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2025年3月30日 四旬節第四主日

執筆者の写真: 明裕 橘内明裕 橘内

2025年3月30日 四旬節第四主日 

聖書交読 詩編32編(旧約p862)

司) 32:1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。

会) 32:2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

司) 32:3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。

会) 32:4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。

司) 32:5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。

会) 32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。

司) 32:7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。

会) 32:8 わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。

司) 32:9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。

会) 32:10 神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。

全) 32:11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。


聖書朗読 二コリント5章16~21節(新約p331)

 5:16 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

 5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

 5:18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

 5:19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。

 5:20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

 5:21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。


説教 「新しい創造」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

皆さん、おはようございます。気温の変化が激しい折、体調を崩しがちな時期ですが、そんな中でもよくお越しくださいました。

 

本日、四旬節第四主日にお読みいただきました聖書箇所には、「和解」という言葉が出てきていました。それがどんな和解なのか、またその土台には何があるのか、本日の聖書箇所を少しずつたどってまいりましょう。

 

まず、16節。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」とあります。この中の、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」という部分ですが、古い新改訳では、「人間的な標準で人を知ろうとはしません」と訳されています。続いて、同様の表現がなされている「肉に従ってキリストを知っていたとしても」も、同じく古い新改訳では「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても」と訳されています。このことから、「肉に従って知る」とは、「人間的な標準で知る」という意味であることが分かります。

 

「肉に従ってキリストを知っていた」ということに関しては、パウロがまだサウロと呼ばれていた頃、キリストに従う人々を迫害していた頃のことを指しています。彼はその頃、人間的な標準でしかキリストのことを考えていませんでした。だから、キリストを単なる人間だと考えていたのです。

 

そもそもパウロはここでまず、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしない」と述べています。これは、すべての人について、今後一切、人間的な標準で判断しようとはしない、という決意の表れです。かつては、キリストを外面だけで判断して、彼を信じる者を迫害するような過ちをおかしてきた私である。だからこそ、もう一切、人を外面的なことで理解しようとはしません、ということです。

 

この背景には、パウロ自身の体験があります。パウロに反対する者たちが、うわべのことだけで、パウロを批判していたのです。先に申し上げたように、パウロはもとはと言えば、キリストを信じる人々を迫害していた人物です。12使徒に選ばれていたわけでもありません。そのような過去だけ見ても、パウロに反対者がいたとしても不思議ではありません。パウロの敵対者たちは、この手紙の5章12節によると、まさに「内面ではなく、外面を誇っている人々」でした。彼らは自分たちの資質や能力を誇っていました。それで、パウロを使徒としての資質や能力に乏しい、と批判していたのです。

 

現代においても、相変わらず、人をうわべだけで判断し、批判したり、付き合い方を変えてしまったりすることはなくなりません。パウロは、その人の外面ではなく、内側を見ることを学びました。私たちも、パウロと同じ視点に立ち、外見にとらわれず、人の内面を見ることができたら、と思います。これが、福音的な人間観である、と言うことができるでしょう。

 

パウロはそのように、キリストと出会うことによって、人間の見方も、キリストに対する見方さえ、変えられていきました。単なる人間だと思い、そのような人間に過ぎない存在に信仰を寄せ、従おうとしている人々を、誤っているとして迫害していたのが、そのような見方はやめた、ということでした。17節では、そのような変化をもたらしたことについて、述べられています。「だから」ということばで始まってはいますけれども、17節は16節の変化の理由、と考えると、すっきりすると思います。

 

17節、改めて読んでみましょう。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。たいへん有名な言葉です。「だれでもキリストのうちにあるなら」というゴスペルソングがありまして、洗礼を受けた当初、よく歌っていたことを思い出します。新しい創造。これが理由となって、パウロは人間のことも、ましてキリストのことも、外面的なことで理解することはなく、その本質を見るようになったのだ、ということです。

 

「キリストと結ばれる人」とあるのは、新改訳2017では「キリストのうちにある」と訳されていて、その方が直訳に近いと思われます。しかし、それではわかりにくいとして、解釈を込めて、新共同訳では「キリストと結ばれる人」と訳されているわけです。なるほど、その方がイメージし易いのは確かでしょう。キリストとのしっかりとした結びつき、つながりの中に置かれている人は、だれであっても、新しく創造された者なのだ。これは力強いメッセージです。新しく造られた、また私たちの感覚としては、「造り変えられた」と言う方がしっくりするかもしれませんが、それがあるからこそ、古い考え方は過ぎ去り、人間のみならず、何かを外面的に理解することから離れ、物事の本質を見ることができるようになる、ということです。それを表すように、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と言われています。

 

