2025年6月29日 聖霊降臨後第三主日
- 明裕 橘内
- 1 日前
- 読了時間: 14分
2025年6月29日 聖霊降臨後第三主日
聖書交読 詩編16編(旧約p845)
司)16:1 【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
会)16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
司)16:3 この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
会)16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
司)16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
会)16:6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
司)16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
会)16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
司)16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
会)16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
全)16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
聖書朗読 ルカ9章51~62節(新約p124)
9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
9:52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
9:53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
9:55 イエスは振り向いて二人を戒められた。
9:56 そして、一行は別の村に行った。
9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
説教 「まっすぐに道を進む」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
あっという間に梅雨が明けてしまいました。ついこの前までは、肌寒いですね、などと言っていたような気がするのですが、もうたいへんな暑さの中にいます。却って慣れない冷房で体調が悪くなりやすい季節でもあります。皆さんいかがでしょうか。今日は午後から年に一度の音楽発表会で、それを控えて礼拝にお越しくださった方方もいらっしゃいます。心から歓迎いたします。
さて、本日の福音書の箇所は、ルカに特有の、ガリラヤからエルサレムへ向かう旅行記の初めの部分になっています。
イエス様は、ご自分が天に上げられる時期が近付いてきたことを察知されます。「天に上げられる」とは、イエス様の十字架の苦難と復活、そして天に帰られる昇天のことを指しています。まさに十字架の時が近づいたので、イエス様は御顔をまっすぐにエルサレムへと向け、決然と進んで行かれたのです。
イエス様が向かって行かれたエルサレムとは、当時、ユダヤ人の宗教の中心地でした。エルサレムはローマ帝国の支配下にあったのですが、ユダヤ人が神殿で礼拝することは許可されていました。その場所に、イエス様は十字架にかかるために、まっすぐに進んで行かれたのです。
このように、目的達成への固い決意を持って、まっすぐに道を進んで行かれる姿は、もしかして私たちとは大違いかもしれません。私たちは弱いもので、さっき心に決めたことでもすぐに翻してしまうことだってないとは言えません。テレビの野球中継で、大谷選手の打席まで見て、あとはやめよう、と思っても、やはり次の回の攻撃まで、などといってずるずると見ているうちに、結局最後まで見てしまった、などということもあるでしょう。しかしイエス様は、一度エルサレムに行く、と決めたら、まっすぐに進んで行かれるのです。
イエス様はご自分の先に使いの者を出されます。彼らは準備のために、サマリアの村に入りました。サマリアは、エルサレムの北部にある地域です。そのように、ガリラヤからエルサレムへと向かうにはサマリアの村を通らなければならなかったのですが、この当時、ユダヤ人とサマリア人は過去の事情から反目し合っていました。また、サマリヤ人はゲリジム山というところに自分たちの神殿を持っていて、祭司もおり、またユダヤ人と同じ律法を持ちながらも、独自の解釈をしていました。
そのように、ユダヤ人とサマリア人の間には不信感がありましたし、そのような雰囲気の中でイエス様がかたくなにエルサレムに向かっていたことから、イエス様は歓迎されなかった、と言われます。すなわち、受け入れられなかったということです。それでもイエス様はまっすぐに道を進んで行かれます。
「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った」などと物騒なことが記されているのが、54節です。今私たちは、私たちの信仰のルーツにはイスラエルがある、とは言いにくいような、イスラエルの理解しがたい行動を国際社会において数多く目撃しています。なぜそこまで赦さないのだろう、なぜそこまで徹底的にしようと思うのだろう、と疑問に思いますが、この時のヤコブとヨハネの言葉を聞くと、何となくその理由のようなものが見えてくるように思ってしまうのは私だけでしょうか。この二人だけが特別で、皆が皆、荒々しいわけではない、と思いたいものです。そもそも、この二人には、イエス様は「ボアネルゲス」、すなわち「雷の子たち」というあだ名をつけておられました。瞬間湯沸かし器のような、怒りっぽい存在だったのでしょう。
