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2025年7月27日 聖霊降臨後第七主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 7月27日
  • 読了時間: 16分

聖書交読 詩編138編(旧約p978)

司)138:1 【ダビデの詩。】わたしは心を尽くして感謝し/神の御前でほめ歌をうたいます。

会)138:2 聖なる神殿に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって/あなたは仰せを大いなるものとされました。

司)138:3 呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え/解き放ってくださいました。

会)138:4 地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。

司)138:5 主の道について彼らは歌うでしょう/主の大いなる栄光を。

会)138:6 主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。

司)138:7 わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。

全)138:8 主はわたしのために/すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。


聖書朗読 コロサイ2章6~15節(新約p370)

2:6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。

2:7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

2:8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

2:9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、

2:10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。

2:11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、

2:12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。

2:13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、

2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

2:15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。


説教 「この世かキリストか」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


たいへんな暑さが続いております。教会の行き帰りの道、皆さんが守られるよう、お祈りいたします。今朝も私たちの前に命の御言葉が開かれています。本日は聖書日課から使徒書を開いております。


本日開いておりますコロサイの信徒への手紙は、エフェソの信徒への手紙などと同じように、パウロがローマの獄中にいた時に書かれた手紙で、「獄中書簡」と呼ばれています。61年頃に書かれました。エフェソと同じ小アジアにあったコロサイの町には、多くのユダヤ人も移り住んでいましたが、ギリシア人もたくさん住んでいたと言われます。そこにあった教会に、異端的な教えが入ってきました。その中のひとつは、本日の箇所の中にも出てくる、ギリシア哲学に影響を受けた考え方でした。特に本日の箇所は、その「人間の言い伝えにすぎない哲学」に気をつけるように、勧めています。


本日の箇所には、新共同訳では「キリストに結ばれた生活」という小見出しがついています。まずパウロはこの箇所で、主キリスト・イエスを受け入れた限りは、キリストに結ばれて歩むことを勧めます。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」と言われています。これは、キリストによって、キリストと共に歩む、ということです。ですから、ここで示されているのは、キリストによって導かれる生活、あるいは、キリストと共に歩む生活、ということになるでしょう。


主キリスト・イエスを「受け入れる」というのは、イエス様を受け取る、という意味でもあります。非常に親密な感じがいたしますが、これは「イエス様を信じる」ということの言い換えでもあります。ですから、イエス様を信じたのだから、イエス様によって、またイエス様と共に歩みなさい、ということです。


続いてパウロは、「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」と勧めています(7節)。しっかりとキリストに根ざして建て上げられること、信仰を固く守ること、そしてあふれるばかりに感謝することを勧めます。これはまさにキリストに土台を置く生活であり、そのためにもしっかりと信仰を守ることが必要となります。そして、そのように生きるならば、感謝があふれてくるものだ、というわけです。キリストを信じて、このキリストに根ざし、信仰を守って感謝にあふれて歩む、という信仰生活が、ここに示されています。


そして、まさにそれが、8節にある「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」によって人間に束縛されることがないように、という教えの土台となっています。


では、その8節を見ていきましょう。「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」という御言葉でした。


ここで指摘されている「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」というのは、ギリシアの思弁的哲学のことだ、と言われます。すなわち、「もっぱら純粋な理性によって世界観の体系を打立てようとする哲学」のことで、プラトンやアリストテレスといった著名な哲学者の哲学も、その中に含まれると言われています。そもそも、「純粋な理性」というものが、どれだけ当てになるのか、ということもあるでしょう。この哲学においては、感性や観察による認識などには不信感を抱いていたようですが、「純粋な理性」と言われても、それで世の中の大事なことが本当にわかるのか、という疑問が生まれます。だから、パウロはそれを「人間の言い伝えにすぎない」とし、「むなしいだまし事」なのだ、と断言しているのです。「むなしい」とは「中身がない」ということで、そのような空っぽなものでだまされてはならない、というパウロの思いが伝わってきます。


