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2025年4月27日 復活節第二主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 4月27日
  • 読了時間: 12分

聖書交読 使徒5章27~32節(新約p222)

司)5:27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。

会)5:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」

司)5:29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。

会)5:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。

司)5:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。

全)5:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」


聖書朗読 黙示録1章4~8節(新約p452)

1:4 -5ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、

1:6 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

1:7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」


説教 「復活の主」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


先週はイースターで、多くの方々と、主イエス様の復活をお祝いいたしました。本日は復活節第二主日で、引き続き、イエス様の復活のことについての御言葉が開かれています。普段あまり開くことがないかもしれませんが、本日の聖書日課に従って、ヨハネの黙示録を開いております。


ヨハネが書いたこの黙示録は、ご存じのように難解な幻の書ではありますが、最初にある7つの教会への手紙の部分は比較的読みやすく、霊的示唆に富んでいます。


例えば、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3章20節)は、イエス様が私たちを招いていてくださることを表しているとされており、たいへん有名で、愛されている御言葉です。この言葉をもとに、『救い主は待っておられる』という、愛されている賛美歌も作られています。


今日開いている箇所は、その序文にあたります。一緒に少しずつ見てまいりましょう。



4節にある「アジア州」は、現在のトルコ地方で、ローマ帝国の支配下にありました。そこに、七つの教会がありました。それらについては、2章以降に書かれています。


「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」は父なる神様のことを指しています。今日は賛美しませんが、讃美歌の頌栄546番の歌詞に、「むかしいまし 今いまし、とわにいます主をたたえん」とありますが、この歌詞の土台となっている御言葉です。


「玉座の前におられる七つの霊」は聖霊のことを指す、と解釈されます。その場合、「七つの霊」とは、「七」が神の完全数であることから、聖霊もまた、神として完全な方である、ということを表しているのでしょう。


「更に」以降は、イエス・キリストのことを指しています。「証人、誠実な方」は、聖書協会共同訳では「真実な証人」、新改訳2017では「確かな証人」というように、ふたつの言葉が合わせて訳されています。多くの英語の訳も同様です。新共同訳の方が原文に即しているように見えるのですが、聖書協会共同訳などのように、「真実な証人」「確かな証人」と訳した方が、わかりやすいようにも思えます。


真実な証人である方は、すなわち「死者の中から最初に復活した方」でもあり、また「地上の王たちの支配者」でもあります。


この三位一体の神様から、アジア州にあった諸教会に、恵みと平安があるように、と祈られています。これは単に挨拶であるだけでなく、重要な意味が込められています。今年の御言葉は、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です(エフェソの信徒への手紙2章8節)」と語ります。「恵み」は、そのように救いへと導くものですし、救われてこそ、救いを与えてくださる神様と親しい関係になり、魂に平安が来るのです。


ここで、キリストは「死者の中から最初に復活した方」と言われていることに注目しましょう。直訳は「死者の中からの最初の子」で、聖書協会共同訳も新改訳2017も、共通して「死者の中から最初に生まれた方」と訳しています。では死者の中から最初に生まれた、とはどういうことか、と言えば、それは「死者の中から最初に復活した」という意味にほかなりません。新共同訳は、その解釈を込めて、この部分を「死者の中から最初に復活した方」」と訳しているのです。この御言葉があるから、この箇所が復活節に読まれるようになっています。


ただ、よく考えてみると、聖書には、旧約聖書にも新約聖書にも、死者の復活の出来事が記されています。旧約時代の預言者エリヤとエリシャは、二人とも、男の子をよみがえらせたことがあります。イエス様も、ラザロをよみがえらせました。しかし、彼らは、いずれまた寿命が尽きて、世を去っていきました。しかし、不死へとよみがえったのは、イエス様だけでした。だから、死なない体への復活を果たした最初の方、という意味で、「死者の中から最初に復活した方」と言われている、とも考えられます。


この復活の主は、今も生きて、私たちと共にいてくださいます。次回の聖餐式の時に、ぜひ思い起こしていただきたいのは、復活の主イエス様だからこそ、聖餐式の場においでくださることができる、ということです。聖餐式の土台には、キリストの復活がある、ということです。


この方は、「地上の王たちの支配者」と呼ばれ、私たちの想像を超える偉大な方であることがわかります。ではなぜ、キリストは地上の王たちの支配者であられるのか。それは、復活の主であるからです。死者の中から最初に復活したほどの方が、あらゆる地上の王たちの支配者でなかったら、何でありましょうか。


続く「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」は、6節に示されている「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方」と同じであって、イエス・キリストのことを指しています。この復活の主は、私たちを愛してくださっている方です。今、自分の価値がわからない、誰か私のことを愛してくれているのだろうか、と思っておられる方はあるでしょうか。でしたら、キリストこそ、あなたを愛していてくださる方です。どこまで私たちを愛していてくださるのでしょうか。それは、私たちを、イエス様ご自身の血によって罪から解放してくださった、ということからわかります。これこそ、イエス様の、私たちに対する愛の証しです。本当に愛しているなら、その証拠を見せてほしい、と言うなら、十字架こそ、その証拠です。そこで、私たちの罪のために、イエス様は血を流してくださった。まことにすまないことを、と言うしかないことですが、これは、私たちが罪にからめとられたままでは、何とも痛々しい、かわいそうだ、と思われた、イエス様の愛から出たことでした。


