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2025年5月18日 復活節第五主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 1 日前
  • 読了時間: 17分

聖書交読 黙示録21章1~7節(新約p477)

司)21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。

会)21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

司)21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、

会)21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

司)21:5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

会)21:6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。

全)21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。


聖書朗読 使徒11章1~18節(新約p234)

11:1 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。

11:2 ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、

11:3 「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。

11:4 そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。

11:5 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。

11:6 その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。

11:7 そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、

11:8 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』

11:9 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。

11:10 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。

11:11 そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。

11:12 すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。

11:13 彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。

11:14 あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』

11:15 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。

11:16 そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。

11:17 こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

11:18 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。


説教 「すべての人のための救い」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


おはようございます。先週は大きな行事がありました。祈って備えてきた合同婦人会が5月15日、木曜日に開催されました。神様の祝福のうちに無事開かれ、感謝をしております。ご参加くださった方々、ご奉仕くださった方々、心から感謝します。


本日は復活節第5主日です。復活節もあともう少しで、6月1日にはイエス様の昇天主日を迎え、6月8日にはペンテコステを迎えようとしています。この復活節には、使徒言行録が聖書日課に読まれることになっています。普段開かれることは少ないですが、今日はその使徒言行録の箇所を開いていただきました。私たちの救いについて語られている、大事な箇所です。一緒に読んでまいりましょう。


本日開いていただいたのは、比較的長い箇所ですが、一続きのストーリーになっています。


出来事の発端は、1節にあるように、異邦人もまた神の言葉を受け入れたことです。それはエルサレムから離れたカイサリアというところで起こったので、すぐには理解されませんでした。


まだ始まったばかりのエルサレムの教会では、救われるのはユダヤ人だけなのだ、という考え方が主流でした。ユダヤ人は、そうでない人々を異邦人と言って区別していましたが、救われたクリスチャンのユダヤ人も、同じだったのです。そうすると、「果たしてユダヤ人クリスチャンが、異邦人と一緒に食事をしてもいいものか」と、大真面目に議論していたのです。そんなところに引っかかっていて、それが、イエス様を伝えることの、大きな障壁となっていたのです。


そんな状態でしたから、10章で、ペトロが異邦人の家に行って滞在したことが記されているのですが、そんなことがあったと知って、エルサレムの教会は驚き、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言って、ペトロを非難したのです。


そのようなことがあったので、彼は事の次第を説明したのです。5節以降、その説明となっています。それは、10章に記された、ペトロが経験した出来事の説明でした。


そのペトロの体験は、ヤッファという町で始まります。そこは、古くは神殿の木材が運び込まれた港でした。また、ヨナが主の命令に背き、タルシシュへ逃れようとした港でもありました。ペトロがそこにやって来た時には、すでにイエス様を信じる群れが存在していたようです。ペトロはこのように話始めます。「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました」。5節の前半の御言葉です。


ペトロは、旧約聖書において汚れているとされた動物も入った入れ物を幻で見、それを屠って食べるように言われます。彼は「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません」(8節)と言いますが、それに対する返答は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(9節)という驚くべきものでした。これは一種のたとえ話であって、入れ物に入った動物は、地上のあらゆる人間のことを指しています。そして、「屠って食べなさい」とは、本当に食べてしまうことではなく、その人々と交流を持つ、ということを意味しています。


この、「神が清めてくださる」というのは、私たちにとって福音です。神様は、異邦人のことも清めてくださった、ということを示しています。私たちもまた、イエス様の十字架の流された血によって、清められたのです。


幻の後、ペトロは招きを受けて、カイサリアに住むローマの百人隊長、コルネリウスの家に入ります。彼によると、ペトロについて、天使がこう語ったというのです。「あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」(14節)。まだこの頃は、使徒言行録においてペトロが主人公とも言うべき存在で、彼が、「神が清めてくださる」という幻の体験から、異邦人にキリストの福音を伝える役割を担ったのです。


