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2025年7月6日 聖霊降臨後第四主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 6 時間前
  • 読了時間: 11分

聖書交読 イザヤ66章10~14節(旧約p1170)

司)66:10 エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。

会)66:11 彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り/豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。

司)66:12 主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。

会)66:13 母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。

全)66:14 これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。

 

聖書朗読 ルカ10章1~12節(新約p125)

10:1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

10:2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

10:3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。

10:4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。

10:5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。

10:6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。

10:7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。

10:8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、

10:9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

10:10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。

10:11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。

10:12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

 

説教 「収穫の主がおられる」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

今年も年度の後半となりました。一年の前半を主が守り導いてくださったことに感謝いたします。たいへんな暑さが続いていますが、また一部では地震が続いている地域があります。新しい月が始まりましたが、また多くの生活に欠かせないものが値上がりしました。そのような中で希望が持てなかったり、不安が広がったりするものですが、その私たちの世界に福音が告げられる。それが、本日の聖書の箇所です。一緒に開いてまいりましょう。

 

本日の福音書の箇所には、ルカによる福音書に特有な記事が収められています。イエス様は12弟子とは別に、72人の弟子たちを任命して、派遣なさいます。古い新改訳聖書は、ここは「七十人」となっており、欄外中に「異本『七十二人』」と記されていました。ある写本には、ここの弟子の人数が72人とされているものがある、という指摘です。しかし、新共同訳も、新しい方の新改訳も、ここは72人と訳されています。70だと、完全数である7の10倍ですので、宇宙的完成を意味したのかもしれません。また、創世記10章においては、その当時、地上に70の民族があったとされています。その部分が、ギリシア語訳で72の民族とされていたことが、ここでの72人の土台にあったと指摘されています。

 

いずれにしても、72という弟子の数は、その当時の全世界の国々を連想させるものだと言われます。あたかもそのひとつひとつに、イエス様は弟子を一人ずつ派遣しようとしたかのようです。全人類への伝道をイメージしておられたのかもしれません。そのように、ルカによる福音書のこの部分では、世界的な視野が開かれています。そして、続いてルカが書いた使徒言行録によって、まさに「地の果て」までの伝道が示唆されているのです。

 

実際は、この弟子たちは二人一組で派遣されました。それは、一人では倒れやすく、また3人だと、仲間はずれが起こってしまうからだったのかもしれません。イエス様の配慮が行き届いていたことがうかがわれます。

 

さて、イエス様は「収穫は多い」と断言なさいます。まだ何も御覧になっておられない時に、見えないものを見るかのような信仰で、イエス様はそのようにおっしゃるのです。この日本に対しても、同じです。このイエス様の「収穫は多い」という言葉は、伝道の効果がある、ということを表しており、弟子たちを力づけるものです。もちろんここでの収穫は、神の国の福音を受け入れる人々のことです。

 

収穫は多いのですが、残念ながら働き手が少ない、という現実がある。これは、動かしようのない事実です。だからこそ、「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(2節)とイエス様は勧めておられます。

 

ここで、新しい新改訳2017が、この部分を「『ご自分の』収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と訳していることに注目しておきたいと思います。ちょっとしたことのようにも思われますが、実はこれは大きなことなのです。収穫とは、誰の収穫なのか、ということです。多くの場合、これは働き手として奉仕する私たちの収穫、と受け取られます。ですから、その収穫を何としてでも増やすよう、努力が要求されているように感じられてしまうのです。しかし、実は、この部分は「彼自身の収穫」といった書き方がされているのです。ここで「彼」とは、「収穫の主」のことです。収穫の主が、ご自身の収穫のために、働き手を送ってくださるように願う、ということなのです。そうすると、全く違った収穫が見えてきます。すなわち、私たち働き手があくせくして何とか収穫を増やそうとやっきになる収穫、というのではなく、収穫の主と呼ばれる方がおられ、その方の責任のもとに、その方の主導でもたらされる収穫、というものです。考えてみれば、「収穫の『主』」と言われるのですから、その方ご自身が収穫自体ももたらしてくださる、と考えるのは当然のことです。

 

ここで、以前もご紹介したことがあるのですが、聖餐式の式文の一部をご紹介したいと思います。宣教、ということに関して、祈りの中で、「主ご自身の宣教の御業」と書いてある箇所があるのです。この宣教に関しても、「宣教はその担い手が努力して行うものだ」という認識があるように思います。それゆえに、しんどくなったり、重荷になったりするわけですが、それから私たちを解放するのは、「主ご自身の宣教の御業」という概念です。

 

「おりを得ても得なくてもみことばをあかしし、主ご自身の宣教のみわざに参与することができますように。」

 

もちろん、この式文の言葉は聖書の御言葉そのものではありません。しかし、聖書全体で述べようとしていることを上手に要約しているように思います。まさに、収穫の主がおられ、その収穫は、ご自身の収穫である、ということと共通しているので、ご紹介しました。

 

このように、私たちにとって、「収穫は多い」と言っていただけることだけでなく、「収穫の主」がおられる、ということもまた、心強いことです。そして、その収穫とは、ご自身の収穫です。これは、「収穫の主ご自身がなさる収穫」と言い換えることすらできると思います。私たちは、収穫の主御自らが行われる収穫に、ただ参与させていただくだけなのです。それは、主ご自身の宣教の御業に、私たちが参与させていただく、ということと同じです。

 

この伝道の旅は、「財布も袋も履物も持って行くな」(4節)と言われるほどに厳しいものでしたが、「途中でだれにも挨拶をするな」(同節)とはどういうことだったのでしょうか。それは、この当時、丁寧な挨拶には時間がかかったそうで、そのようなことに時間を取られている余裕はない、そのぐらい神の国の福音を伝えるのは切迫した事案なのだ、ということを表していたようです。