これが、コロサイの教会に入ってきた異端的な教えでした。ちなみに、パウロはこのコロサイにあった教会を直接訪問してはいません。ですから、この教会は、パウロ自身が建てたのではなく、パウロの代わりに派遣されたエパフラスという人物によるところが大きかったと言われています。パウロは第三回伝道旅行でエフェソに3年滞在していました。コロサイ教会の基礎を築いたエパフラスはこの時信仰に入ったのではないか、と言われています。このエパフラスから、うちの教会にこんな異端的な教えが入ってきたのですが、と相談されたパウロが、獄中から手紙を書いたのがこのコロサイの信徒への手紙、ということになるのです。


この異端的な哲学は、人間の言い伝えに過ぎないものでした。ですから、そのむなしい、中身のない教えに騙されてしまうと、「人のとりこにされてしまう、という危険があったのです。これは、だれかの捕らわれの身になる」という意味でもあります。あくまでも人間的な教えだから、結果的に、人間に束縛されるようになる、ということです。


そして、「それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」とありますが、人間の言い伝えにすぎない哲学に惑わされることは、世に従うものであり、キリストに従うものではない、ということが明確にされています。「世」とは、しばしば神様とそのご計画に敵対する人々や勢力のことを指します。ここでは、「この世かキリストか」という選択が迫られている、ということにもなります。


ちなみに、「世」と訳されている言葉は、もとの言葉では「コスモス」と書かれていて、宇宙をも意味する言葉です。「世」や「この世」と訳されているものの、宇宙をも意味する、たいへんスケールの大きな言葉であることがわかります。そして、そのような大規模な世界には、そこを支配する霊が存在する、と言われています。パウロの時代は、霊や目に見えない諸力が、人間の生活を支配すると考えられていました。ここでの「霊」は、この世の万物を構成する基本的な要素のことでもあると言われます。人間の基本的な行動を支配し、駆り立てる、と考えられていたため、この例の存在によって、人間生活が支配される、と思われていたわけです。


私たちは確かにそのように、神と人、といった関係性だけでなく、それを取り巻く様々な霊的な勢力の迫りを受け、そこからの影響を受けている、ということではあるのですが、だからといってそれに流されて、それに従って生きていくのか、そうではないのか。そのことの選択が常に迫られている、そのようにパウロは教えるのです。


ですから、この8節に至るまでに、キリストを信じ受け入れたなら、キリストによって、キリストと共に歩むのだ、そしてこのキリストに根ざして建て上げられ、固く信仰を守り、あふれるばかりに感謝する信仰生活を送っていなければ、すぐに私たちはこの世で私たちに影響を与えようとしている諸霊の力に屈してしまう、ということでもあるのです。


そして、そのような信仰生活を送りながら、この世に従うのではなく、キリストに従って歩むように、勧めているのです。


そのことがあるので、9節以降はむしろキリストによる圧倒的な罪の赦しが述べられていきます。キリストのすばらしさを述べ、キリストを選ぶように勧められているのです。そこでは、キリストによる罪の赦しが明確に述べられているだけでなく、キリストが勝利者として描かれ、読者はおのずとキリストの方を選ぶように導かれています。順を追って見ていきましょう。


9節と10節は、新共同訳ではひとつづきで訳されています。この世と十分対抗しうるキリストは、神としての性質を持つ偉大な方だ、ということが、まず示されています。


ここで「満ちあふれる神性」とありますが、これは「神の満ち満ちたご性質」ということです。神様としてのご性質というのは、何とも漠然としたもので、つかみどころがありません。しかし、それが、キリストにおいて、「余すところなく、見える形をとって宿っている」とパウロは説明します。よく、「神がいるなら見せてみよ」という言葉を聞きますが、まさにそれに対する答えが、この御言葉にある、といっていいでしょう。神様はどんな方ですか。どんな性質の方ですか。それだったら、キリストを見ればいいのです。キリストを見れば、神様の御性質が、すべて、見える形で表れている、と言うのです。


