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2025年5月11日 復活節第四主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 5月11日
  • 読了時間: 11分

聖書交読 詩編23編(旧約p854)

司)23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

会)23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

司)23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

会)23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

司)23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

全)23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。


聖書朗読 ヨハネ10章22~30節(新約p187)

10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。

10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。

10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。

10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。

10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。

10:30 わたしと父とは一つである。」


説教 「私たちの羊飼い」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


長いと思っていたゴールデンウィークも終わり、今日は母の日を迎えています。説教の内容は特に母の日を意識しているわけではありませんが、週報は母の日仕様になっております。私たちはお母さんという存在あってこそ、今ここに存在しております。この大事な母という存在を私たちに与えてくださった、神様に心から感謝する思いです。


さて、本日は復活節第四主日ですが、この日には、イエス様が私たちにとっての羊飼いであることを記す聖書の箇所が読まれることが多くあります。交読文の詩編23編は、「主は羊飼い」と始まっており、そのままイエス様が私たちの羊飼いである、というイメージにつながります。また、福音書の箇所でも、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(27節)と言われ、羊飼いとしての姿がうかがわれます。


本日開いております福音書の箇所は、「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」という文章で始まっています。「そのころ」とありますのは、7節から記されている、「イエス様は良い羊飼いである」という説教が語られた頃、ということです。


「神殿奉献記念祭」という言葉が見られますが、これは神様がユダヤ人をアンティオコス四世エピファネスから解放したことを記念するものです。アンティオコスはシリアの圧倒的な王で、エルサレムの神殿に神として自分の像を立てた、と言われます。これははっきり年代がわかっておりまして、紀元前168年のことです。そのようになっていた神殿を、改めて神様に奉献した、ということです。「奉献記念祭」と言われる背景には、「ささげる」というニュアンスがあります。


新改訳2017では、この言葉を「宮きよめの祭り」と訳しています。神殿を奪還して、異邦人の手によって汚されていたのを「きよめた」とするなら、そのようなという訳も成り立つ、ということでしょう。この祭りは紀元前165年、ユダス・マッカバイオスによって制定された祭りで、冬至の頃に祝われる、とのことです。


イエス様は、神殿の境内で、「ソロモンの回廊」を歩いておられました。これは、神殿の東側にある、巨大な石柱で作られた公共の場のことです。


すると、目ざとくユダヤ人たちがイエス様を取り囲みます。この際のユダヤ人とは、民族としてのユダヤ人と言うよりは、ヨハネによる福音書では、イエス様に敵対する勢力としてのユダヤ人、という意味合いが強いようです。彼らは言います。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。メシア、とありますが、新改訳2017では「キリスト」と訳されています。原文を確認しますと、「キリスト」となっています。それをわざわざ「メシア」と訳すのは新共同訳のポリシーであるようで、「原文に『キリスト』とあるのだから、そのままキリストと訳し出そう」というのではなく、「ではここで、キリストとはどんな意味があるのか」というところに注目して、ユダヤ人においてはこれは「メシア」を意味していたのだ、という解釈によって、「メシア」と訳しているわけです。


改めて、この「メシア」という言葉を確認しておきましょう。今日は、イエス様が羊飼いである、ということを述べる御言葉を開いているのですが、その羊飼いイエス様が、メシアであるのだ、という主張です。メシアとは、新改訳ではメシヤと表記され、また、現代においては「メサイア」「メサイヤ」と発音されることがあります。あの有名な、ヘンデルの『メサイア』で良く知られています。日本語に訳すと「救世主」となります。ヘブル語で「油注がれた者」という意味で、その者が特別に選ばれた者であることを示し、神の力がその人に臨むしるしでもある、と言われます。多くの場合、油を注がれるのは主に王、または祭司でした。このメシアをギリシア語に訳すと、「キリスト」になるわけです。


ヨハネによる福音書によくあることですが、イエス様はユダヤ人から言葉を投げかけられても、それにストレートにお答えにはなられません。言ってみれば、ユダヤ人たちから「あなたがメシアなのかどうか、はっきりさせなさい」と言われたようなものなのですが、それに対して、「はい、そうです、私がメシアなのです」とも、「いいえ、私がメシアのはずはありません」とも答えてはおられないのです。イエス様の答えを見てみましょう。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」。ここでは、イエス様がメシアかどうかよりも、むしろそれを通り越して、そのことをユダヤ人たちが信じたかどうか、ということにまで話が進んでいます。そして、イエス様が父なる神様のお名前によってなさる事が、イエス様がメシアであることを証ししている、証言している、と述べておられます。事実上、ご自身がメシアであることをお認めになったと思われても仕方がない言葉ではありますが、イエス様の関心はそのこと自体よりも、ではその私をあなたたちは信じたのかどうなのか、というところにあったのです。


そのように、25節において、イエス様が父なる神様のお名前によってなさるみわざを見さえすれば、イエス様がメシアであることを信じることができるはずだ、といったような論調でお話になられていたイエス様ですが、26節では一転、「しかし、あなたたちは信じない」と断言しておられます。その理由は、「わたしの羊ではないからである」と言われています。


この理由に関しては、新改訳2017は、「あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです」と訳しています。新共同訳の「わたしの羊ではないからである」というのは、1954年に出された口語訳を踏襲した簡潔な翻訳です。しかし、このところを注意深く読んでいきますと、「わたしの羊」の前に「~から」と訳せる前置詞がついているのです。それで単純に直訳しますと、「わたしの羊からではない」ということになります。多くの英訳だと、「あなたがたはわたしの羊の者ではない」といったような感じで、「の」が入るイメージです。それを拡大していけば、新改訳2017のように、「あなたがたがわたしの羊の群れに属していない」という意味合いになってくるのでしょう。


