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2025年5月4日 復活節第三主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 5月4日
  • 読了時間: 14分

聖書交読 詩編30編1~11節(旧約p860)

司)30:1 【賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。】

会)30:2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。

司)30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。

会)30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。

司)30:5 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。

会)30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

司)30:7 平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。

会)30:8 主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。

司)30:9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。

会)30:10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。

全)30:11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。

 

聖書朗読 ヨハネ21章1~14節(新約p211)

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。

21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。

21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。

21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。

21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 

説教 「主の招き」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

本日も復活節にふさわしく、復活のイエス様がお姿を現された出来事を記す福音書の箇所を開いております。場所はティベリアス湖畔でした。ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖のことです。ローマ人が、ローマ皇帝ティベリウスにちなんで、ティベリアス湖と呼んでいたようです。2節以降で、復活のイエス様が御自身を表された様子が描かれています。

 

2節では、まず、この時に居合わせた弟子たちの名が記されます。それによって、この復活のイエス様が現れたという出来事が確かなことであった、ということを証明しようとしているかのようです。トマスが「ディディモ」というニックネームで呼ばれていますが、これは「双子」という意味です。ナタナエルが「ガリラヤのカナ出身」と、ガリラヤ地方出身であることが明記されていますが、実際は、ペトロもトマスも、またゼベダイの子たち、すなわちヤコブとヨハネも、皆ガリラヤの出身です。しかも、皆漁師だったと言われています。

 

3節になって、ここでペトロがリーダーシップを発揮して、「わたしは漁に行く」と言って、漁をはじめます。一緒にいたほかの弟子たちもそれに従います。しかし結局、その夜は何もとれませんでした。そう言えば、ルカによる福音書の5章にも、このように夜通し漁をしても何もとれなかった、という出来事が記されていました。ペトロが人間をとる漁師としてイエス様に招かれた出来事です。もしかしてペトロは、その時のことを思い出していたかもしれません。

 

その夜明けに、イエス様が、湖畔に立たれたのです。イエス様がお姿を現されたのは、弟子たちが夜通し苦労をしたあとでした。もしかしてイエス様は、そのようなときにこそ、お姿を現されるのかもしれません。私たちが自分の力で何とかしようともがいて、何の実りも得られなかったそのあとに、イエス様はお姿を現されるのです。しかも、もう夜が明けたころだったのに、弟子たちには「それがイエスだとは分からなかった」(4節)とあります。イエス様がお姿を現された時、それに居合わせた人の最初の反応は、同じようなものです。イエス様だとわからないのです。復活のからだによみがえられたイエス様の姿は、少しそれまでと異なっていたのかもしれません。

 

イエス様は、「子たちよ、何か食べる物があるか」(5節)と優しく尋ねられます。彼らはまだ、誰が自分たちに声をかけているのかわかっていません。ただ、ありのままに、「ありません」と答えるのみです。

 

これはこれで、よかったのではないでしょうか。私たちは往々にして、このように「ありません」と答えられないものです。新改訳2017では、この5節にあるイエス様の質問を「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」と訳しています。もしそのような言い方をされたら、「いや、どなたかは存じ上げませんけれども、食べる魚がありませんね、だなんて、実際は少しはありますよ」などと虚勢を張って答えてしまうかもしれません。自分が持たざる者である、ということを認めるのは、簡単なことではありません。その点、この時弟子たちは素直に、自分たちの手に何もないことを認めています。そのことを認めてもいい、そんな雰囲気、声色だったのかもしれません。

 

そして、復活の主イエス様は、「舟の右側に網を打ちなさい」(6節)と彼らにアドバイスしてくださいます。これはある意味で、新たな漁への招きです。それまで、すでに夜通し働いているのです。漁をしようと思ったが、期待したような結果を得られなくて、もう今回の漁はおしまいだ、そのように心の区切りも付けていたのでしょう。「そうすればとれるはずだ」などと言われても、漁のプロフェッショナルが言ってくれているのかもわからない。そもそも、もう疲れた、そんな思いもあったかもしれません。それなのに、「よし、やってみよう」と、新たな漁へと彼らは入っていったのです。

 

しかも、舟の右側に網を打つ、というのも、彼らにとっては新しいことでした。それまで、左側にしか網を打っていなかったようです。それはなぜなのか、右利きだとその方が理にかなっているのか、そのあたりのことはよくわかりません。しかし、漁師であった彼らがそのようにしていたということは、何か理由があったはずです。網は、舟の左側に打つものだ。そのような考え方にとらわれていたら、はいそうですか、では右側に網を降ろしましょう、ということにはならなかったところ、彼らは柔軟に、もうあきらめかけているのだけれども、疲れているのだけれども、イエス様の言葉に素直に従い、もう一度網をとり、思い切って舟の右側に網を打ったのでした。そうすると、大漁になりました。