次の10節においては、私たちがそのようなキリストにおいて満たされている、ということが簡潔に述べられています。ここで「キリストにおいて」とは、「キリストの中にいて」ということです。私たちは、私たちの外側に、私たちのすぐそばにキリストがいてくださる、というだけでなく、あたかもキリストの内部にいて、すべてのものが満ち満ちているキリストによって、私たちも満たされる、ということであるかのようです。あるいは、私たちを空っぽな容器だとして、キリストの恵みによって、その空っぽの容器が満たされていく、というようなイメージでも構いません。


続けて語られるのは、「キリストはすべての支配や権威の頭です」ということで、これはエフェソの信徒への手紙では、「キリストは教会の頭」と言われていることと同じです。キリストは教会の頭であり、なおかつすべての頭であるので、私たちを満たすことができるのです。しかもこのキリストは、神の性質を体現した、見えない神様の御性質を見えるように分かるようにした方なのです。そのような方が、すべての支配や権威の頭である、というのは、ごく自然なことであるのです。


続く11,12節も、新共同訳は一続きで訳しています。新改訳2017も、新しい聖書協会共同訳も、11節は11節で文章として完結しており、一続きにはなっておりません。その方が理解しやすいと思うのは私だけでしょうか。


11節は、キリストと私たちとの関係です。割礼とは、神様との契約の印ですが、それを私たちはキリストから受ける、ということです。これもまた、キリストの偉大さを表す御言葉です。キリストが、私たちとの契約関係の主としてここでは表されています。キリストと私たちは契約関係にあるのであり、ごく近い間柄です。しかも、その契約は、キリストが私たちのことを愛し、守る、といった内容のものですから、私たちには安心ですし、なおかつ、このような契約は、人間の契約と異なり、キリストの側で一方的に恵みによって結んでくださる契約ですから、基本的には、私たちの行いどうこうによって変わることはありません。


ここで契約のことが出てきましたから、12節で、ある意味でキリストとの契約関係を表す洗礼の話題が出てきます。洗礼もまた、私たちの罪を赦す、というキリストとの一種の契約であるのです。ここでは、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」と言われ、洗礼が、キリストの十字架での死と復活とに関係するものであるとして説明されています。「洗礼を受けることは、イエス様が死んで神によってよみがえらせられたのと同じように、罪に死んで新しい命によみがえることである」と言われることがあります。ここで重要なのは、「共に」という小さな言葉です。キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた。まさに、キリストの死にあずかり、キリストの復活にあずかる、ということです。本来であるならば、肉なる人間が、その罪深さゆえに、キリストと共に何かをする、などということは考えられないことでした。しかし、キリストはあまりに憐れみ深いので、私たちがキリストと共に葬られ、キリストと共に復活する、ということを許容してくださいました。そのようにして、私たちはキリストのご性質にあずかり、救いをいただくのです。


13,14節も、新共同訳では一続きの文章です。まず13節ですが、新共同訳では「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、」と訳されていますが、訳によってだいぶ解釈が異なる箇所です。新しい聖書協会共同訳では、「あなたがたは過ちによって、また肉に割礼を受けずに死んでいた者でした。神は、そのようなあなたがたをキリストと共に生かし、私たちのすべての過ちを赦してくださいました」とすっきりと訳しており、いちばんわかりやすいように思います。


難しいのは、私たちは何によって死んだようになっていたか、ということです。これは、新共同訳だと「罪」、先ほどご紹介した聖書協会共同訳だと「過ち」、そして新改訳2017では「背き」と訳され、それぞれ解釈が異なるのです。広い意味では「罪」と理解して構わないのですが、細かく言うと、人が間違った歩みや失敗によって、律法や神の意志を破る行い、ということになり、罪の性質、というよりは、それによってもたらされた具体的な律法に反する行ない、ということになるようです。そのあたりを思って、他の訳では、「過ち」であるとか、「背き」といったように、「罪」よりは少し的を絞って、訳し出しているようです。どちらかというと、背きというニュアンスよりは、過ち、といったニュアンスの方が、元の言葉の意味に近いように思われます。


