2025年7月13日 聖霊降臨後第五主日
- 明裕 橘内
- 15 時間前
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聖書交読 申命記30章9~14節(旧約p329)
司)30:9 あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。
会)30:10 あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。
司)30:11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
会)30:12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
司)30:13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
全)30:14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
聖書朗読 ルカ10章25~37節(新約p126)
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
説教 「良い隣人とは誰か」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
今日も大変な暑さとなっております。不快指数もマックスで集中力も続かないところですが、神様の助けを得て、何とか御言葉に聞き入ってまいりましょう。今日は、「隣人」というテーマに関して、正面から向き合っていきたいと思います。私たちにとって良い隣人とは誰か、また、私たちは誰の隣人になるのか、ということです。今日の福音書の箇所を、順を追ってみてまいりましょう。
ルカによる福音書の10章においては、12弟子とは別に、72人の弟子たちが、あたかも全世界に派遣されるかのように、二人一組になって派遣されていきました。神の国の福音を告げ広めるためでした。
その72人たちが帰ってきて、イエス様は彼らの報告を受けます。そして聖霊によって喜びに満たされた、とあります。
そのような光景を、恐らく見ていたのでしょう。ある律法の専門家が立ち上がってイエス様に質問します。「試そうとして言った」(25節)とありますから、悪意ある質問だったようです。律法の専門家とは、いわゆる律法学者のことで、旧約聖書の最初のモーセ五書を研究する学者のことです。イエス様の当時、絶大な権力を持っていました。ユダヤの議会にも多く加わっていたほどです。しかも、イエス様に敵対していた者たちが多かったのです。
その質問の内容はこうでした。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)。「何をしたら」と聞いているあたりが、律法学者らしい気がします。現在、イエス様の当時のユダヤ教について研究が進み、新しい説が出されているものの、やはりここにははっきり、「何かをして永遠の命を得ようとする」という、当時のユダヤ教のひとつの姿が表れているようにも見えます。
この「永遠の命」についてですが、イエス様の時代までに、多くのユダヤ人が死後のいのちを信じ、待ち望むようになっていたとも言われます。しかし、祭司に多いのですが、サドカイ派のように、律法には明確には述べられていないとして、永遠の命の概念を受け入れない者たちもいたのです。律法の専門家はファリサイ派が多かったので、永遠の命がある、と思っていたようです。ではイエス様はどうかというと、ご自身を信じる者すべてに永遠の命が与えられると述べています。
ちなみに、この質問はイエス様を試そうとするものではありましたが、この永遠の命に関する問い自体は人生最大のものだと言えるでしょう。ですから、のちには真面目な裕福な議員も同じ質問をしていることが、同じルカによる福音書18章に記されています。
この質問に関し、イエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と質問で返されます。この場合の「律法」とは、旧約聖書の最初のモーセ五書のことで、具体的には創世記から申命記の部分を指します。イエス様は、「何と書いてあるか」と尋ねるだけでなく、「あなたはそれをどう読んでいるか」と問います。これは私たちに対しては、「聖書に何と書いてあるか」と尋ねるだけでなく、「あなたは聖書をどう読んでいるか」と尋ねられるのと同じです。これは、私たちが主体的に聖書を読んでいるかどうかを尋ねる問いです。ただ知識として、「こう書いてある」というだけでなく、ではそれを「私はどう読むか」すなわち、どう受け止め、どう解釈しているか、ということが重要なのです。
では、この律法の専門家の答えを聞いていきましょう。先に、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエス様に質問したのに、それに対して「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に尋ねられたので、それに対する答えをしています。彼はこう言うのです。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」(27節)。これは申命記の御言葉とレビ記の御言葉を組み合わせた答えで、立派な答えと言って差し支えないでしょう。前半の『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』の部分が、申命記6章5節の御言葉の引用で、ユダヤ人がよく唱える「シェマー」という祈りの中にもあります。そして、後半の「隣人を自分のように愛しなさい」は、意外に思われるかもしれませんが、あのいけにえのことばかり書いてあるような、レビ記の引用です。レビ記19章18節の御言葉です。
