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2025年4月20日 イースター(復活祭)

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 1 時間前
  • 読了時間: 13分

聖書交読 イザヤ65章17~25節(旧約p1168)

司)65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。

会)65:18 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。

司)65:19 わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。

会)65:20 そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。

司)65:21 彼らは家を建てて住み/ぶどうを植えてその実を食べる。

会)65:22 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。

司)65:23 彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。

会)65:24 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける。

全)65:25 狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。



聖書朗読 ルカ24章1~12節(新約p159)

 24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。

 24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、

 24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

 24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

 24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。

 24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

 24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。

 24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

 24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、

 24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。

 24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。


説教 「生きておられる方」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


イースターおめでとうございます。今年もこうして、皆さんと一緒にイエス様の復活をお祝いでき、感謝いたします。聖書の御言葉から、イエス様の復活の次第を、共に味わってまいりましょう。


24章1節の御言葉は、前の章の最後とつながっています。23章の55節から読んでみましょう。


「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」


この婦人たちが、安息日の後、「週の初めの日」、すなわち日曜日に、香料を携えてイエス様のお墓に向かいました。この婦人たちの名前は、24章の10節に記されています。


当時は、亡骸に香料を塗るのが習慣でした。だから、彼女たちは、香料を携えていったのです。しかし、それは、そこにイエス様の亡骸がある、と思っているからでした。すなわちこれは、イエス様が復活するとは思っていないことの表れでした。


この御言葉から、イエス様の復活は週の初めの日に起こったことがわかります。これが、私たちが毎週日曜日に教会に集まって、礼拝の恵みを受けている理由です。私たちの主であるイエス様が復活した日を私たちは記念して、共に集まっているのです。


このように、日曜日を週の初めの日と捉えることは、月曜日を週のスタートとしているカレンダーも多く出回っている日本では、大きな変化となります。かくいう私も、一週間の始まりは月曜日だと思い込んでおりました。そして、それこそ日曜日の夜になると、サザエさんを見ながら、ああ、もう日曜日は終わってしまった、もう明日は月曜日か、と、何とも憂鬱な思いになったものです。それが、教会に行くようになって、日曜が週の初めの日だと知って、その日を礼拝の日として過ごすことの喜び、その充実感を知ることになりました。それからは、日曜の夜が憂鬱だとか、まったくそのようなことはなくなりました。


ところで、香料を持ってイエス様の墓に向かった女性たちは、イエス様の亡骸がまだそこにある、復活はない、と思っていたと申し上げました。さて、それでは私たちは、本当にイエス様が復活したと思っているでしょうか。婦人たちと同じように、まだイエス様が墓の中におられるような、希望も喜びもないような状態でしょうか。イエス様が死から復活した、ということを信じるときに、私たちの心には、希望が生まれるのです。私たちは、手に香料を携え、イエス様を追憶の中に見て、イエス様のお墓参りをする者ではありません。希望を持って、復活されたイエス様にお会いするのです。


お墓に着いて見ると、お墓の入り口をふさぐ石がわきに転がしてありました。ここから、すでに大きな変化が起こっていたことがわかります。死の壁は打ち破られていたのです。当時のユダヤのお墓は横穴式で、中に入ることができました。しかし、「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」(3節)。すなわち、イエス様は復活していたのです。


ここで私たちは、死を打ち破る復活の力を知ります。その時には、動かしがたいような大きな石も、動かされるのです。私たちはこの世の中で、いくらでも山のような動かしがたい困難に直面します。健康問題や経済問題を抱えます。それらは、大きな石のように、どうやって動かそうかと、思いあぐねてしまうようなものです。しかし、イエス様の復活の力というのは、私たちの想像以上であって、それは墓の入り口をふさぐ大きな石をも動かしてしまうものです。同じように、私たちの前に横たわる幾多の困難の大石をも、その復活の力は動かしてしまう。何か閉ざされてしまっているものを、開くことができる。そのような、偉大なる力なのです。これもまた私たちにとっては、希望のメッセージです。


