2025年6月1日 昇天主日
- 明裕 橘内
- 6月1日
- 読了時間: 12分
聖書交読 詩編93編(旧約p931)
司)93:1 主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
会)93:2 御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。
司)93:3 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。
会)93:4 大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。
全)93:5 主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。
聖書朗読 エフェソ1章15~23節(新約p352)
1:15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、
1:16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
1:18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
1:19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
1:20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、
1:21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
説教 「神の右の座におられるキリスト」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
おはようございます。先ほどは、開所式を来週に控え、7月からは第3週の礼拝が始まる園田伝道所のことを共に心に覚えるために、久松姉にお証しをしていただきました。ありがとうございました。これまで通り、これからも、園田伝道所の歩みのために、お祈りをしたいと思います。
さて、イースター以降、復活節を過ごしてまいりました。礼拝の賛美歌でも、イエス様の復活を祝う賛美を歌ってまいりましたが、それも先週で終わり、本日は5月29日の主の昇天日を受け、昇天主日として、イエス様の昇天を記念しております。私たちの罪を赦し、救うために十字架にかかられ、私たちを神の前に義とするために、復活されたイエス様。神様の救いのためのご計画をすべて成し遂げ、天に帰って行かれました。それは、先ほど共に告白した使徒信条の中でも述べられていたことです。そのことの意味を、本日は共に振り返っていきたいと思います。聖書の箇所は、使徒書のエフェソの信徒への手紙からで、パウロの祈りとなっております。その中で、イエス様が天に帰られたことについて、触れています。どんなことが書かれていたか、共に振り返ってまいりましょう。
まず、15,16節は、「こういうわけで」という言葉に始まり、パウロの祈りのきっかけについて述べられています。パウロは、エフェソの人々が主イエス様を信じ、すべての聖なる者たち、すなわち同じイエス様を信じる人々を愛していることを聞きました。これが、パウロがここで祈る動機となっています。
祈りにおいて、このように「聞く」ということは大事です。私たちは何かを「聞く」から、祈るのです。ある人が、今体調を崩している。その知らせを「聞いた」。だから、祈りが必要であることがわかって、祈りだすのです。どこかでたいへんな災害が起こった。そこで、多くの人が苦しんでいる。それを「聞いて」、私たちは神様に心を向け、祈り始めるのです。
パウロが聞いた知らせは、エフェソの信徒たちについての知らせでしたが、2つありました。ひとつは、エフェソの人々が主イエス様を信じた、ということです。パウロはここでイエス様を「主」イエス様、と呼んでいます。それは、イエス様が復活された方である、と信じているからです。イエス様は単なる偉大な道徳の教師なのではない。人間をはるかに超えた存在なので復活することができたのであり、神様なのだ、だから主なのだ、ということです。そして、のちに述べられるとおり、この復活の主が、天に昇られたのです。
もうひとつ、エフェソの信徒たちは、同じくイエス様を信じる者たちを愛している、ということでした。ひとたびイエス様を信じるなら、もう自分自身のことばかり考えてはいられなくなります。同じくイエス様を信じる人々を見て、この方のためにも、あの方のためにもイエス様が十字架にかかられた、と思うなら、そのような人々のために何かして差し上げたい、と思うのはごく自然なことです。そのようにして、信仰に入り、信仰を同じくする人々を愛していたエフェソの信徒たちを思い起こしては、パウロは祈り、神様に感謝をささげていたのです。
