聖書交読 詩編91編9~16節(旧約p930)
司) 91:9 あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。
会) 91:10 あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。
司) 91:11 主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
会) 91:12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。
司) 91:13 あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。
会) 91:14 「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
司) 91:15 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。
全) 91:16 生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」
聖書朗読 ルカ4章1~13節(新約p107)
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』
4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」
4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
説教 「受難の始まり」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
今年も3月5日の灰の水曜日から四旬節が始まりました。復活祭(イースター)までの「四十日間」を指す言葉です。その中に日曜日は含まれないものの、イエス様のご受難に関係する福音書の箇所が読まれます。本日は、イエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた記事を開いております。十字架はまだ先であるものの、まさにイエス様のご受難の始まり、と言っても差し支えない出来事です。
1節によると、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」とあります。これから悪魔の誘惑を受けるにあたり、どうしても神様の霊である聖霊に満ちている必要があったのです。あるいは、ルカによる文書では、あとの使徒言行録も含め、聖霊は神様の絶大なる力として描かれている面がありますから、この時イエス様が神様の力に満ちていた、という意味でもあるでしょう。
続いて「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」とありますが、ここでは引用符付きの「“霊”」が登場します。御霊と訳すことができますが、冠詞のない、限定されていない霊のことです。先に登場している「聖霊」の言い換えであるとも考えられます。ここでは、イエス様が内側は聖霊で満たされ、外側の面でも、神様の霊によって導かれているという、二重の霊の働きを指すものでしょう。この部分ですが、別訳では「御霊に導かれて荒野におり、」となっています。「引き回され」と言うと、何か乱暴で、無理やり、というイメージがあります。むしろ「導かれて」ということのほうが、聖霊の働きのイメージに合い、神様の御心であったことを表すような気がします。
それにしても、聖霊に満たされたイエス様が荒れ野にいた、というこの事実が印象的です。聖霊に満たされて、即神様の働きに入った、御国の福音を宣教し出した、というのではないのです。そもそも、なぜ荒れ野だったのでしょうか。荒れ野にいたのは、悪魔でした。まるで待ち構えるかのように、そこにいたのです。水も食料もない、また人もいない、飢餓と孤独の地。そここそが、悪魔の住処としてここに示されています。もちろん、どの荒れ野にも悪魔がいる、と申し上げるつもりはありません。何らかの理由で、この時この場所に、悪魔がいた、ということです。
この荒れ野の特徴において、人がいない、というのは印象的です。そして、何かのことでそこに悪魔がいた。悪魔もまた、人を集める方向ではなく、人を散らす方向に働きます。そこには、温かい人の交わりはありません。むしろ、人を突き放すのです。そのような場所に、イエス様が行かれたことを考えると、ここが受難の始まり、というのも納得できます。