ここでは実は、「新しいものが生じた」と言われる前に、日本語では「見よ」と訳されるような、注意喚起する短い言葉が置かれています。そのあたり、新改訳2017では、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と訳されています。パウロとしては、すべてが新しくなった、というところを、強調したかったわけです。それだけ、新しくされる、ということは、パウロにとってはインパクトの強いことだったのでしょう。

 

お話ししている通り、パウロはかつてサウロと呼ばれ、キリストを単なる人間と思い、彼を信じている人々を迫害していました。これは信念に基づいた行為であり、そこにちょっとした改善を試みるとか、そのようなことは不可能と言ってもいいような状態でした。もう残された道は、サウロがパウロとして、まったく新しくされる、ということしかなかったわけです。

 

実は私たちも同じです。先ほど「人をうわべで判断しない、それが福音的人間観だ」とお伝えしましたが、いくらそのように言われても、肉のままの、生まれたままの人間では、それには相当の努力がいる、と言わざるを得ないでしょう。呼びかけや、それこそACジャパンの広告では、その時は「そうだなあ」と思うのです。しかし、それはたとえ「気づき」を与えたとしても、それを実行するだけの力を与えるわけではありません。「なるほど、人をうわべで判断してはいけないんだな」ということはわかります。しかし、実際に人に会って、複雑な人間関係の中で、ある人の言動を見て、それに惑わされず、その人の本質を見る、という力まで、与えるものではないのです。なかなか、人は変わらない。それまで生きてきた経験、習慣、考え方の癖、そういったもので、人を判断してしまう。ですからこそ、私たちはすっかり新しくされることが必要なのです。私たちがしっかりとキリストに結び付き、神様によってすっかり新しく造り変えられる。その時こそ、古い考えや習慣は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった、という世界が開けるのです。

 

続く18節において、この新しい創造が神様から出るものであることが改めて述べられます。古いものが過ぎ去り、すべてが新しくされる。これは、私たちルーテル教会が大事にする、日ごとの洗礼の考え方の土台です。私たちは一度限りの洗礼を受けました。しかし、その効力は、毎日続いています。ルターの小教理には、「毎日罪を悲しんで、悔い改めることにより、私たちの中にいる古いアダムが、すべての罪や悪い欲とともに溺れ、死ぬべきことを意味します。そしてとこしえに、神の御前で、義しく純粋な人として生きていく新しい人が、毎日再び現れて、よみがえることを意味します」と書かれています。私たちが、日々の悔い改めによって古い人が滅ぼされ、新しい人によみがえる。まさにこのことは、神様から出ることなのだ、とここで強調しているのです。

 

ここではもうひとつ、キリストの十字架の死によって、人間の罪は取り去られ、神様と人間とが和解することができるようになった、と述べられています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」た、とある通りです。

 

この「和解する」と訳されているもとの言葉の背景には、「両替する」という意味があるようです。そこからわかるように、交換するとか、取り換えるという意味のあるこの言葉、敵を仲間に変える、という意味で、「和解する」という意味になっていったと思われます。もちろん、個人間での関係を回復するという、私たちが普通イメージする「和解」の意味合いも持っています。

 

私たちの神様は、キリストを通して、すなわちキリストによって、私たち人間をご自分と和解させてくださいました。本来なら、私たちは神様に背を向け、神様に敵対して歩んでいたのです。その願うところも、神様の願いとは対立し、その行うところも、神様の御心に反していたのです。そのような、まさに神様の敵であったものが、先ほど述べた新しい創造によってすっかり変えられ、神様に親しい者とされたのです。神様と私たち人間の間がすっかり冷え切り、ひびが入るどころか、断絶していたところ、その関係が回復したのです。この「回復」という言葉に、慰めを感じます。どんなに間柄が壊れていても、また回復が与えられる。私たち人間にとっても、神様とまた親しく歩む日が来るなど、とても夢見ることなど許されなかったような状況に、キリストの十字架が打ち立てられ、そのことによって、私たちには回復の時が来て、神様とまた、親しく歩むことができるようになったのです。

 

ちなみに、細かいことではありますが、ここで和解のために奉仕する任務を授けられたという「わたしたち」は誰か、ということに、少し触れておきたいと思います。もともとの、コリントの信徒たちに送られた時点では、この「わたしたち」とは、パウロと、共同差出人であるテモテであると考えられます。それが、文脈によっては、現代において拡大されて、文字通りの「わたしたち」、すなわち、この書を読む人々すべて、ということになるのです。

 