15節には、「わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです」とあります。10章を確認すると、ペトロは「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と話し出しています(10章34節)。幻の体験が、彼にそう言わせたのです。それから、イエス様のことを話し始めますが、大事なところですので、少し長くなりますが、その時のペトロの言葉をお読みしたいと思います。10章の36節から40節までです。


36:神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、

37:あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。

38:つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。

39:わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、

40:神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。


洗礼者ヨハネに始まり、イエス様の十字架と復活に至るまでをうまくまとめて、そのエッセンスを語っています。このような話をしているときに、聞いていた異邦人たちの上にも、聖霊が降った、という報告です。しかもそれは、「聖霊が最初わたしたちの上に降ったように」、とあるように、ユダヤ人クリスチャンたちの上に聖霊が降ったのとまったく同じようだった、とペトロは報告しているのです。これは、最初に体験したペトロにとっても衝撃的だったし、また、その報告を聞いたエルサレム教会の信徒たちにも、衝撃的だったことでしょう。聖霊が降るということに関して、私たちユダヤ人と異邦人の間に何の区別もなかったとは、と驚きに包まれたことと思います。


今日この御言葉を聴く私たちにとっては、御言葉を聞くうちに聖霊が降る、ということが大事なポイントかと思います。ペトロは、「わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降った」と言いました。すなわち、御言葉を語りだしたときに、聖霊が降った、ということです。今でも、私たちが聖書の御言葉を朗読するときに、またそれに基づいて説教をするときに、聖霊が降ります。もちろん、2000年前のクリスチャンにだけ聖霊が降るのではなく、現代の日本で御言葉を聞く私たちにも聖霊が降る、という確かな希望でもあります。


16節には、この体験の中でペトロが思い出したことについて記されています。「わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました」とペトロは報告しています。ここで言われている「主」はイエス様です。彼はご復活のイエス様を神様として意識して、ここで「主」と呼んでいるのです。ですから、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』ということばを、神様であるイエス様の言葉として、ここで思い出しているのです。


ここでのヨハネはもちろん洗礼者ヨハネのことです。ヨハネは、水で洗礼を授けました。これは、彼がヨルダン川で洗礼を授けていたことを指しています。私たちの主イエス様も、私たち人間と同じ姿になられるために、このヨハネから洗礼を受けられたのでした。ちなみに、新共同訳では「洗礼」の字に括弧で「バプテスマ」とルビがふってありますが、別に「せんれい」と読んで差し支えないのです。その点、新改訳では本文で「バプテスマ」と表記され、固定されているので、教会によっては違和感を覚える場合もあります。御影でも、あまりバプテスマとは言わないと思います。もちろん、礼拝で使っている聖歌などでは、歌詞に「バプテスマ」と出てくることはあります。しかし、伝統的に、「洗礼」と言っていることの方が多いと思います。新共同訳では、教会の伝統に従って、「せんれい」と読んでも、「バプテスマ」と読んでもどちらでもいいように、配慮がなされているのです。


ヨハネが水で洗礼を授けたのに対し、「あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」というのが、主であるイエス様の御言葉でした。これは、10章の48節にあるのですが、「イエス・キリストの名によって」洗礼を受ける、ということと内容は同じです。とにかく、人間である洗礼者ヨハネの洗礼とは違う、まったく画期的な洗礼、という意味なのです。現在の慣例では、「父、御子、聖霊の御名によって洗礼を受ける」ということと同じです。


ペトロは報告の最後に、「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」と堂々と述べています。「主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物」というのは、聖霊のことです。神様が信じた彼ら異邦人に賜物として聖霊をお与えになったのだから、私が何の妨げが出来よう、という主張です。だから、私は彼らに洗礼も授けたし、彼らのもとに滞在して、もちろん食事も一緒にしたのだ、ということです。