私たちは、皆過ちを犯しながら日々を送っています。もちろんそれは、人間だから過ちがあって仕方がない、と開き直ってのことではなく、なるべく正しく歩みたいのに、どうしても弱さのゆえに、そうなってしまう、ということです。そんな私たちを、神様は憐れんでくださいました。そして、何とキリストと共に、生かしてくださったのです。しかも、神様が、一切の罪を赦してくださった、と明言されています。御言葉が確かにそのように宣言している限り、私たちはそれをそのまま受け取り、感謝したいものです。


神様がなさったのは、それだけではありません。「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」。14節の御言葉です。ここで規則とは、モーセが受け取った律法全体のことです。私たち人間には、その律法を完全に守り切ることができない、という罪がありますが、それを「わたしたちを訴えて不利に陥れていた証書」とみなし、それを破棄して、無効にしてくださったのです。この証書は「債務証書」あるいは「借用書」とも訳され、いずれも神様に対して負債があり、負い目があったことを示しています。しかし、それを神様はキリストの十字架によって、取り除いてくださったのです。


ここにあるのは、先にも申し上げましたが、圧倒的な罪の赦しの恵みです。ここまで明確に聖書に罪の赦しについて書かれているのに驚くばかりです。聖書というと守るべき規則ばかり書いてあるようにイメージしてしまうこともないわけではありませんが、実はこのように、徹底的な罪の赦しの恵みについて、十分に説明しているのです。もう私たちは、神様の前に完全ではないことの負い目を感じる必要はありません。求められていることにすべて応えられていないことに責めを感じる必要もありません。そのようなものは、すべてキリストの十字架によって、取り除けられているのです。「この世かキリストか」と選択が迫られた時、これでこの世を選ぶ、などということがあるでしょうか。


最後の15節は、高らかな勝利の宣言です。私たちを支配しようとするような世の諸々の勢力は武装解除され、さらしものとされる。そして、そこにあるのは、キリストの勝利の行列です。私たちの主であるキリストは、十字架で死なれ、敗北したわけではありません。見事に死から復活され、このように勝利の行進をされる方なのです。そこには、かつてこの世を支配しようとした諸々の霊が、逆に敗北者として列をなしています。それを見たうえで、なお私たちがこの世を選ぼうとすることがあるでしょうか。この世にあるのは、キリストに敗北した諸々の支配と権威にすぎません。私たちの主であるキリストは、それらの中にあって、勝利者です。このキリストを私たちは選ぶのです。


そのように言いながら、同時にまた、私たちは自覚的に、主体的にキリストを選んでいるようで、実はキリストに選ばれて今がある、ということにも気づかされます。皆さん良くご存じのように、イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とおっしゃいました。ヨハネによる福音書の15章16節の有名な御言葉です。驚くべきことに、キリストの方から私たちを選んでくださったことに感謝して、その上で、私たちもキリストを選びます、と告白し、キリストの勝利をつかんで、この世を大胆に歩んでいきたいものです。


お祈りします。

天の父なる神様。御前に出て、あなたから恵みをいただける一時を感謝します。この世にありながら、なお私たちが私たちを救ってくださったイエス様を選び、過ごしていけますように。もちろんその背後には、イエス様が私たちを選んでくださった、という恵みがあります。感謝します。この救い主イエス様を見つめ、あふれる恵みを味わいながら歩むことができますように。連日の命に危険が及ぶほどの暑さからも、どうか私たちをお守りください。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


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・危険な暑さが続いていますので、お気をつけてお過ごしください。来週は、ミニバザーがあります。

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