2025年8月10日 聖霊降臨後第九主日
- 明裕 橘内
- 8月10日
- 読了時間: 12分
聖書交読 創世記15章1~6節(旧約p19)
司)15:1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
会)15:2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
司)15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
会)15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
司)15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
全)15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
聖書朗読 ルカ12章32~40節(新約p132)
12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12:37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12:39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
説教 「小さな群れよ、恐れるな」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日開いている福音書の箇所では、何と言っても「小さな群れよ、恐れるな」(32節)という御言葉が、目を引くでしょう。とても気になる御言葉ですが、これは新共同訳の小見出しでもわかるように、「思い悩むな」という文脈の中で語られています。直前には、思い悩まずに「ただ、神の国を求めなさい」と勧められ、「そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(31節)と言われています。そのつながりで、「小さな群れよ、恐れるな」と勧められ、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(32節)と続いています。
この場合、何を恐れるのか、ということが問題です。ここで使われている「恐れる」という言葉は、害を受けることを恐れる、ということを意味します。文の流れとしては、「富」というテーマがここまで続いています。31節で「富ではなく神の国を求めよ」と勧められてはいるものの、33節からはまた、富についての話題に戻っています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と言われています。
そうすると、「小さな群れ」が恐れるのは何か、それはやはり、「富」のことに関係あるように思えてきます。すなわち、富の問題に惑わされないように、富が損なわれること、あるいは富を得られないことを恐れないように、ここで勧められている、と考えることもできます。そうすると、富のことで恐れるな、心配するな、それよりもまさる神の国が与えられるのだから、という教えであるとも解釈できます。
ここで、「小さな群れ」について、少し考えておきたいと思います。まずこの「小さな」という言葉ですが、「ミクロン」という言葉が使われているので、驚きます。今「ミクロン」と聞くと、たいへん微細なものをイメージします。でも、もとの言葉では、規模が小さく量も少ない、という意味で、顕微鏡的な小ささを意味するものではありません。そもそも福音書が書かれた時代、顕微鏡的な微細なサイズは想定されていませんでした。ただ、この言葉には若い、という意味や、重要ではない、低い、という意味もあるようです。来年創立70周年を迎えようとしている御影ルーテル教会を若い、と言うのには抵抗がありますが、それでもキリスト教2000年の歩みからしたら、若いものです。また、私たちの大事な教会を重要でない群れ、と言うのは忍びないですが、天地を造られた偉大な神様の前では、私たちは重要だ、と威張って見せる何物もないでしょう。
この「小さな群れ」は、まず第一には、イエス様当時の信じる群れであって、それは、羊飼いイエス様が打たれたら散り散りになるものでした。これはマルコによる福音書14章27節に、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と、旧約聖書のゼカリヤ13章7節を引用して言われていることです。「あなたがたは皆わたしにつまずく」とイエス様は予告しておられます。そこには、最小単位では、イエス様の12弟子がいるだけでした。もちろん、イエス様はルカによる福音書の10章で、72人の弟子たちを派遣しておられますから、12弟子のほかにもイエス様につき従っている人々はいたことでしょう。しかし、それも決して多くはありませんでした。また、私たちが持っているような、教団の他教会との交わりといったようなものも、なかったわけです。