「彼らを焼き滅ぼしましょうか。」の前に「エリヤがしたように」という言葉を加える新約聖書の手書き写本もあるようです。そのように、ここでは旧約聖書の預言者、エリヤが想定されているようです。旧約聖書の列王記下1章に記されている、エリヤが天から火を下した出来事を思い起こしているのでしょう。弟子たちの中には、メシアはそのようなことをする、というような理解があったのかもしれません。エリヤ的なメシア理解、ということです。イエス様もメシアのように見られていましたから、場合によっては天からの火を下すということもあり得る、と考えていた可能性はあります。
しかし、イエス様が現在のイスラエルの姿勢と異なっているのは明らかです。同じように考えることはできません。雷の子たちと呼ばれていたヤコブとヨハネに対して、「イエスは振り向いて二人を戒められた」(55節)と記されています。「戒められた」とは、要するに「お叱りになった」ということです。このあとに、「そして言われた。『あなた方は、霊の性質を知らないのか。人の子は人の命を滅ぼすためではなく、救うために来た』」を加える写本もあるようです。イエス様は、ご自身のご意向に沿わない者たちを蹴散らし、滅ぼすなどということは決して考えておられない方です。現在のイスラエルのやり方をご覧になったら、イエス様はきっと悲しまれることでしょう。
イエス様はエルサレムへと向かってまっすぐに道を進んではおられましたが、だからと言って、ご自分に反対する者に対してきつくあたるようなことはありませんでした。翻って、私たちはどうでしょうか。イエス様の弟子たちの中にさえ、ヤコブとヨハネのように、まっすぐ過ぎて、イエス様のためには何でもします、ということで、イエス様を歓迎しないような人々は火で滅ぼしてしまおう、と平気で思ってしまうような者たちがいました。私たちももしかして、人生においてまっすぐであることを望みながら、時によってはまっすぐ過ぎるゆえに、赦せなかったり、受け入れられないことがあって、それで人と人とが反目し合って、ということが起こってしまうかもしれません。まっすぐであっても、イエス様のようにしなやかに、ご自分を歓迎しない者でもそれはそれで受け止める、という広い心を持ちたいものです。
その一方で、イエス様は、ご自分の弟子たちに、まっすぐに弟子としての道を進んで行くように願っておられます。57節から62節までは、イエス様の弟子たちの道が示されている、と言っていいでしょう。イエス様は、神の国のために枕するところもない程の孤独な戦いに耐えておられました。また、家族のきずなを断ち、一刻を争って宣教しておられたのです。ですから、ついて行く者も同じ覚悟が要求される、ということです。
ところで、57節からは、3人の弟子たちがイエス様のもとに現れます。第一には、簡単に道を志す人が登場します。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と彼は言うのです。ちょっと調子がいいようにも感じられます。イエス様に従っていく道を、少し簡単に考えていた、ということなのかもしれません。それで、「簡単に道を志す人」と呼ばれます。
しかし、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と、弟子の道の厳しさを教えられます。ここで「人の子」とは、イエス様のことです。動物たちには帰る巣があっても、イエス様には帰って休む場所もない、ということです。そのぐらい、神の国の福音を伝えることに邁進しておられたのがイエス様でした。また、ある意味で、イエス様にとってこの世界には居場所がなかった、ということを思わせる御言葉でもあります。
このあたりのことを印象的な讃美歌にしているのが、讃美歌の124番です。聖歌では、クリスマスの賛美になっていますが、讃美歌ではイエス様のご生涯を歌うジャンルになっています。その3節で、「きつねにも穴はあり、鳥に巣はあれど、ひとの子は地のうえに ねむりたまいけり」と歌っています。枕するところもないから、結局イエス様は地面の上で寝ておられた、ということです。そのような、この世界において居場所のないイエス様のことを歌った後、「住みたまえ、きみよ、ここに、この胸に」と高らかに歌い上げるのが、この讃美歌です。たいへん印象的で、私が好きな讃美歌です。
私のための大事な救い主であるイエス様が、この地上を歩まれた時、居場所がなかった。何か胸が締め付けられるような思いがします。だからこそ、居場所がないなら、どうぞ私の心に来てください、と願うのです。
もちろんここでは、イエス様に居場所がなかったことだけでなく、イエス様に従う道を安易に考えることのないように、という忠告を私たちはこの弟子と共に聞き取ります。この言葉を聞いて、この「簡単に道を志した人」はどう思ったのでしょうか。その反応は書いてありません。「そうか、そんなに従う道は厳しいのか。それなら、ひとつ気を引き締めて、しっかり従って行こう」と思いを新たにしたと思いたいですが、もしかして、気落ちして静かにイエス様のもとを去ってしまったかもしれません。
第二に、59節で、「別の人」と言われる、消極的な人が登場します。この場合は、イエス様の方から「わたしに従いなさい」とお声をかけられます。しかし、このようなイエス様からのお誘いに対して、彼は「まず、父を葬りに行かせてください」と願い出ています。これが、「消極的な人」と呼ばれる理由です。多くの場合、この時まだ彼の父親は健在だったと解釈されています。「これからずっと、継続的にわたしに従いなさい」と誘っておられるイエス様に対して、いつになるかわからない父の葬りを理由として、そのお誘いを断っているということは、よほど神の国の働きに消極的だったのだろう、ということです。