水も食料もない、人もいない、いるのは悪魔、というたいへん過酷な状況下で、イエス様はどのように過ごされたかと言うと、それは「その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」ということでした。私たちが端で見ていたら、イエス様、そこまでご無理なさらなくても、と思うでしょう。でもイエス様は決然と、あたかもそれを当然しなければならないこと、といった感じで、なさったわけです。
時の流れを確認しますと、イエス様がペトロたちを最初の弟子としたのは、ルカによる福音書では5章のことです。まだこの時、イエス様には弟子はいませんでした。イエス様おひとり、聖霊に導かれて荒れ野に行き、このように飲まず食わずの断食の時を持たれた、ということです。もしこのときすでにペトロがそばにいたら、こんなことは決してさせなかったでしょう。
イエス様にとってこの荒れ野での時は、洗礼を受けられた後、これから神様の働きをしていく上で、重要な静まるときではありました。しかし、それだけではなかったはずです。なぜ飲まず食わずで過ごさなければならなかったのか。もちろん、荒れ野でしたのでそこには水も食料もなかった、ということでもあるでしょう。しかし、そこでイエス様は空腹を感じる必要があった。それは、私たちのためでした。神様が人となって世に来られたのがイエス様であるわけですが、その方が、世に来られた以上、世の人々の悩み苦しみをつぶさに味わいたい、というのが御心であったわけです。そのような方にとって、この荒れ野の時は、この上もない機会でありました。そうか、水も食料もないとは、肉体を持つ身においてここまで苦しいのか。空腹であることが、ここまで判断を鈍らせるものか。そのことを、イエス様はあえて経験されたのです。それは、そのようなことで悩んでいる人々のことを理解するためでした。
ですから、イエス様は、飢えている人々の良き理解者です。そして、そのことによって判断を誤った人々に、寄り添ってくださいます。人間同士の間では、「なんでそんな愚かなことをしたのか」と責める声も聞こえてくるでしょう。でも、イエス様は「なぜあの時あなたがそのような判断をしたのか、わたしにはわかる」と言ってくださいます。そこから、心の領域において、不足を感じる、また飢え渇きを感じる人々の思いもよくわかってくださるのです。
そのような経験をなさったイエス様に、悪魔の誘惑が降りかかります。悪魔の誘惑は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)と、最初は言葉だけでした。しかし、次には、「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せ」(5節)、その上で「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」(6節)、「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」(7節)と、何かの行動をしてから、言葉で誘惑してくる、という仕方に変えてきています。これは、誘惑の方法としては、より巧みであると言えましょう。悪魔の行動で驚けば、それだけその言葉にも引っ掛かりやすくなるわけです。
9節以降も同様です。まず、「悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った」とあります。このようなことをされて、驚かない人はいないでしょう。荒れ野にいたと思ったら、いきなりエルサレムに連れてこられる。かと思うと、自分は今、高い高い、神殿の屋根の端に立っている。イエス様はどう思われたのでしょうか。このような悪魔のまやかしに、私たちは簡単に引っかかってしまうのではないでしょうか。
続いて、こんな声が聞こえてきます。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」(9~11節)。いきなり荒れ野からエルサレムの高いところに移動させられた不思議な体験の後にこのように聞いたら、うっかり言われた通りにしてしまうかもしれません。
やっかいなのは、悪魔でさえ、聖書の言葉を使う、ということです。「というのは、こう書いてあるからだ」と言って引用してきているのは、聖書の言葉なのです。先ほど交読文で読んだ箇所に、どこかで聞いたことがある言葉だ、と思われた御言葉があったかもしれません。詩編91編でしたが、この11,12節辺りが、悪魔がこのとき引用してきた言葉であると考えられています。悪魔が、ひと声聞いただけですぐ悪魔の言葉とわかるような言葉で誘惑してくるなら、悪魔はそれほど私たちにとって脅威ではありません。しかし、そうではなく、私たちが慣れ親しみ、そこに信頼を置いている聖書の言葉を使ってくるからこそ、やっかいな存在であるわけです。