この時、ペトロがなぜ、異邦人の上に聖霊が降ったとわかったか、ということですが、これにはポイントがあります。それは、10章の46節にあるのですが、御言葉を聞いた異邦人が異言を語り、神を賛美したから、ということです。また、使徒言行録を書いたルカは、どちらかというと聖霊を力として描く傾向がありますので、もちろん聖霊は神様なのですけれども、何か圧倒的な力の表れがあって、これは聖霊の働きに違いない、ということがあったのだと思います。


ここで異言とは、「異なる」「言」語、と書きますけれども、聖霊が与えてくださる全く新しい言葉のことです。ですから、それまで、神様もなく希望もなく生きていた人が、口から出るとしたら何の希望もない言葉、恨みつらみであるとか、嘆きばかりだったのが、神様の聖霊によってまったく新しくされて、希望に満ち溢れた言葉を語りだす、ということでもあるのです。恐らく、ペトロがカイサリアのコルネリウスの家で聞いた異言とは、そのようなものだったと思われます。それまでは、「私たち異邦人には、何の望みもない」とばかり言っていた人々が、「神様は私たち異邦人にも希望の光を与えてくださった」と言い出したのです。私たちの中でも、そのような体験はないでしょうか。どんなに親切にしても、親身になって耳を傾け、思いやりをもって言葉がけしても、ありがとうの一言もない、それどころか、「そんなことは偽善者のすることだ」と言わんばかりに、批判と愚痴ばかりだったのが、急に「ありがとう」と言うようになり、「おかげで助かった」とか、そんなことばを言うようになった。人は救いを経験すると、それまでとはまったく異なる、新しい言葉を話し出す、というのは、実際にあり得るのです。かく言う私自身も、大学3年の春に救いの洗礼を受けましたけれども、それまでは恥ずかしいことに、してもらうのは当たり前、「ありがとう」もまともに言えなかったような人間でした。それが、イエス様に出会って救われて以降、素直に「ありがとう」「感謝です」と言えるようになった。これは私にとって大きなことで、言ってみれば、この感謝の言葉とは、私にとっては聖霊が語らせてくださった、異言と同じような意味合いがあるのです。


そして、御言葉を聞いた異邦人たちは、神様を賛美していました。これも、救われる前にはありえないことで、救われてこそ、できることです。安心していただきたいのは、私たちもこうやって礼拝に集い、神様を賛美しているのですから、どんなに自分の救いについて不安になることがあっても、私たちは確かに救われているのです。


そのように、異邦人であったコルネリウスたちはキリストによって神様に近い者とされ、新しく聖霊によって、すなわち、具体的にはイエス・キリストの名によって、洗礼を受けることとなりました。そのような恵みの現場に立ち会うために、ペトロはコルネリウスの求めに応じて、数日間彼らのもとに滞在し、共に食事をし、交わりをし、彼らを励ましたのです。


このように、ペトロが語った福音は、コルネリウスばかりか、その家族の者すべてを救う言葉でした。そればかりか、その福音は、コルネリウスの家族という枠をはるかに超えて、まさに「すべての人」を救う言葉だったのです。


報告を聞いたエルサレム教会の人々は、最後にこう言っています。「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」。そう言って、彼らは神様を賛美したのですが、それはまさに、福音を聞いて救われた異邦人たちがしていたことと全く同じだったのです。


今日の御言葉のテーマは、「すべての人が救われる」である、と言って間違いありません。ここには、2つの大事なポイントがあります。


まず一つは、「私も救われる」ということです。当たり前のことと思われるかもしれませんが、「キリスト教の教理として、救いはすべての信じる者に与えられる」とは理解しているものの、そこに自分も入っている、ということに現実感がないというか、そういったことがあり得るのです。「みんな救われる」と言うのは簡単なのだけれども、ではふと立ち止まってこの「私」が救われているのか、ということになると、ちょっと自信がなくなる、ということもないとは言えません。さきほど、自分の救いについて不安になる、という話を少ししましたが、そのように、人間はいろいろなことで揺さぶられて、救いの確信を持ち続けるのが難しい、ということもあるのです。