17節の「どうか」以降が具体的なパウロの祈りの言葉になっています。今日のテーマはイエス様の昇天ではあるのですが、せっかくの機会ですから、豊かなパウロの祈りの言葉を通して、恵みをいただきましょう。
ここでまず私たちは、祈りは父なる神様にささげられる、ということを教えられます。そして、この方は、「栄光の源」である方であると言われています。栄光を光の輝きと捉えるなら、その輝かしい光の源が父なる神様である、ということになります。だからこそ、この神様は天地創造において、「光あれ」と仰せになることができたのです。また、栄光とは「賛美」とも訳せる言葉ですから、あらゆる賛美の源は神様にある、ということにもなります。私たちは今日、礼拝の中で何曲か賛美しておりますし、これからも賛美しますが、その根源におられる方は神様だ、ということです。
また、この神様こそが、私たちに知恵と啓示の霊を与え、私たちが神様を深く知ることができるようにしてくださるのです。啓示とは何かを明らかにする、ということですから、神様について、神秘で覆いつくされていたものが、神様ご自身によって明らかになる、ということです。神様に与えられている知恵と相まって、私たちはそのように神秘が明らかにされていくことによって、ますます神様のことを深く知ることができるようになる。私たちが、私たちの進歩と成長によって神様を知るようになる、というのではないのです。あくまで神様ご自身の方から、私たちに知恵と啓示を与え、神様のことを理解させてくださる、というのです。
しかも、私たちの閉じた心の目を開き、真理が何であるかわかるようにしてくださいますし、神様が私たちを招いていてくださる、ということがどんなに希望に満ちたことなのか、知らせてくださるのです。「聖なる者たちの受け継ぐもの」とは、イエス様の救いによってきよい者とされた信仰者たちが受け継ぐもののことであって、それは豊かな栄光に輝いている、というのです。何と希望に満ちていることでしょうか。
続く19節でも、パウロは祈りの言葉を通して、神様のことについて説明しています。この神様は、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる方です。その方の力は実に大きい、それをエフェソの信徒たちが悟ることができるように、という祈りがなされています。神様のこの絶大な力は、イエス様を死者の中からよみがえらせ、それまで地上で過ごされていたのを、天にまで一気に引き上げる力として、世に表されました。パウロはそれを知って、神様の力は絶大な働きをなさる、とここで述べているのです。この同じ絶大な神様の力は、私たちにも働いて、この世において罪の中に死んだような私たちをまことの命へとよみがえらせてくださいました。古い生き方を脱ぎ捨て、新しい生き方へと生き返るようにしてくださったのです。そればかりか、のちに神様は私たちを、イエス様と同じように、天に招いてくださいます。私たちの国籍は天にあります。本当の故郷は天にあるのです。その、ある意味では懐かしい天の国に、神様は私たちを連れ帰ってくださるのです。
それで、いよいよ20~21節、イエス様の昇天について示しているところに至りました。パウロは、「神は、この力をキリストに働かせて」と述べています。19節の、「絶大な働きをなさる神の力」のことを指しています。その力をキリストに働かせ、キリストを死者の中から復活させた。これがまずひとつの神様のなさった大きな出来事です。これがあって、私たちは私たちも復活する、という希望を持つことができるようになりました。そして二つ目、キリストを「天において御自分の右の座に着かせ」られたのです。
ここで「右の座」ですが、場所としての「右」ということももちろんありますけれども、また私たちが「彼は私の右腕だ」と言うような意味合いでの「右」、という意味もあるのです。神様の右の座、という場合、それは「権威と栄誉を表す」とも言われます。どこであろうとも、神様の権威と栄誉を表すなら、そこは「右の座」なのです。すなわち、キリストは神様の権威と栄誉を象徴する存在、ということになります。神様の権威とは、「光あれ」という言葉によって世界を創造し、その御言葉によって世界を治めているもので、その栄誉は世界中にとどろき、国々からの賛美の声を呼び寄せているものです。キリストはそれらをそっくり受け継いでおられる偉大なるお方なのです。
だから、その偉大なるお名前はすべての「支配、権威、勢力、主権」の上に置かれ、そればかりか、「今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に」置かれました。すなわち、キリストの名は、今権力がある、と言われる人よりもはるかに上にあり、これから出てくると思われる権力があると言われそうな人々よりもまた、高いところにある、そのような存在にはるかにまさって偉大なのだ、ということです。