でも、この方は、十字架で亡くなって終わりの方ではありませんでした。死者の中から最初に復活した方であるイエス様。この方は、よみがえられて今も生きて私たちと共に歩んでくださり、聖餐式の場に現れてくださって、私たちの罪の赦しの確証を与えてくださる方です。それだけではありません。6節によれば、この復活の主は、私たちをも王としてくださる、と言うのです。王という存在は、何にも縛られない存在です。そして、国の豊かさを味わう者です。私たちを、そのような者にしてくださるのです。私たちを罪の束縛から解放し、神の国の豊かさを実感させてくださるのです。


何にもとらわれない王にしていただいた私たちは、さらに、父なる神様に仕える祭司とされます。これも、復活の主の働きです。王として、自由の立場にされただけでなく、神に仕える、すなわち神に服従する者とされた。この、王であり祭司、という、一見矛盾するような立場は、私たちの自己意識を形作るものです。すなわち、ルターの『キリスト者の自由』に言われるように、「キリスト者、すなわちクリスチャンは、全てのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しないが、また同時に、キリスト者は、全てのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」と言うのが、私たちの自己意識となるのです。


このキリスト、すなわち復活の主に栄光と力が世々限りなくあるようにと高らかに祈られたあとで、このキリストが、のちに再びこの世に来られることが約束されています。それを、「再臨」と呼んでいます。7節を改めて読んでみましょう。


「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン」(7節)。


最後の「然り、アーメン」とは、古い言い方ではありますが、2017年、2018年に出された新しい翻訳でも、ひらがなか漢字であるかの違いだけで、同様の訳し方がされています。ちょっと驚きですが、「はい、本当にその通りです」という意味です。


この部分は、旧約聖書からの引用となっています。まず、「見よ、その方が雲に乗って来られる」という部分は、旧約聖書ダニエル7章13節からの引用です。このような部分です。


「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み・・・」(ダニエル7章13節)


続いて、「すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」のところは、ゼカリヤ12章10節からの引用です。次のような箇所です。


「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(ゼカリヤ12章10節)


このゼカリヤ書からの引用は、キリストの十字架を指し示しています。ですから、再臨のキリストは、かつては人々から十字架に刺し貫かれた方だった、ということになります。栄光の再臨の約束だけでなく、十字架でのご受難をも、ここでは示しているのです。


このことから、再び、キリストを十字架にかけてしまった罪を悲しむ、ということになります。特にここでは、「この私が、この手でイエス様を十字架につけた」と自覚するようになるのですが、そればかりではなく、やはりこの時は、救い主イエス様にお会いできる喜びの時でもあるのです。そのことの方が、実は大事なのです。十字架のイエス様は、復活の主でもあられます。イエス様の復活は、私たちの、「イエス様を十字架につけてしまって、申し訳ない」という後悔の重苦しい思いを吹き飛ばし、さらに、再臨によってこのイエス様に直接お会いできる、という希望が与えられています。日頃は物価上昇のことや、関税の動向のこと、戦火の絶えない世界の様相のことで頭がいっぱいのところがあるかもしれません。あるいは、このゴールデンウィークはどうやったら有意義に過ごせるか、ということに意識が行きがちではありますが、心の中にちゃんとスペースを取って、復活の主イエス様は再臨なされる、というワクワク感をそこに入れておけるようにしたいものです。それによって、ニュースを聞いていたら気が重くなるばかりの心が、希望に満ちて心晴れやかになるように、と願うものです。


最後に改めて4節と同様に「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」が現れ、「わたしはアルファであり、オメガである」、すなわち、「わたしが最初であり、最後なのだ」と述べられます。「わたしが最初であり、最後なのだ」という宣言は、どういう意味を持つのでしょうか。すべての実権は私が握っている、というイメージかもしれませんし、思っていることは必ず実現する、という意味であるのかもしれません。


この方はどなたかと言えば、4節の方では父なる神様を表している、ということでお話ししていたわけですから、ここでも父なる神様のこと、と考えるのが自然です。ただ、「神である『主』という表現から、これはキリストのことではないか、と言われることもあります。私たちは、この方のことを「復活の主」と呼んでいます。8節の「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」がキリストのことであるなら、このことは、キリストが父なる神様と同等の神様であることを示しています。そして、この方が私たちの信仰の対象で、そのご計画は必ず実現する、ということを表しているのです。


今日は、復活節第二主日ということで、キリストを復活の主と呼び、その復活の意味するところを見てまいりました。復活の主は、今も生きて、私たちと共にいてくださいます。そして、私たちが罪の赦しの確証をいただく、聖餐式の恵みの場にも、おいでくださいます。また、この復活の主は、将来の再臨の主でもあります。主の再臨の時、私たちは直に、私たちを恵みによって救ってくださったイエス様とお出会いできるのです。そして、私たちにとってこの復活の主は、今おられ、かつておられ、やがて来られる方で、なおかつ、「わたしはアルファであり、オメガである」と宣言なさる方です。初めであり、終わりである方で、この方によって世界は成り立ち、そのご自分の支配しておられる世界で、この方はご自分の御心をすべて成し遂げてくださいます。その確かな希望を胸に、今週も歩んでまいりましょう。


お祈りします。

天の父なる神様。

あなたが送ってくださったひとり子イエス様が十字架にかかってくださり、私たちのすべての罪を滅ぼしてくださって感謝します。そのイエス様が復活してくださり、今や私たちに、復活の主として現れて、いつも共にいてくださること、ありがとうございます。このイエス様が将来再臨してくださり、直接お会いできることが私たちの希望です。この希望によって、日々の私たちの歩みを支えてください。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン



報告

・先週はイースター礼拝でした。午後は1時半から、住吉霊園教団納骨堂にて、墓前礼拝がありました。来週は昼食会があり、フェローシップMLCの交わりがあります。そのあと役員会です。




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