしも労働ととらえられ、安息日にはしていけないと考えられていたのです。「腹を立てた」というのは、怒りに突き動かされた、ということで、よほどイエス様がなさったことが気に入らなかったのでしょう。
なんでこんなことを言うんだろう、と思ってしまいますが、でも、このように、大事な神様の働きがなされているのに、それを理解せず、立腹したり、妬んだりするのは、私たちの身の回りにも起こることなのではないでしょうか。ある人は、ある出来事を見て、神様の御業が現れた、と喜んで神様を賛美しているのに、それに対して、憤りを覚える、ということです。今回のケースでは、「安息日に禁じられていた病人のいやしを行った」という条件付きのものであったかもしれませんが、では安息日でなかったら、この会堂長はこのいやしを喜んだのかというと、それも甚だ怪しいものです。結局は、イエス様がこのわざを行った、ということで、同じように憤ったのではないでしょうか。
聖書には、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)とあり、普段なら私たちもいいみことばだ、と思うのですが、いざとなると、この喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くということが、実は簡単ではない、ということに気付きます。喜んでいる人を見て、何となくねたましい。ねたみは人間の罪のおおもとである、といった人がありますが、その通りです。誰かが泣いていても、何となく同情しにくい。だから、イエス様が来られるまで、この会堂では、誰もこの腰の曲がっていた女性に、目も向けなかったのです。
特に、喜ぶ人と共に喜べないのは、共に神様の御業を喜ぶことができないこと、と言い換えることができます。神様を信じている者同士、神様の御業を見たら、誰もが喜ぶのではないか。そう思うのですが、事情はそう簡単ではありません。自分ではない誰かが礼拝や教会の奉仕で用いられている、奉仕の機会が多い、ということに関して、そのことのゆえに神様に感謝する、というよりは、何で私ではないのだ、ということで憤る。そのようなことも、実際は起こるわけです。それは多分に私たちの中の古い人、肉のままの部分によることですが、これもまた、そのような弱さに束縛されている、ということにもなるのでしょう。
さて、続く15節において、イエス様はこの時、当時農耕社会において重要だった牛やろばを引き合いに出して、安息日にもそれらを水を飲ませに引いて行くのは労働ではないのか、と鋭く迫ります。イエス様当時の農耕社会では、この牛やろばは非常に重要な動物だったと言われています。牛は畑を耕したり、穀物を粉にする石臼を引く仕事に使われていました。ろばは物を運んだり動かすために、馬やらくだより頻繁に用いられていたそうです。しかも、ろばは農作業に使われることもあったと言われています。そのような大事な役割をする動物たちを、安息日だからと言って、水場に連れて行かなかったら、たいへんなことになりました。人々はごく当たり前に、それらを水場に連れて行っていて、何の矛盾も感じていませんでした。
それはよしとしておいて、18年もの間サタンに縛られていたアブラハムの娘をその束縛から解いてやるのはいけない、とするのか。イエス様はその矛盾を指摘するのです。この女性を「アブラハムの娘」と呼ぶのは、彼女もまた、正当なイスラエルの民に属していて、大事な存在なのだ、ということを意味しています。農作業に大事な動物たちを安息日であっても世話するのなら、ましてや大事なイスラエルの民に属する病の人を、そのままにはしておけないではないか、ということです。
ここで言われている「束縛」とは、足かせ、あるいは鎖をも意味します。そのようなものに縛られている悲惨な状態にある人を、安息日だからと言って放っておけなかったのが、私たちの救い主であるイエス様でした。だから、彼女の健康を回復させて、束縛から自由にしたのです。
実は、救い主イエス様は、同じ福音書の6章でも、安息日にもかかわらず、手の萎えていた人をいやされました。同じように、安息日にある会堂で教えておられたときのことでした。イエス様は首尾一貫して、安息日であろうと、大事なことはなさる、そのようなお方だったのです。
この出来事を通して、会堂長をはじめ、反対者は皆恥じ入った、とありますが、逆に群衆はイエス様のなさるすばらしい行いを見て喜びました。これは、栄光ある、輝かしい行い、ということです。しかも、群衆たちは、そのすべてを見て、喜んだのです。私たちも、イエス様のなさる輝かしいみわざを見て、大いに喜びたいものです。