 

実際に、「舟の右側に網を打ちなさい」と言ってくださったのが主イエス様だと分かったのは、大漁になってからでした。イエスの愛しておられたあの弟子、伝承によるとそれはこの福音書を書いた使徒ヨハネでしたが、「主だ」とペトロに伝えています。思い返せば、「舟の右側に網を打ちなさい」という言葉も、新しい漁への招きであった。そのように私たちを優しく招いてくださるのはイエス様に違いない。そのような思いだったのかもしれません。

 

7節で、岸に立っておられる方がイエス様だとわかり、ヨハネは「主だ」と言い、ペトロは湖に飛び込みます。それだけ早くイエス様にお会いしたい、ということだったのでしょうか。8節になって、ほかの弟子たちが、舟で戻ってきた様子が記されています。ここに、ペトロとその他の弟子たちの温度差を見る必要はないでしょう。誰かは、たくさん魚のかかった網を引いてこなければならなかったのです。彼らはその責任を果たした、ということです。

 

教会の中でも同じことです。ある人は、熱烈な思いでイエス様のもとに駆け寄るかもしれませんが、他の人は、その人が投げ出したものを引き受けて、地味かもしれませんが、責任感をもって物事を処理する、ということもあるわけです。教会の中では、目立つ働きばかりではありません。魚のかかった網を引いて、地道に岸に戻ってくるような人々も必要であるわけです。どちらがいいとか、そういうことではありません。どちらも必要なのです。ちなみに、ここでは漁をしていた場所が陸地からそう遠くはなかった、という書き方がなされています。その流れで言われている二百ペキスとは、約90メートルほどの距離と言われています。

 

さて、9節によりますと、イエス様ご自身が、朝食を用意しておられます。魚とパンについて述べられていますが、これは単なる食べ物、ということだけではありません。魚は初代教会においてイエス様の象徴、パンは聖餐式の象徴です。今日は5月第一週目で、ちょうど聖餐式がある日です。その日に読むのにちょうどいい箇所です。

 

「今とった魚を何匹か持って来なさい」(10節)というのも、ある意味でイエス様の招きの言葉です。朝食をご準備くださったのはイエス様ですが、そこに弟子たちも参与できるようにしてくださったのです。

 

あとで聖餐式があることに触れましたが、そのお祈りの中で、この私たちの「参与」ということが触れられています。このような箇所です。

 

「主のからだの枝である自覚がいよいよ認められ、互いに励まし合いながら、主に仕えることが出来ますように。そのようにして、キリストの復活のいのちにともに生かされることを喜び、また、キリストの苦しみにあずかるあかしをたて、おりを得ても得なくてもみことばをあかしし、主ご自身の宣教のみわざに参与することができますように。」

 

ちょっと長くなりましたが、最後に「参与」という言葉が見られます。聖餐式の最後のお祈りで、ちょうど玲子牧師が祈っている箇所です。私たちが、「主ご自身の宣教のみわざに参与する」。私たちの宣教なのではありません。主ご自身の宣教のみわざがあるのです。とは言うものの、全部、最初から最後まで主ご自身がなさるので私たちには働きの余地がない、というのではありません。私たちは祈りの中で、「主ご自身の宣教のみわざに参与することができますように」と願うのです。

 

それは、朝食をご用意くださるのは復活の主イエス様なのではありますが、そこにあくまでイエス様の招きによって、「今とった魚を何匹か持って来なさい」とお言葉をかけていただくからこそ、イエス様のみわざに参与できる、ということなのです。

 

そのように、復活の主の招きによって、舟の右側に網を降ろし、大漁になって「百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった」(11節)というのは、昔から様々な解釈がなされてきました。ひとつ、これを象徴的にとらえることもできます。これはもしかして、弟子たちの伝道の働きによって、大勢の人々がイエス様のもとに導かれ、救われたことを暗示しているのかもしれない、という読み方です。そうすると、この箇所は、弟子たちが失望して故郷に帰り、漁師に戻ったことを記しているのではなく、伝道の働きをして、多くの魂の収穫を得た、ということを象徴的に表しているのかもしれません。153匹、というのは、本当に数えてそれだけ魚が網に入っていた、というだけでなく、それに象徴されるように、たくさんの人々が、イエス様の御救いにあずかることを意味している、ということです。

 

いずれにしても、イエス様は、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)と、優しく招いていてくださる方です。このことばが、本日の箇所の中では最大の、イエス様の招きの言葉であることになります。

 

イエス様は、「さあ、来て」とお招きになります。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」という招きです。古い口語訳や新改訳では、「さあ」という呼びかけだけで、「さあ、朝の食事をしなさい。」とだけ訳されています。新共同訳のように、「さあ、来て、」と言われている方が、イエス様の招きをより強く感じます。