 

二人一組で遣わされた弟子たちが、いよいよ町に入ります。そうすると、基本的には家々を回って、宣教をしたようです。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」と言われています(5節)。実際ここは、「どの家に入っても」あるいは「どんな家に入っても」というニュアンスのようです。時には、遣わされた者が、自分の判断、あるいは感覚で、「まさかこの家には平和は来ないだろうな」と感じてしまうような家があるのかもしれない。それであっても、変わらずに、どんな家であったとしても、「この家に平和があるように」と言うように、ということです。この挨拶は、イエス様の復活後の挨拶であり、また、説教の前の祝福の祈りとも共通しています。ヨハネによる福音書を読むと、復活のイエス様は、弟子たちに姿を現され、「あなたがたに平和があるように」と言葉をかけてくださいました。説教冒頭ではいつも、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように」との祈りがなされます。すべて、収穫の主ご自身の収穫のために、イエス様がお示しくださった挨拶の言葉と共通のものがそこに流れています。また、形式的に、ただ長々とする挨拶はしないように言われ、却って「この家に平和があるように」という新しい挨拶が推奨されるのです。

 

家々を訪ねた折に、福音を喜んで聞く「平和の子」がいる家庭には、そこにとどまり、そこで出されるものを飲食するように、との指示ですが、当時ユダヤ人は、異邦人の家では食事をしない風習でした。それを打ち破るのが、福音宣教でした。ですから、福音宣教には、常に新しい体験がついて回るのです。

 

そして、この当時の福音宣教の内容は、「神の国が近づいた」という知らせを告げることでした。現代ではどうでしょうか。私たちは、宣教あるいは伝道と言うと、「イエス様を紹介すること」と捉えることが多いと思います。どうしたら人々にイエス様のことを紹介できるか。そしてもちろん、イエス様を紹介するとは、私たちの罪のためにイエス様がこの世に来られ、十字架にかかって救いの道を開いてくださった、ということを伝えることにほかなりません。しかし、イエス様がこのように弟子たちを派遣した時、宣教とは「神の国は近づいた」と告げることでした。もう一度、そのことを思い起こしておきたいと思います。

 

ちなみに、「神の国が近づいた」とは、「神の国がすでにここにある」という知らせでもあります。いずれにしても、神の国が、私たちと距離の面で近い、ということです。神の国とは神様の御支配の領域のことですから、神様が治めておられる世界がすぐそこにきている、いや、むしろもうここに来ているのだ、という知らせでもあります。私たちと共におられる収穫の主が、そのような喜ばしい知らせを私たちにくださるのです。過去を後悔し、現在に満足いかず、すぐ不安になり、なおかつ将来にも希望を持てない人々に、それでももう神様が、すぐそこまで来ている、いや、もうここに来ている、と告げるのです。それはどんなに大きな希望を生み出すことでしょうか。私自身、自分の人生に納得できず、不条理だ、不条理だと嘆いていた時に、大学の近くの教会の伝道集会で、この世に神様がおられることを聞き、本当に一瞬で、この世界も捨てたものではない、まだやっていける、というような希望を抱くまでに変えられました。神の国が近づいた。これは、大きな喜びの知らせなのです。

 

10節以降は、反対に神の国の福音が受け入れられなかった時の教えです。何となくあっさりしている、冷たい、と思われるのは、他にも神の国の福音を告げ広めなければならない場所はいくらでもあるので、すぐにそちらに向かう方がいい、という考え方が背後にあったからだと言われます。もちろんイエス様は悲しまれたことでしょう。しかし、歩みを止めないのです。未練がましくしていないのです。あとは神様にお任せして、歩みを進め、また平和の子、すなわち喜んで神の国の福音を聞いてくれる人を求めて、宣教の旅を続けるのです。

 

今日は、「収穫は多いが、働き手が少ない」というイエス様の印象的な御言葉をご紹介しました。イエス様を信じるようになる人は多いはずだが、その人々をイエス様のもとへと導く働き手が少ない、と読める御言葉です。イエス様の勧める「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という祈りよりも、時には「私たちが頑張って収穫を増やさなければならない」と思うかもしれません。しかし、その収穫は、収穫の主ご自身の収穫でした。収穫の主、と言われるのですから、その方は収穫をつかさどる方です。イエス様は父なる神様を指して、ここで収穫の主、と言っておられるのでしょう。私たちには、この収穫の主がおられます。物価高にあえぐ人々に、災害の多い中で不安になる人々に、この方は寄り添ってくださって、神の国の福音を届けてくださいます。まさに、すでにここにある神の国を示してくださいます。この世界には神様がおられる、だから、私の人生、生きる価値がある、と希望を持たせてくださるのです。一緒に、この収穫の主に、収穫の主ご自身の収穫のために働き手を送ってくださるよう、祈りましょう。

 

お祈りします。

天の父なる神様。この朝も礼拝においてともに御言葉に触れることができ、感謝いたします。私たちのために、収穫の主がおられること、感謝いたします。また、ご自身の収穫のために御業をなしてくださり、働き手を送ってくださることに感謝します。神の国の到来という素晴らしい福音の恵みに、多くの方々があずかることができますように。不安の広がりやすい世界です。その中で、御国の福音に心慰められる方が多く起こされますよう、お祈りします。困難の中で、生きにくさを抱えておられる人々に、神の国がすでにここにある、という神の国の到来の福音が届きますように。尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・本日礼拝後は昼食会があり、フェローシップMLCがあります。「第二回 伝道を考える会」となります。そのあと役員会になります。


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