そのイエス様の輝かしい、栄光ある御業とは、まさに束縛からの解放です。それを、本日の聖書箇所の登場人物が経験し、そして、時を経て、今を生きる私たちが、この束縛からの解放をイエス様から頂くのです。
最後に改めて束縛からの解放、ということについて考えますと、今年のみことばに行きつきます。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソの信徒への手紙2章8節)。これが今年の御言葉ですが、ここで言われている救いとは、まさに束縛からの解放、と言えないでしょうか。
今日の聖書箇所では、病という足かせ、あるいは鎖から、あるひとりの人が解放されました。ここで「病」「病気」とは、「弱さ」をも意味します。誰しも私たちは、弱さを抱えています。この記録的に暑い夏においては、誰もがその暑さゆえに、活動が制限され、健康も害するまでになりました。また、私たちは、特定の言葉や音によって、怒りが引き起こされる、ということがあったり、人のこのような態度だけは赦せない、という、人それぞれに怒りの引き起こされるきっかけが違ったりします。そのようなことがなければ、私たちは心穏やかに過ごせるのですから、それらはある意味で、私たちの弱さと言えるでしょう。あるいは、ある人は、自分はお金のことでは特に不安にならないが、健康面のことでは、すぐ不安になるとか、人の些細な言動が気になって不安になる、という人もあるでしょう。ここではすべて指摘できないほど、私たちには弱さがあるのです。その弱さに束縛されてしまって、感情や行動に強い影響を受けている私たち。その束縛から、イエス様は私たちを解放して、「あなたがたはすでに、弱さから解放されているのです」と声をかけてくださるのです。
さらに、私たちのうちの古い人によって、喜ぶ人と共に喜べない、泣く人と共に喜べないという、まさに御言葉とまったく逆の性質を持つ私たちもまた、古い自分に束縛され、影響を受けていることに気づきます。今日の御言葉からすると、腰の曲がった女性のいやしが安息日であったことで憤った会堂長は、まさに古い自分に束縛されている人でした。本日の聖書箇所を読むとき、束縛されているのは、病の霊に束縛されていたこの女性だけでなく、喜ぶ人と共に喜べなかったこの会堂長もまた、束縛されていたのです。「私もこの会堂長と同じように、神様の御業を喜ぶべき時に喜べないものだ」と気づく時、私たちもまた、古い人に束縛されていることを知るのであり、その束縛からも、イエス様は解放してくださると知るのです。
本日は、束縛からの解放、というテーマで御言葉を学んできました。私たちはいろいろなものに束縛されているものです。しかし、そのすべての束縛から、イエス様は私たちをすでに解放してくださっています。そして、その解放とは、言い換えれば私たちが受けている救いのことです。その尊い救いを、私たちは神様からいただく豊かな恵みと信仰によって、受け取りました。この解放と救いを喜び、今週も一歩一歩歩んでまいりましょう。
お祈りします。
天の父なる神様。この礼拝の時を感謝いたします。この礼拝において、あなたが私たちに近寄ってくださり、恵みを注いでくださること、ありがとうございます。私たちは本日の聖書の箇所の登場人物たちのように、弱さに束縛されていたり、古い自分に束縛されていたりします。そのような私たちに、「あなたはもうすでに解放されています」と告げてくださる救い主イエス様、あなたの恵みに感謝します。この素晴らしい解放という救いを喜び、今週の歩みを続けていくことができますように。暑さは続いており、物価も高騰、世界平和へもまだほど遠い世の中ではありますが、その中で私たちを、また私たちの心を束縛しようとする足かせ、鎖から解放されて、喜んで生きることができますように。困難の中で生きざるを得ない人々の上に、あなたの救いがありますように。尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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・本日は三浦綾子読書会はお休みです。その代わり、来週8月31日、午後1時より映画上映会があり、三浦綾子の小説が原作の『氷点』を鑑賞します。それぞれ昼食をとってから、ご参加ください。

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