ユダヤでは父を葬ることをすべてに優先させていましたけれども、いつになるかわからない父の葬りを待っていては、神の国の宣教はできない、とイエス様はお示しになられます。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という60節の御言葉は、ずいぶんな言い方だな、と思われる方もあることでしょう。しかし、どうでしょう。ここには、「あなたが今から心配しなくても、その時になったら、あなたに代わって、あなたのために、父親の葬儀のことをお世話してくれる人が現れる」というイエス様の約束も含められていたのでは、とも思うのです。皆さんはどう思われるでしょうか。
このあたりの御言葉は、次の「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」という御言葉も含め、神様から牧師になるように招かれていると感じている人々には、重要な意味を持っています。そのような招きを感じていても、多くの場合、「親の面倒を見なければならない」「今携わっている仕事を置いて神学校に行くわけにはいかない」と、神学校に行くのをためらうケースが多いと言われています。しかし、ここでイエス様が私たちにお伝えになりたいことは、イエス様が、あなたの代わりに人を立ててくださる、ということです。もしあなたが神様のために神の国の働きをするよう招かれているように感じるなら、そして聖書の言葉からそれを確信しているなら、あなたはそれに従い、神の国の働きのために一歩を踏み出しなさい、とイエス様は言われるのです。その時、あなたの代わりになる人をイエス様は立ててくださり、あなたが神の国の働きに専心できるようにしてくださる、という約束です。私も本当に悩みましたが、福島にいる両親は神様にお任せする、という思いで、神戸までやってきました。それから30年。神様が守っていてくださることに、感謝しております。
最後に現れるのは、神様とこの世の両方に心を引かれる人です。この人も、最初の簡単に道を志す人と同じで、ある面で積極的であり、イエス様の声を待たず、自分の方から声を発しています。「主よ、あなたに従います」。素晴らしい告白です。しかし、次の言葉はどうなのでしょうか。「ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください」。まさかイエス様、このような気持ちはわかってくださるでしょう。そう思うと、イエス様はこうおっしゃるのです。
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。たいへん印象的な言葉です。畑を耕しているとき、鋤に手をかけながらも後ろを振り向いていたら、仕事は進みませんし、第一危険でなりません。そうでなく、決然とまっすぐにエルサレムに向かわれたイエス様のように、まっすぐにイエス様の弟子としての道を進んで後悔しないよう、イエス様は教えられたのです。
このように、本日は、ご自分が十字架にかかられるエルサレムへとまっすぐ道を進んで行かれたイエス様の姿と、だからこそ、私たちも弟子としての道をまっすぐに進んで行く、ということを見てきました。ただ、これで終わってしまっていいのか、とも思うのです。今日私たちが聞くべき良い知らせ、すなわち福音とは何だったのでしょうか。
先ほど冒頭に、固い決意を持って道をまっすぐに進んでおられたイエス様と私たちとでは大違い、というお話をしました。私たちの心は弱く、その決心は揺らぎやすくて、とてもではありませんが、「さあ、弟子としての道をまっすぐに進みましょう!」と掛け声をかけたとて、それでまっすぐに進めるわけでもありません。この問題は未解決です。これは、どうなるのでしょうか。
固く自分を律し、まっすぐに道を進む者と、そうしたくてもなかなかそうできない、すぐ心変わりしてしまうような者と、どちらとともに、イエス様は歩んでくださるのでしょうか。恐らく両方、というのが答えでしょう。まことに頼りない、すぐ決心が揺らいでしまう者とも、イエス様は共にいてくださいます。ここに、私たちが聞くべき福音があります。まっすぐに道を進みたくてもなかなかそうできない、いつもそうできるわけではない私たちのためにこそ、イエス様はこの世に来てくださって、十字架にかかってくださったのでした。今、私たちの前には、イエス様の優しさが明らかに示されています。この優しさ、イエス様の愛を共に受け取り、新しい一週間を始めていきましょう。
天の父なる神様。この礼拝の時を感謝します。あなたからの御言葉をありがとうございます。救い主イエス様は、十字架目指して、一心に、まっすぐに道をお進みになりました。私たちもそれに感じ、イエス様に従う道を、まっすぐに進むことができますように。人生の困難の中で、なかなかまっすぐに進めないこともあるのですが、その時は優しく受け入れてくださり、そのような私たちのためにこそ、この世に来られて、十字架にかかってくださったことを示してくださるので、感謝をしております。私たちが、まっすぐに道を進みたいという願いを持つとともに、また、そう出来ない時に、イエス様の憐れみがあることを、どうか忘れないでいることができるよう、助けてください。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日午後1時半から音楽発表会です。来週も昼食会があり、フェローシップMLCの交わりがあります。第二回伝道を考える会となります。ご参加ください。その後役員会となります。

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