 

目まぐるしく変動する世の中において、不安を抱えていたり、壁に突き当たって落胆していたりすると、この「さあ、来て、朝の食事をしなさい」というイエス様の招きの声は、心にしみわたると言いますか、何か特別な響きを持っているように感じるものです。心がふさいで、確かに物は口に運んでいるけれども、味わって食事を楽しんでいる、という感じがしない、というご経験も、皆さんおありのことでしょう。そんな中で、改めて、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招かれるイエス様の声を共に聴いています。何という恵みでしょう。

今年の目標は、今年のみことばに基づき、「救い主イエス様を見つめ、あふれる恵みを味わいながら歩もう」となっています。このイエス様からの恵みを共に味わいたいと思います。値上げ、物価高、関税、戦争、事故、こういった、痛ましいキーワードが、あまりにも世に満ちています。ともすれば、私たちもこの世の流れに飲み込まれ、テレビを見ては、暗く沈んだ気持ちになってため息をつく、ということにもなりかねません。その中で、復活のおかげで今も生きておられ、私たちといつも共にいてくださり、このあとの聖餐の礼典の現場にもおいでくださるという、私たちの救い主イエス様は、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と手を差し伸べて私たちを優しく招いてくださいます。そして、あのパウロが、ダマスコにおいて復活の主にお出会いした後、使徒言行録9章で「洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した」と言われるように、私たちも、イエス様の用意してくださる食事によって元気を取り戻すのです。聖餐式も同じです。聖餐式にあずかるまでは、何だか心配事に心押しつぶされるような気持が、聖餐の食卓にあずかって、いのちのパンとぶどう酒を受け、食事をして元気を取り戻すのです。

 

イエス様は、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言っておられながら、「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた」(13節)とあるように、イエス様はご自分の方から弟子たちの方に来てくださって、生きるのに必要なパンを与えてくださいました。「あなたたちから、私の方に来なさい。それがあなたがたの義務であり、責任です」などと突き放す方ではありません。本当に大変なときには、身動きできなくなるものです。助けて、の言葉すら、出てこないのです。そのように、私たちが元気を、また勇気を失って、声も出ず、からだも動かせず、ただぼーっとしているようなときでも、イエス様の方から、私たちのところに来てくださり、「はい、これがパンですよ、これを食べて、元気を取り戻しなさい」と声をかけてくださるのです。弟子たちに対してそうしてくださったのですから、私たちにも、同じようにしてくださいます。そのことに期待いたしましょう。

 

今日はこのように、イエス様の招きを受け取ってまいりました。いちばんの招きは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」ということばでありましたが、それだけでなく、「舟の右側に網を打ちなさい」また、「今とった魚を何匹か持って来なさい」という言葉も、広い意味では、イエス様の招きの言葉、ということになるのでは、とお話してまいりました。

 

最後に、この時で、復活後、イエス様がお姿を現されたのが3度目だった、ということに触れて、終わりにしたいと思います。ペトロは、夜通し漁をしても魚が取れなかった時、以前、イエス様に人間をとる漁師として招かれたときにも、夜通し漁をしたのに魚がとれなかった、ということを思い出していたかもしれません。そしてもうひとつ、ペトロの胸に去来したことがありました。それは、イエス様の十字架前、イエス様を三度、知らないと言った、ということです。まるでそれを打ち消すかのように、イエス様は3度、ペトロの前に姿を現してくださいました。そのように、イエス様は豊かな赦しの恵みに富んでおられる方です。この方なら、私たちの胸の内を、知ってくださいます。連休の期間も、またそのあとも、心開いて、何でもイエス様にお伝えして、イエス様からは温かい招きの言葉をいただいて、それを励みとして、生きていきましょう。

 

お祈りします。

天の父なる神様。今朝も私たちに目覚めの時を与えてくださり、私たちの前に、真っ白な、可能性に満ちた新しい一日を備えてくださり、心から感謝いたします。今日生きているということが、当たり前のことではなく、神様の奇跡であることを覚えます。まことにおぼつかない歩みではありますが、あなたの招きの声を頼りに、あなたの方に向かって、少しでも進んでいきたいと願っています。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と弟子たちに声をかけられた、その温かい招きの声を、私たちにも聞かせてください。そして、あなたの与えてくださる霊の糧によって元気を取り戻し、歩みを進める者でありますように。どうか今日、困難の中を歩まざるを得ない人々に、あなたの温かい招きの言葉によって、勇気と希望を与えてください。様々な理由で生きにくさの中にある人々に、あなたの御腕の力が現わされ、今日一日、いや今週一週間、生き抜く力を与えてください。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・本日は礼拝後、昼食会があります。そのあとフェローシップMLCの交わりの時となり、終了後、役員会となります。



 

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