ここで、イエス様は明確に「主」イエス、と言われています。これはたいへん珍しい言い方で、福音書においては、ほかにマルコ16章19節にあるだけです。いずれも復活のイエス様のことを指しています。ここから私たちは、この復活の力をもって私たちの人生を変えてくださるイエス様を、「主イエス様」と呼ぶことを学びます。この方は、その偉大なる復活の力によって、全世界の主なのであり、また、私たちの人生の主でもあるのです。その方のことを、私たちは敬意をこめて、「主イエス様」と呼ぶのです。


なおも墓を訪れた婦人たちは、主イエス様の亡骸がないことで途方に暮れます。まだ、イエス様が復活したとは夢にも思っていないのです。私たちにも、同じようなときがあるかもしれません。もう、目の前で、イエス様の復活は確かに起こっている。それなのに、それを信じることができない。私たちも、ちょっと視野を広げれば、そこここに復活のイエス様の力強いお働きを見ることができるのに、それを見ることができず、結果としてイエス様を信じ切ることができない、ということがあるのです。


しかし、なおも、私たちには希望があります。そこに、「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」(4節)とあるのです。神様は、そのように助けを与えてくださる方です。この時神様は天において、このイエス様に対して深い愛情を持っている婦人たちが、真実を知らないままで迷っているのをご覧になり、心を痛められたわけです。このままでは彼女たちがかわいそう。それで、神様はこの時、その大いなる憐れみにおいて、「輝く衣を着た二人の人」を送ってくださったのです。この時、明け方早くでも、もう暗くはなかったかもしれませんが、その光り輝く様は、イエス様を信じることができない暗い心を明るく照らすことができたはずです。そのように、信じることが難しい時には、神様は助けを送ってくださいます。私たちのもとにも、この輝く二人の人を送ってくださるのです。それによって、私たちは知識の光をいただき、イエス様が確かに復活なさったことを知って、心明るくされ、共に希望を持って、神様を賛美するようになるのです。


この二人は恐らく天使であったでしょう。その現われに婦人たちは恐れおののいていましたが、彼女たちに天使は言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。「なぜ」ということばで始まっていながら、これは質問ではありません。「生きておられる方を死者の中で捜す必要はないのですよ」という力強いメッセージです。ここで、本日の説教の題にもなっている「生きておられる方」という呼び名が見られますが、これはもちろん、復活のイエス様のことです。イエス様は私たちすべての罪を背負って十字架にかかられ、命を落とされましたが、復活なさって、それで、「生きておられる方」と天使たちに呼ばれているのです。イエス様は追憶の中に生きておられるのではなく、よみがえられて、事実生きておられるのです。


私たちも時に、肩を落として、とぼとぼと、まるでイエス様が復活なさらなかったかのように、人生の旅路を歩くことがあります。その私たちにもまた、光り輝く天使は、そのまばゆい光を伴って、私たちに「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言葉をかけられます。その光を受けると、それまでは希望もない、暗闇を歩んでいた私たちに光が差し、明るい希望のもとに、確かにイエス様は復活された、と確信を持って、新たに歩みを始めることができるようになるのです。


6節に、天使たちの「あの方は、ここにはおられない」という言葉が記録されています。「ここ」というのは、お墓のことです。あの方は、生きておられる方、復活のイエス様のこと。復活のイエス様は、もはやお墓にはおられない、ということです。そのことを、天使たちははっきりと告げています。人に悲しみをもたらす、有限の世界、そして罪の世界の象徴である墓の中には、もうイエス様はおられないのです。


普通だったら、どうでしょう、「ここにおられる」ということの方が、良い知らせです。しかしこの場合、お墓の中に「おられない」ということが、良い知らせになるのです。


ただ、復活なさったのでお墓にはおられなくなりましたが、実はそのおかげで、イエス様は生きている私たちと共におられるようになった、という逆説的なメッセージもあります。死んでしまわれたままであるなら、私たちと共に歩むことなどできません。しかし、私たちの罪を全部死の世界に追いやって、死を打ち破っていのちの世界に戻ってこられたイエス様だからこそ、今生きている私たちと共にいてくださるのです。これが、復活の意味です。復活によって、イエス様は死を超えて、いつの時代にあっても、私たち人間と共にいることができるようになったのです。