しかし、ご存じのように、いずれにしてもイエス様はそれらを御言葉で退けられました。ここに繰り広げられましたのは、御言葉の使用法の対決、といったものでした。イエス様は、御言葉を尊び、神様をあがめ、信頼する形で御言葉を使いました。それに対し、悪魔も同じく御言葉を使っていても、それは「こう書いてあるから、やってみな」的な、真剣さを欠くものでしたし、神様への尊敬もなく、そればかりか、神様を試すような使い方だったのです。
私たちも同じで、御言葉を言えばいい、ということではないのです。「聖書にはこう書いてありますねえ」と言ったところで、そこに真剣さも、神様に対する敬う気持ちもなければ、それは意味がないのです。逆に、神様をあがめ、しっかりと頼る思いで、神様の約束を握りしめながら、御言葉を使うとき、それは絶大なる力を生み出します。私たちが証しするとき、また祈るとき。私たちが御言葉を思い出し、それを口にすることが、私たちの周りの人々を、また、自分自身を奮い立たせ、励ますことになるのです。何と多くのいにしえの聖徒たちが、祈りの中で神様の約束を握りしめ、力を得てきたことでしょうか。病のいやしを求めて祈る人々が、「わたしは主であって、あなたをいやすものである」(出エジプト15章26節)という主なる神様の約束にすがって、「主よ、あなたは『わたしは主であって、あなたをいやすものである』と約束なさいました。どうぞ今、その御言葉の約束通り、わたしになさってください!」と祈り、いやしの確信を得て、励まされ、慰められてきたのです。たとえ実際、願う通りのいやしが得られなかったとしても、すっかり心は変えられ、喜びに満たされてきたのでした。
さて、ここで悪魔の誘惑について、改めて考えてみたいと思います。悪魔のしたことはある意味で単純化でした。世の中の複雑な問題を、「私を拝みなさい、そうすれば世の中のものは何でもあなたのものになる」と単純化したのです。もう一つの悪魔の誘惑も同じようなものです。「飛び降りてみなさい。神様は守ってくださるから」と悪魔は誘惑しています。悪魔を拝むだけで、世の中のものすべてが自由になるのか。高いところから飛び降りるような無茶をしても、神様が守ってくださるのだから大丈夫なのか。私たちは、冷静であれば、世の中はそんなに単純ではないとわかるのですが、深い悩みの中で行き場のない時には、思わずこのような声に耳を貸してしまいそうになるものです。
これは、言い換えれば、ボタンを押すと結果が得られるような世界です。そんな単純な話ではないはずです。でも人間はそれを求めがちなのではないでしょうか。世界全体がスピード化し、何かせわしい。そのような中では、やはりボタンを押したらすぐ結果が出る方が喜ばれるのでしょう。何かをじっくり育てよう、ということにはなかなかなりませんし、物事がどうなっていくか、その推移をじっくり見定めましょう、ということにもなかなかならない。ちょっと時間がたったら、はい、時間切れ、もうだめです、結果が出ませんから取りやめましょう、というような話になる。そのような世界では、複雑な話は好まれず、シンプルで理解しやすく、耳に残りやすい話だけが語られる、ということが多いのではないでしょうか。AとBがあって、そのどちらを取るか、その葛藤の中でもがき続ける、などというのは前時代的で、今だったら、「一週間後に決めてください」などと言われかねません。
そのような中では、じっくりとした思索の中で思想が熟成されていく、などということはなく、いつも求められるのは結論のみ。それも、自分が出した結論でなくとも、どこかネットから見つけてきたものでも、また、それこそ決めつけでも構わない、などということになると、世の中どうなっていくのでしょうか。
私たちが30年前に経験した阪神大震災でも、3月11日が来ると14年を迎えるあの東日本大震災でも、その後の復旧、復興において、「こうしたら、こうなる」などといった単純化はできないことが証明されてきました。決して一筋縄でいかない、複雑な問題がそこにはあったのです。それを、忙しい社会の中で、「これを拝んだら、世の中のものを自由にできる」的な思考に染まってしまったら、それはどこか、悪魔の策略に見事引っかかってしまっている姿に近いのではないでしょうか。むしろ、そのような単純化に追いやられてしまっている現代人の危機、とも言えるかもしれません。
悪魔が怖いのは、そのおどろおどろしい姿かたちとか、身の毛もよだつような言葉とか、そういうことによるのではありません。まるでこの科学の時代に悪魔などいないよ、と思わせておいて実は私たちのすぐそばにいて、私たちを何かと忙しくさせ、深く考える暇を与えず、世の物事を単純化してとらえさせ、最終的には自分の誘惑に人間が引っかかるように仕向けている所に、その怖さがあるのです。信仰生活を送りながらも悩んだり、迷ったりすることがあって、その中で、祈りながら、聖書のあちこちを開いて考えたり、相談したり、説教を聞いたりして、そうやってようやく答えが見えたかどうか、というところで、また次の困難がやって来たり・・・。そのようなことは現実にあるわけで、ごく自然なことなのに、答えが出ないのは悪だ、と言わんばかりに、シンプルな思考、と言えば聞こえはいいですけれども、深く考えさせないようにする、というのは、まさにイエス様が経験した悪魔の誘惑の現代版、とも言えるのではないでしょうか。