律法は非常に広く大きいものですが、その中心は神様と人への愛だ、とこの律法の専門家は捉えていたようです。その答えはイエス様がおっしゃる通り、正しかったのですが、どうも実行してはいなかったようです。だから、イエス様はここで「それを実行しなさい」と勧められるのです。
しかし、この律法の専門家は、そもそもイエス様を試そうとしてこんな質問をしたぐらいですから、簡単には引き下がりません。彼は自分を正当化しようとして、発言します。「自分を正当化しようとして」というのは、「自分が正しいことを示そうとした」ということでもあります。また、もっと言うと、正当化することを願う、あるいは正当化したい、という欲求でもあったのです。私たちが、つい言い訳をしたくなるのと、同じような事だったのかもしれません。
彼はこう言います。「では、わたしの隣人とはだれですか」。隣人を愛することを実行せよ、と言われるなら、誰が私の隣人なのか、ちゃんと教えておいてほしい、ということだったのでしょう。もしそれをはっきり示せなかったら、私はいくら隣人愛を実践せよと言われたところで、それはできませんよ、と言いかねない勢いです。
「私の隣人とは誰か」。これは、私たちにとっても大きな問題です。まず、隣人という言葉について考えてみましょう。かつて「隣り人」と訳されたこともあるこの言葉。「距離または利害において近い人々」のことで、「遊牧民にとっては隣人との関係は重要であった」とも言われます。遊牧民でなくても、かつての日本における農耕文化において、共同作業というものは実に重要でした。だからこそ、その協力が失われる「村八分」というものが恐れられたわけです。それが、現代社会において人間関係が希薄になると、特に都市部などにおいて、隣人を気にしない生活、というものが成り立っていく。買い物も、コンビニなどで、一言も言葉を発しなくても、できてしまう。そういう中では、改めて「私の隣人とは誰か」ということも考えなくなってくるでしょうし、ましてや、私が誰かを愛して生きる、ということにも、思いが行かなくなっていく、ということがあると思うのです。そのような中で、イエス様のたとえ話が語られるのです。
そのように、ある律法の専門家の「わたしの隣人とはだれですか」(29節)という質問に対し、イエス様は有名な「善いサマリア人」のたとえを話されます。エルサレムからエリコへと下っていく途上で強盗の被害に遭って倒れ込む一人のユダヤ人に対し、誰が隣人となったか、というテーマです。
「エルサレムからエリコへ下って」とありますが、エリコは海抜マイナス244メートル、エルサレムの北東およそ26キロに位置しています。それに対してエルサレムは海抜762メートルであるため、エリコへの道は長い下り坂でした。険しい下り道は曲がりくねって岩地を通るので、強盗に襲われやすかったと言われます。それなのに祭司がこの道を通ったのは、当時エリコには、エルサレム神殿に仕える祭司階級の半数が住んでいたからだ、と言われています。
その道を最初に通ったのが、祭司でした。しかし、彼は「道の向こう側を通って行った」(31節)とあります。追いはぎ、すなわち強盗に襲われて、一人残されてしまったこの人は、この人間関係の希薄になった現代社会において、孤独の中に打ちひしがれている私たちの姿の象徴であるかもしれません。ややこしい、面倒な人間関係を避ける傾向のある現代。祭司が「道の向こう側を通って行った」というのは、この関わりを避ける現代の人間関係をも映し出しているかのようです。
「祭司」は、モーセの兄弟アロンの子孫に属していました。律法によって、死体やけが人の血に触れて汚れることを、祭司は恐れていたのです。汚れれば、再び神殿での任務に戻るためには清めの儀式を経なければなりませんでした。この時は、道を下ってきたわけですから、神殿のあるエルサレムからエリコの方に行こうとしていたわけで、神殿のご用があったわけではないと思うのですが、先ほど申し上げましたように、エリコには祭司の家が多くありましたから、帰り道で、早く家に帰りたい、という思いがあったのでしょうか。
このように、「道の向こう側」、これは道の反対側、ということなのですが、そんなところを通っていくような人は、倒れた人の隣人ではありません。健全に、適度に人と人との距離感を保つことは重要ですが、かと言って、誰か困っている人がいて、その人の反対側を通り過ぎていくようであれば、それは無関心、ということになります。身近で起こっていることに関しても、パレスチナのガザで起こっていることに関しても、それに対して何ができるか、ということは別として、無関心でいる、ということは、自分はそこにいる人々の隣人ではない、と言っているようなものなのです。
次に登場するのはレビ人です。彼らは神殿で祭司たちを補佐していましたが、同じように汚れるのを恐れて、また彼も道の反対側を行ってしまいました。祭司もレビ人も、ユダヤ教聖職者として率先して律法実行の模範を示すべき人として登場するのですが、二人とも、関わりを避けた、道の反対側を行った、という点では、倒れた人の隣人ではありませんでした。
イエス様が、倒れた人の反対側を通って行った人を、祭司だけでなく、レビ人も登場させ、2人であった、としておられるのには、意味があるのかもしれません。申命記19章15節には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」とあります。もちろん、ここで言われているのは犯罪ではないのですが、既存のユダヤ教がこの隣人愛ということにおいてすでに機能しなくなっている、ということを立証するために、二人のケースを挙げている、とも思えてきます。
これらに対して、三番目に登場するのが、のちに「善きサマリア人」として知られる、「旅をしていたあるサマリア人」です。英語ではグッド・サマリタンと言われ、教会やキリスト教関係の慈善団体の名前によく用いられています。
本来ならサマリア人がこのようなユダヤの領域にいるはずはないのですが、そこは「旅をしていた」サマリア人とのことですから、あくまでそこを通りがかった、ということなのでしょう。このサマリア人は、倒れている人、ユダヤ人と思われますが、彼を見て憐れに思うのです。