ちなみに、この「支配、権威、勢力、主権」という、私たちに耳慣れない四重の権力ですが、何のことかご存じでしょうか。パウロがこの手紙を書いたころのギリシア世界では、天はいくつもの層によって出来ている、と考えられていました。その最下位の層を、この四つが支配している、と考えられていたようです。その層を支配する四つの霊のようなもので、これらが実際、地上のすべての権威を掌握していた、と思われていたようです。そのようなものなど、キリストは遥かに超えている、とここでは述べられているわけです。
ここに、キリストの昇天の意味があります。キリストは死者の中から復活して、もはや死は彼を支配しない、という段階で、すでにキリストの卓越性は表れていました。しかし、それを不動のものとするために、本当にキリストはすべてを超えておられる方なのだ、とわかるように、高い高い天へと引き上げられ、すべての名にまさっている、すなわちすべての存在にまさっている神様なのだ、ということが証明されたわけです。
続く22節において、このキリストが、「すべてのものの上にある頭として教会に与えられた」とあります。これによって、天の諸々の存在よりもはるか上におられるキリストが、教会の頭である、ということが示されました。これは、まだ始まったばかりの教会に、どんなに心強かったことでしょう。まだまだ教会は多数派ではありませんでした。迫害によって、いつ消えてなくなるかわからないような存在でした。まだ町の中心に、壮麗で誰の目をも引くような立派な大聖堂が建てられるずっと昔のことです。「将来性」ということで言えば、誰もまだそれについて語ることなどできないような時代でした。町の中に、信徒たちがそれぞれ家で集まっている、そのような集まりが点々としていた、という頃です。誰も、「教会はすべてにまさって偉大である」とか、そのようなことを自信を持って言えなかったような時に、「すべての名にまさるキリストが教会の頭」と言っていただけたのは、単なる励まし以上のことだったのではないでしょうか。
この御影ルーテル教会も、また、35年以上の礼拝の歴史を持ち、昨年11から新しく与えられた会堂において礼拝が始まり、来週6月8日に開所式を迎える園田伝道所も、その頭は共通して、キリストです。しかも、そのキリストは、高く天に上り、神の右の座に着き、すべてを超えておられる方です。そんな素晴らしい、偉大な方が頭である教会。これからのことに期待が持てます。
また、もう一つ言わなければならないのは、教会は誰かが何らかの意図を持って操作しようとしているのではなく、あくまで頭はキリストである、ということです。このことは、徹底的に御言葉から教えられなければなりません。ああしたい、こうしたい、という思いがたとえあったとしても、頭はあくまでキリストなのです。そして、そのキリストは、十字架ご復活して、天に上り、神様の右の座につき、すべてを超えておられる、偉大な方なのです。
この昇天のキリストが頭だ、と言われる教会は、またキリストの体でもある、というのが、本日最後の23節の主張するところです。しかも、「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」とまで言われています。この、「すべてにおいてすべてを満たしている方」とは、そのまま読めば、キリスト、ということになるでしょう。あるいは、来週の聖霊降臨祭、すなわちペンテコステを視野に入れれば、キリストの言葉をことごとく教え、思い出させてくださる聖霊のことと考えても差し支えありません。いずれにしても、教会に満ちておられる方というのは、すべてにおいて、すべてを満たすことができるお方です。今どんなに、教会において欠乏を感じていようと、教会に満ち満ちておられるお方は、その欠乏を完全に満たすことができる方なのです。
十字架にかけられたけれども復活なさり、天に昇って神の右の座についておられるキリストが、教会の頭であり、教会はそのキリストの体である。この真理を胸に、教会生活を送ってまいりましょう。
お祈りします。
天の父なる神様。今朝あなたの前に出て、礼拝において恵みにあずかることができ、感謝します。ひとり子イエス様が私たちの罪のために十字架にかかられたものの、復活して私たちをあなたの前に義としてくださったことに感謝いたします。そのイエス様を、あなたは天へと引き上げられました。今はあなたの右の座におられることを今朝覚えることができました。すべての名にまさる偉大なイエス様が教会の頭で、また教会はキリストの体であると教えてくださり感謝します。教会はどこであってもイエス様の満ちておられるところです。そこで共に時を過ごすことができ、イエス様に近づくことができること、ありがとうございます。これからも教会における私たちの歩みを祝福し、導いてください。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
・報告
本日は礼拝の中で園田伝道所についてのお証しがありました。午後には昼食会があり、そのあと役員会になります。

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