悪魔はイエス様の声よりも、悪魔の声を聴かせようとします。「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」とささやきかけてくるのです。時にその声は実に魅惑的です。そのような声の方を、私たちは求めてしまう面もある。ですから、悪魔の誘惑の出来事は、イエス様にとってその受難の始まりであったように、私たちにとってもまた、苦難の始まりでもあります。悪魔が「わたしを拝みなさい。その方がいいことがある」と誘いかけてくるときに、冷静に、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(8節)との御言葉を通して、イエス様だけに頼る決意を新たにしたいものです。
最後、13節は「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」とあり、何とも印象深い御言葉です。「時が来るまで」というのは、十字架の時まで、ということです。その時まで、悪魔はイエス様を離れた。悪魔がイエス様をさいなむときは終わらなかったのだ、と思うと、イエス様のお苦しみの深さを思います。そうまでして、私たちのことを思ってくださったイエス様。結局は、イエス様は私たちの身代わりになってくださった、ということなのでしょう。本来なら、私たち一人ひとりが、いろいろな意味での荒れ野に捨て置かれ、そこで飢えと孤独のうちに悪魔にさいなまれ、破滅的な人生へと追いやられてもおかしくなかった。それなのに、それをイエス様はお望みにならず、私たちがそのような命運をたどらなくても済むように、代わりに荒れ野に導かれて行かれた。それが、私たちの救い主イエス様でした。ですから、イエス様のお苦しみは実に、私たちのためであった、ということを、また改めて深く思うものです。
それにしても、ここで悪魔は単に必要悪としての存在であるだけでなく、一方的に神様によって滅ぼし尽くされるのではない、神様が何らかの意図をもって、またイエス様のもとに現れるのを許容されている不思議な存在として描かれているように思えてなりません。私たちが一方的に「悪」と断罪して、決していてはならない存在だ、と排斥するのではない。それこそ、そんな単純な話ではない、とも思えてきます。悪魔などいない方が人間には幸せだ、そういうことなら、神様はとっくの昔に、悪魔など滅ぼしておられるはずです。ましてや、イエス様のもとに悪魔を近づけることなど、なかったことでしょう。結局のところ、領域の問題なのかな、とも思います。悪魔が、神様によって引かれた線の中にいるのなら、まあ、さほどの害はないところ、それを越えて出てくるときに、人間に何かと悪影響が出てくる、ということなのではないか。要は、悪魔を追い出す、とか、そういうことよりも、神様が定められている領域に戻り、そこから出ないように、との祈りの方が重要なのかな、というところですが、まあ、そのようなことは、今日今すぐに、答えの出るような話でもありません。皆さんも、いろいろとお考えがあることでしょう。結論を急がず、物事をあまり単純化せず、じっくりと考えていきたいところです。ともかく、私たちは悪魔に耳を貸すのではなく、イエス様に聞いていく。そのことを、地道に続けていきたいものです。
お祈りしましょう。
天の神様。季節の流れの中で、四旬節を迎えました。イエス様のお苦しみを思い、心静かに過ごす時期です。その最初の主日に、このように共に集まり、イエス様の姿を福音書を通して見ることができ、感謝します。私たちの代わりに、荒れ野の飢えと孤独の時を過ごしてくださったイエス様。どうか私たちが、このイエス様の受難の意味の深さについて、じっくりと思いをはせることができますように。忙しい世の中で、なかなかゆっくりと物事を考えることもできないような中で、悪魔のささやきにではなく、イエス様の声に従っていくことができますように。様々な場所で、困難の中を生きる人々を、あなたが御言葉をもって今週、慰め励ましてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・先週は礼拝後に昼食会がありました。また、フェローシップMLCの交わりがあり、そのあと役員会が開催されました。

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