そもそもこのサマリア人ですが、紀元前721年の北王国滅亡後、アッシリア王が移住させた植民者の子孫だと言われます。他民族との血縁関係のある「外国人」として、ユダヤ人にさげすまれていました。ですから、当時ユダヤ人とサマリア人は互いに不信感を抱き、反目し合っていたのです。
それにもかかわらず、そのような壁を打ち破って、このサマリア人は倒れたユダヤ人に近づいていきました。彼は、「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って」(33,34節)行ったのです。このように、そばに来て、近寄ってきてくれるのが隣人なのです。
この旅のサマリア人は、倒れた人に近づいて、「傷に油とぶどう酒を注ぎ」ます(34節)。この当時、「油とぶどう酒」は薬として用いられていました。油はオリーブ油のことです。オリーブ油はいやしの儀式に用いられることもありました。オリーブ油で傷をいやし、ぶどう酒で消毒したのでしょう。さらに、「包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」とあります。それをするには、相手と距離が近いことが前提となります。
彼は翌日にはデナリオン銀貨二枚を出してきて、宿屋の主人に渡し、『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』と言い残します(35節)。一デナリオンが当時の一日の労働賃金でしたから、今の感覚で言うと、2万円ほど置いていった、という感じでしょうか。「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」という発言は、このサマリア人の関心の高さを物語っています。ここから出発したら、宿屋の主人にも任せたわけだし、あとは関係ない、というのではなかったのです。自分がまた帰りがけに寄ってもいいから、必要なことは十分にしてほしい、という思いだったのです。これぞ隣人の姿、と言えるでしょう。
思った通り、このたとえを聞いた律法の専門家も、イエス様が「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36節)と優しくお尋ねになった時、ごく自然に「その人を助けた人です」(37節)と答えています。イエス様は答えを促すだけで、はっきりと誰が隣人となったかはおっしゃっていませんが、恐らく同じ答えだったことでしょう。
ただ、大事なのは、次のイエス様の言葉です。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(37節)。本日の箇所では、28節にも「それを実行しなさい」とあり、実行することが大事にされています。すなわち、律法について、また隣人について「理解」するよりも、律法を「実行」し、隣人愛を「実践する」ことの方が重要、ということなのです。その重要な「実践」が大事であると分かっていながら、なかなかできない私たち。その私たちを丸ごと受け止めて、私たちの隣人となるために、イエス様はこの世に来てくださったのです。
その意味では、私たちにとっての良い隣人はイエス様、と言うことができます。「良い隣人とは誰か」。この問いに、私たちは「それはイエス様です」と答えるのです。ですから、このたとえの場合、旅のサマリア人を、イエス様に見立てるわけです。この世の荒波にもまれて打ちひしがれる私たちに近寄ってきてくださる。それが私たちの良き隣人であるイエス様なのです。
最後に、もう少し別な角度からこのたとえを振り返ってみましょう。先ほどは、このたとえの中の登場人物のうち、善いサマリア人をイエス様に見立て、私たちの良き隣人になってくださるイエス様に感謝したことでした。ただ、イエス様がご自分をサマリア人に例えるというのも少し不思議です。そうすると、追いはぎに襲われて倒れ込んでいるユダヤ人、もしかしてこちらの方が、このたとえの中に表れたイエス様なのかもしれません。
そうすると、私たちがまさに、イエス様のために、善きサマリア人になる、ということになります。そんなことができるのでしょうか。今日の交読文を見ますと、申命記の30章14節には、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と断言されています。私たちのための助け主である聖霊がおられる限り、私たちは日々イエス様に似た姿に造り変えられて、御言葉を行うことができる私たちに変えられていくのです。ですから、この世にあって人々の無理解にあい、大事にもされず、信じられもしないイエス様がくずおれて倒れ込んでいるとき、私たちがこのイエス様のそばに行き、近寄ってイエス様のために良き隣り人となるのです。そのことを、イエス様は願っておられます。「私の隣人になってくれないか」と私たちに声をかけておられます。それに私たちはどう答えますでしょうか。「行って、あなたも同じようにしなさい。」この御言葉が、私たちの耳に響きます。私たちは、イエス様に近寄り、イエス様にお仕えします。イエス様の隣人になるのです。そして、このイエス様を、世に伝えていくのです。
お祈りします。
天の父なる神様。新しい一日が与えられ、感謝します。私たちに隣人について教えてくださり、ありがとうございます。善いサマリア人の姿を見ましたが、私たちに近寄り、私たちのよい隣人になってくださるのは、イエス様、あなたです。感謝します。そしてまた、私たちも、イエス様の隣人となって、イエス様を愛し、仕えてまいります。そして、イエス様を伝えてまいります。そのことを、どうか導いてください。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・暑い毎日が続いています。熱中症にくれぐれもご注意ください。

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