次には、この「小さな群れ」とは、このルカによる福音書が書かれた頃の、すでに何らかの迫害を経験していた教会を指すと言われます。迫害は、ユダヤ教側からも、ローマからもあったと考えられます。その中で、誕生して間もない教会を励ますために、このイエス様の御言葉が大事に記録されたということは十分に考えられることです。
また、もちろん、その後のすべての時代に渡る主の教会も、創立年代や規模に関係なく、この「小さき群れ」への励ましを自分たちへの励ましとして受け取り、慰められてきました。福音が、悩める魂を慰める、と言うとき、ことにこの小さき群れへの励ましは、大きなものであったと思われます。
いつの時代においても、実際に数が少なかったごく初期の教会を含め、イエス様を信じる群れは、この「富」という問題と関わってきました。ある時代は、外部の力によって、教会の持つ富が奪い去られる危険にさらされ、またある時は、教会が富を持ちすぎて腐敗し、神の国よりもこの世の国の方を求める、という危機も経験したのです。
そのような中で、「小さな群れよ、恐れるな」の声に続く「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という約束が、地上の富を越えて、天に人々の目を向けるものであり、本当に大事なものは何か、そして、天にある豊かさを教えてきたのです。
もちろんそれだけでなく、私たちが普段からこの御言葉から慰めを受けているように、小さな群れであろうと、この世の荒波の中でも神様に守られて存続することができて、神の国の恵みを地上にいながら味わうことができる、という意味もあるでしょう。いずれにしても、私たちは御言葉から慰めをいただきます。それは、私たちの群れのことをイエス様は見ていてくださり、神の国をくださるからです。
では、私たちにとって、「神の国がいただける」ということは、どんな意味で良い知らせとなるのでしょうか。その前に、何の前提もなしにずっと「神の国」とお伝えしてきましたが、新改訳では「御国」と訳されております。もとのことばでは、「その国」という感じで、「国」ということばに、限定するための冠詞がついている、英語で言えば”the”ですが、そのような言い方になっています。しかも、日本人ではおそらくイメージしにくいのですが、もとのことばでは、ニュアンスとしてこの国は王のいる「王国」であるのです。私たち日本人は、国と言うと、一定の国土があり、国民がいて、政府がある、そのようなイメージですが、ここで言われている国は、王がいる国、ということになるのです。これは、新約聖書で使われているギリシア語だけでなく、旧約聖書のヘブル語の方も同じです。
小さな群れに、父なる神様によって、その国、御国がいただける。これは、先ほどの最初の説明では、この御言葉が「富」というテーマの中で語られていることから、地上では得難い富が与えられる、という意味合いでもあろうと思います。地上の限りある富の中で、常に限界を感じざるを得ない私たちには、地上のものではない富、天における富というのは、それ自体憧れであり、慰めであろうかと思います。
そのような、実際に私たちに与えられるもの、というのではなく、この「国」自体に何か魅力はないか、ということで考えますと、やはり先ほど指摘したように、この国が「王国である」、という点が大きいと思います。
私たちに国が与えられるということは、言い換えれば王国が与えられる、ということです。そこには私たちの王となる方がおられるのです。それは、イエス様です。父なる神様は、私たち小さな群れに、イエス様が王である王国を与えられるのです。
その方はどこか遠くにおられる方ではなく、私たちの近くにおられる方です。そして、私たちのために命を捨ててくださり、代わりに私たちに永遠の命を与えてくださいました。そのような方が王である国を、私たちはいただけるのです。
ここまで、「小さな群れよ、恐れるな」という御言葉に絞って、見てまいりましたが、せっかくですから、後半も見てまいりましょう。
こちらは、一言でいえば、「終末への備え」ということになります。具体的には、イエス様の再臨への備え、ということになります。新共同訳の見出しでは、「目を覚ましている僕」となっております。イエス様の再臨に向けて、イエス様のしもべである私たちが、目を覚まして備えている、ということです。
腰に帯を締めるようにイエス様は35節で命じておられます。当時の長い上着は、和装のように、帯がなかったら締まりがなく、動きも取りにくかったわけですね。そのようにして、すぐ動けるように準備しておく、ということです。いつ帰って来るかわからない主人は、もちろんイエス様のことを暗示しています。この主人は婚礼の祝いの宴に行っているようですが、ユダヤでは婚姻の儀礼が1週間ほど続くのは当たり前だったので、まさに主人はいつ帰って来るかわからない、それこそ真夜中だったり、夜明けだったりしたわけです。そのように、いつ帰って来るかわからない主人に対して、目を覚まして僕が備えているとは、いつ帰って帰って来られるか、すなわちいつ再臨なさるかわからない主イエス様に対して、しもべである私たちがよく備えておく、ということを意味しています。