ですから、本日の14節の御言葉、「あなたと家族の者すべてを救う言葉」ということばに基づき、またそれを発展させて、「すべての人が救われる」と言うとき、自信をもって、「確かに私も救われている」と信じていただきたいのです。


確かに、少し触れましたように、それを信じるのが難しい時もあります。改めて、少しそのようなことについて、考えてみましょう。私たちが、自分の救いについて不安に思うのはどんなときなのでしょうか。どんなとき、私たちは自分もまた救われている、ということを、信じるのが難しいのでしょうか。


晴れの日は気分がいい、雨の日は気がふさぐ、ではありませんが、私たちの救いに対する信仰も、似た面があるように思います。人生の晴れの日に、私たちは自分の周りのことがみんなうまくいっているように思えて、そんな時には、自分もまたイエス様の救いにあずかっている、と信じるのはそう難しいことではありません。なんなら、こんな私こそ、救われるべきだ、ぐらいの思いにもなることでしょう。それは言い過ぎかもしれませんが、では逆に、人生の雨の日、どんよりとした心持になって、すべてがうまくいっていないように思えて、自分という存在もちっぽけな、みじめな存在のように思えて、そのようなときなど、本当に私は救われているのだろうか、その価値がある存在なのだろうか、と疑いを持ってしまっても、おかしくありません。


実はそういう時こそ、聖書の御言葉は「あなたと家族の者すべてを救う言葉」と言われるように、私を救う御言葉なのだ、と繰り返し心に語り掛けて、自分で自分を慰め、励ましたいものです。ルターは、困難の日に、「私は洗礼を受けているのだ!」と自分で大きな声で宣言し、自らを鼓舞したと言われます。


この、「すべての人が救われる」というテーマに関しての大事なこと、第二番目は、「私の周りの人々も救われる」ということです。ここでは、家族も救われる、とありました。確かに、同じ使徒言行録では、皆さんご存じのように、16章31節で、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と約束されており、多くのいにしえの聖徒たちが、この御言葉の約束を固く握り、家族も救われると信じてきたのです。


今日は、「最も困難に見える人でも救われる」、と言い換えてみたいと思います。皆さんのご家族の中にも、お知り合いの中にも、「この人にもイエス様のことを伝えたいけれども、まずもって信じることはないだろう」と思ってしまうような人がいるかと思います。その性格、ライフスタイル、はたまた別の宗教に入っている、などなど、そう思ってしまう理由は様々ですが、今そのような人々の顔を思い浮かべてみて、「でも、そのような人々でも、主は必ず救ってくださいます」と宣言してみましょう。何しろ、私たちの主イエス様は、限定的な人のためだけに十字架にかかられたのではなく、すべての時代のすべての人々のために、十字架にかかられたのです。ということは、私たちが思い浮かべるあの人この人のためにも、すでにイエス様は、十字架にかかって、罪を赦しておられるのです。もうその方々が、イエス様のみ国に入ることの妨げとなるものは何一つありません。皆、救われる可能性を秘めているのです。


そもそも、周りから、私たちこそが、「救われるかどうかわからない、困難な人たちだ」と思われていたかもしれません。しかし、その私たちが、イエス様の十字架によって、救われたのですから、私たちもまた、希望を持ちたいと思います。


イエス様の十字架と復活によって、例外なく、すべての人が救われるようになりました。だから、私たちも、その家族も救われるのです。この素晴らしい良い知らせ、福音を信じていきましょう。


お祈りします。

天の父なる神様。私たちの救いのために、救い主イエス様を送ってくださってありがとうございます。ユダヤ人だけでなく、異邦人も救われる道を開いてくださり、こうして今私たちは、素晴らしい救いの恵みの中にいることができます。ありがとうございます。どんなに自分の救いの確信が揺らぐときにも、すべての人を救うあなたの恵みを思い起こし、確信を失うことのないように導いてください。困難な中に生きざるを得ない人々のうちに、あなたの慰めと励ましがありますように。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日午後は創立70周年記念委員会があります。また、午後1時からは、新約の学びが始まります。担当は玲子師です。



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