ここでは、羊飼いであるイエス様の羊に属していない者は、そもそも信じない、と言われてしまっていますが、逆に言えば、その羊に属している者であれば、信じるのだ、ということにもなります。これは、私たちの安心感にもつながります。私たちがイエス様の羊に属しているなら、イエス様を信じることができるのです。そして、その論調が、27節につながっていくのです。


ですから、27節で「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とありますが、これは、「イエス様の羊であるなら、イエス様を信じることができる」という意味でもあります。目が悪くて、迷いやすい羊でも、羊飼いの声をちゃんと聞き分けて、そのあとについていく、という動物の羊の性質は、そのまま信じる者にも当てはまります。イエス様の羊は、たとえどんなに真理が見えていなくても、お優しいイエス様の声、私たちを十字架でいのちを捨てるまでに愛されたお方の声は、何か本能的にわかって、その声についていく。それは言ってみれば、イエス様を信じている、信頼している姿でもあるのです。


そのように、イエス様の羊は、羊飼いであるイエス様の声を聞き分けることができるのです。ですから、安心して、イエス様に従います。イエス様について行くのです。そのような羊たちに、イエス様は「永遠の命」をお与えになります(28節)。これは、のちの十字架と復活によるものです。永遠の命を与えられた羊たちは、決して滅びることなく、外敵に奪われてしまうこともありません。なぜなら、救い主イエス様が羊飼いとして守ってくださるだけでなく、このイエス様をお遣わしになった父なる神様も、彼らを守ってくださるからです。


それほど、イエス様の羊の群れである私たちは、イエス様と父なる神様の御前に大事な存在です。ですからこそ、29節の「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であ」る、と言われる時、それは「イエス様の羊の群れ」のことを指し、その価値の重要性を語っていて、だからこそ奪われることはない、と読むのが自然です。ただ、古い新改訳や新しい聖書協会共同訳のように、「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であ」る(聖書協会共同訳)と訳し、偉大なのは父なる神様だ、とする解釈も成り立つようです。この部分のとある手書き写本からも、そのような訳が可能だとされています。


そうすると、羊が奪われないのは、羊の持つ偉大さからくる、というよりも、父なる神様の偉大さによる、ということになります。いずれにしても、羊である私たちは、羊飼いであるイエス様にも、父なる神様にも守っていただいているのですから、特別な存在であることに間違いありません。それが私たちに喜びをもたらします。


今もなお、自分の存在価値がわかりにくい時代かもしれません。それこそ、選挙に行っても、私一人投票したとて、何が変わるわけでもない、といったような無力感は常々あるのではないでしょうか。私一人、こっそりいなくなっても、この世は何の支障もなく、そのまま動き続けるのではないか、と思うほどです。自分は必要とされている存在か。もう改めて問うことすらしないかもしれませんが、年代にもよるでしょうけれども、私は世の中に必要とされている、この世界の重要な構成員の一人だ、という感覚を持ちづらい世界ではあると思います。


そのような中で、御言葉が語るのは、そのように思い込んでいるあなたが、実は羊飼いであるイエス様にも、その父なる神様にも大事に守られている、重要な存在だ、というメッセージです。この御言葉が、悩める魂の慰めとなったら幸いです。


そして最後に、ヨハネによる福音書におけるキリスト論の最高潮となる御言葉が響いてきます。「わたしと父とは一つである」という、たいへん有名な御言葉です。この「一つ」というのは、父なる神様と御子イエス様が、その意図と目的においてひとつに結ばれている、という意味です。先ほどの、羊である私たちを守る、ということにおいても、父なる神様と御子イエス様は、「彼らを守る」という意図と目的において、一致しておられるのです。


そのように、父なる神様とイエス様はその御心において一致しておられます。そのような意味で、一つ、と言われているのです。そして、父なる神様とイエス様が一つであると言われるぐらい、イエス様と私たちも一つである、と言われます。このように、父なる神様とイエス様の関係、間柄を、イエス様と私たちにも当てはめて考える、というのが、ヨハネによる福音書の特徴でもあります。そのぐらい、イエス様と私たちは、親密な間柄なのです。


なおかつ、父なる神様とイエス様が永遠の存在であって、その一致した間柄が永遠に続くのと同じように、イエス様と私たちの親しい間柄も、また永遠に続く、と言われることがあります。もちろん、私たち人間側は無限の存在ではなく、限りのある存在で、永遠、というのはただ夢見るだけのものだったのですが、羊飼いであるイエス様が私たちのことを親身に考えていてくださり、ご自分の十字架と復活によって、28節にあるように、私たちに永遠の命を与えてくださったからこそ、私たちは永遠に生きる者となり、羊飼いであるイエス様との親密な間柄も、永遠に続くものとなりました。感謝です。永遠の時を、私たちのために親身になってくださる羊飼い、イエス様と過ごすことが約束された私たち。あとは憂いなく、このイエス様についていくのみです。


お祈りします。

天の父なる神様。良い羊飼いであるイエス様を私たちのもとに送ってくださり、感謝します。この方が私たちを守ってくださり、私たちもこの方の声を聞き分けて、ついてまいります。また、与えられた永遠の命を感謝します。イエス様と父なる神様が一致しておられ、親しい間柄であるのとまったく同じように、イエス様と私たちにも、一致が与えられ、親しい間柄にしてくださっていることに、心から感謝します。羊飼いイエス様とのそのような親密な一体感のもとに、安心して過ごしていけますように。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・今週5月15日は合同婦人会です。18日には、新しく新約の学びが始まります。



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