ここでしもべたちは、緊張して、恐れて待っているのではありません。この主人は恐ろしい主人ではないのです。ちゃんと待っていれば、主人の方がしもべたちを食事の席につかせ、給仕してくれるとあります。このような立場の逆転、本来なら主人である方が、反対に使える立場をとる、というのは、イエス様の姿を表す典型的な表現です。このような姿を見たら、イエス様のことだとわかる、ということです。しかも大事なのは、「そばに来て給仕してくれる」(37節)ということです。
こちらのたとえを、先の「小さな群れよ、恐れるな」との慰めに満ちた勧めと関連付けて考えると、どうでしょう。どこか共通点など、ありますでしょうか。なぜ主イエス様は、恐れやすい小さな群れに対して、「恐れるな」とおっしゃることができたのか。それは、イエス様の父なる神様であり、また私たちの父でもある神様が、御国を与えてくださるからでした。しかも、その国はただの国ではなく王国であり、王がおられる、とお話ししました。このように、王が共にいる王国と、主人がすぐそばに来て給仕してくれるような恵みの世界とは、共通点があります。
先ほどまだ触れてはおりませんでしたが、「王国」とは、王の支配する範囲、その領域、と言い換えることができます。私たちには、イエス様がまことの王である御国が与えられます。まさにそれは、神の国です。王である主イエス様の支配する範囲、領域の中に、私たちが入れられる、というイメージです。そこには、王であるイエス様が、暴君としてではなく、私たちに恵みを与える王として近くにおられ、そこで私たちは慰めを受けることができます。この地上においてすでに、私たちが恐れずにイエス様だけを見続けていくときに、その恵みの王国は私たちの周りに現れます。私たちが主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈る時、それは、私たちが、主イエス様が恵みをもって治めておられる領域の中に入ることができるように、と願うのです。
そして、ある主人が治めている家において、しもべたちがよく主人を待っていたなら、主人がすぐそばに来て、給仕してくれる。これもまた、恵みの御国のたとえです。この家は、御国を表しているのです。主人は御国の王、イエス様です。そしてイエス様は私たちのすぐそばに来て、なんと私たちに仕え、私たちに魂の栄養となる食事を与えてくださるのです。
黙示録にも、その3章に、イエス様が戸口に立って叩くとき、イエス様の声を聞いて戸を開けるならば、イエス様は中に入って、その者と共に食事をしてくださる、とあります。そのようにイエス様は私たちのごく近くにまで来てくださり、一緒に食事をしてくださる、親しい方なのです。
この、後半の「目を覚ましていなさい」という教えにおいても、イエス様は、目を地上のものにではなく、天に向けるように誘います。地上には、様々な苦しみ、悲しみがあります。後悔もたくさんあります。それらばかり見ていたら、気は落ち込むばかりです。しかし、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と約束なさり、「尽きることのない富を天に積みなさい」とお勧めになって、私たちの目を天に向けさせたイエス様は、同じように、私たちの主イエス様の再臨を待ち望み、私たちが目を天に向けることを願っておられます。たいへん暑い夏で元気も失いがちですし、私たちの周囲には、ニュースを見ても気がふさぐような出来事が多いですが、「小さな群れよ、恐れるな」とお声をかけてくださるイエス様を見上げ、その目は天を見つめて、はるかに神の国を仰ぎ、主の再臨に憧れ、心待ちにして過ごしたいものです。
お祈りします。
天の父なる神様。私たちに御言葉をありがとうございます。小さな群れよ、恐れるなとの慰めをありがとうございます。あなたの与えてくださる神の国には、私たちの王であるイエス様がおられます。またイエス様は、私たちのそばに来てくださる方です。感謝します。戦後80年となり、大事なことの記憶も風化していく中で、どうかあなたの与えてくださる平和が続きますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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・先週はミニバザーがありました。来週は神学校デーです。

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