天使たちはさらに、「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と優しく諭します。そのお話になっておられたことの内容が、7節に記されています。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」ということです。イエス様はあらかじめ、ご自分の十字架での死とそれに続く復活のことを、ご自分の周りの人々にお話になっておられたのです。ただ、それが様々な事情で、「十字架につけられるなんて、信じたくない」とか、そのような思いによって、正面から受け止められていなかった。だから改めて、「思い出しなさい」と勧めるのです。


すると8節で、そのような温かい天使たちの働きかけを受けて、「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」と記されています。このように、信仰は「思い出す」ことから始まります。そして、その土台となるのが、聖書の御言葉なのです。


イエス様の言葉を思い出す前は、婦人たちにはイエス様に対する信仰はありませんでした。彼女たちは、イエス様が復活するということを、信じていなかったのです。しかし、「思い出しなさい」という促しを受けて、イエス様の言葉を思い出したときに、神様から信仰が与えられ、イエス様が復活したことを信じることができました。


この出来事の背後には、イエス様があらかじめ、彼女たちに御言葉を語っておられた、という事実があります。あとでちゃんと思い出せるようにと、あらかじめイエス様は、御言葉を語っておられたのです。それが、十字架と復活の予告でした。


確かに、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」というイエス様の言葉は、尊い教えではありますけれども、イエス様を慕う人々には、耳にしたくない言葉ではあったと思います。「必ず、罪人の手に渡され・・・」と言われた時点で、「もうそんなことは聞きたくない」ということになったことと思います。しかし、この御言葉は、イエス様がユダヤの総督、異邦人であったポンテオ・ピラトに引き渡され、十字架に付けられたのを見た時点で、本来なら、「次は三日目の復活だ!」と信じることができるような構成になっていたのです。そう信じることができるように、必要な情報は十分伝えられていたのです。しかし残念ながら、そうはならなかった。ただ、今回、天使たちの「思い出しなさい」という優しい促しのもとに思い出したとき、確かにその通りに事が進んでいることが腑に落ちて、しっかりと信じることができるようになったのです。


それで、慌ててこの婦人たちは空になったイエス様のお墓から帰ってきて、十一人に自分たちの見たことを伝えました。なぜ十一人なのかというと、一人、ユダが裏切ったからです。ここで、「一部始終を知らせた」と9節にありますが、これぞ伝道の始まり、と言われることもあります。何の難しいこともありません。構えることなく、ただ自分たちが見聞きしたことの一部始終を知らせた。それだけだったのです。そのことが確かな事実であったことを証しするために、10節には目撃者である婦人たちの名前が記されています。


この知らせを聞いた男性たちの反応が、「たわ言のように思われた」というのですから(11節)、これは大きな問題です。昨今ではあってはならないことですが、ここにはもしかして、当時の男尊女卑のような風潮が影響していたのかもしれません。しかし、それは別としても、イエス様の復活が、何かナンセンスな話として聞こえる、ということは大いにあり得ることです。私自身振り返っても、イエス様の十字架は歴史的な事実として、信じるも何も、実際に起こったことですから受け止めるにしても、復活に関しては、やはりにわかには信じられないというのか、「果たしてキリストは本当によみがえったのか」ということを、それほど長い期間ではないですけれども、真面目に考えていた時期は確かにありました。


しかし、世にたわごとのように聞こえるイエス様の復活の知らせが、実は事実でありなおかつ真実で、それが私たちを真の希望に生きる者にするのです。ここにも、逆説的な真理があります。私たちには、生きておられる方がいつもついていてくださいます。だからこそ、私たちは勇気を失わずに、たとえどんなに困難があったとしても、諦めないでこの世での歩みを続けていくのです。


お祈りします。

天の父なる神様。あなたはひとりの御子イエス・キリストを世にお遣わしになり、私たちの罪の身代わりとして、十字架につけられました。しかしそのイエス様は、死の力を打ち破り、見事復活なさいました。その限りない力を、私たちにも与え、私たちが希望を失わずにこの世を歩むことができるようにしてくださいました。心から感謝します。イエス様は復活して、今も生きておられます。この生きておられる方、主イエス様におゆだねして、日々の歩みを続けていくことができますように。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


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・本日はイースター礼拝です。午後は1時半から、住吉霊園教団納骨堂にて、墓前礼拝があります。感謝してイースター献金をおささげいたしましょう。
















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