その観点からすると、現代日本において、ここで御言葉を読む私たちにも、神様との和解のために奉仕する任務が与えられている、と受け取ることができるかと思います。なぜなら、その私たちすべてが、すでにキリストによって、神様ご自身と和解ができているからです。ここに、何にせよ、私たちに任務が与えられている、ということが示されており、素直に喜びたいと思います。果たして自分の役割は何なのか、何のために私は生きているのか。このような問いを一度も持たなかった人はいないことでしょう。普段何気なく生きていても、時折、「果たして私の生きる目的は?」と疑問に思うことがあるかもしれません。そのようなとき、ぜひ思い起こしていただきたいのは、私たちには務めがある、ということです。私たち神様と和解が成立した者は、その大事な役割として、この和解のことを告げ広め、これからも少しでも多く和解が成立していくように、そのお手伝いの一端を担っていく、ということなのです。

 

続く19節でも、神様と人間の和解は、大事な話題として取り上げられています。改めて、「神はキリストによって世を御自分と和解させ」たのだ、ということが、述べられています。繰り返しになりますが、その和解の土台となるのは、新しい創造です。神に敵対していた者が、キリストに結び付いて新しい創造を体験し、神様に親しい者へと変えられていくので、和解が成立したのです。ここでは、「世をご自分と和解させ」た、とありますが、もちろん、この世に住む人々との和解について、述べているのです。

 

続いて、「人々の罪の責任を問うことなく」とパウロは筆を進めます。これは、罪の責任を人間に負わせず、すべてキリストが背負って十字架にかかってくださったことを指しています。四旬節になぜこの箇所を開いているかというと、このようにイエス様の十字架のお苦しみのことが書かれているからです。では、なぜそのようにしてくださったのでしょうか。これは、弱い人間に対する神様の愛とご配慮である、と言われます。だから、身代わりとしてキリストを立て、このキリストに、人間の罪の全責任を負わせたのです。これは、神様の愛の表れでした。そのように、キリストが私たちの代わりに十字架にかかってくださり、私たちの罪の一切をそこで滅ぼしてくださったので、私たちは罪滅ぼしをすることもなく、完全に赦されて、新しい存在となり、神さまとの和解が実現したのです。

 

そのようにして実現した和解の言葉、これは言い換えれば福音と言ってもいいかと思いますが、これを「わたしたちにゆだねられたのです」とパウロは語ります。これは、コリントの信徒たちに向かって、パウロとテモテが「わたしたち」と語っている言葉です。そうではありますが、やがてはそれが、コリントの信徒たちにとっても、自分たちに和解の言葉がゆだねられたのだ、という受け取り方になっていく。そして今、時空を超えて、この御言葉を読む現代日本に生きる私たちにも、この私たちに和解の言葉がゆだねられた、という受け取り方になっていくのです。ここで言われている「ゆだねる」と訳されている言葉は、もとはと言えば「置く」という意味の言葉です。私たちの手に、和解の言葉は置かれているのです。神様と和解できます、というよい知らせを、私たちは伝えていくのです。

 

20節には、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」というパウロの言葉があります。細かいことですが、先ほどもお話ししたように、ここで言われている「わたしたち」は、基本的にはパウロとテモテのことです。まずはこのとき、コリントの教会においては、パウロとテモテが、キリストの使者としての務めを持つ者として、明らかにされたのです。パウロに敵対する者は決して少なくなかった。パウロとの1年半の歩みで、パウロのことがすべてわかったわけではありません。あとからやってきて、「私たちの方がパウロよりずっと優れてますよね、それなのに、パウロだけが使徒なのですか?」などと述べて、コリントの信徒たちを惑わせた者たちは確かに存在した。でも、ここでパウロは自信を持って、「私パウロとテモテが、キリストの使者なのだ」と断言するのです。しかしそれは、「やがてはあなたがた、コリントの信徒の皆さんも、私たちと同じように、キリストの使者になっていくのですよ」という含みを持った声明でした。そして今、その御言葉は花開き、遠く現代に生きる私たちをも、キリストの使者にしてしまうという、大きな実りを見ているのです。

 

ここで、少し違和感のある「神と和解させていただきなさい」という訳ですが、こちらは新しい新改訳2017でも支持されています。この部分は、もとの文では受け身の命令形なので、敢えて言うならば「神に和解されよ」(Be reconciled to God!)というような言い方になるかと思います。古い新改訳では「神の和解を受け入れなさい」となっており、実は最新の聖書協会共同訳でも、同じように訳されています。考えてみれば、神様と和解する、と言いましても、人間の力でどうこうできるものでもありません。まさに、神様の方から働きかけてくださって、それこそ「和解させていただく」、という感じにどうしてもなるわけです。その意味では、それを命令形にして、「和解させていただきなさい」とするのもあり、ということなのでしょう。

 

「キリストの使者」というのは、別訳では「キリストの使節」となっていますけれども、言ってみればキリストの「アンバサダー」である、ということになります。現代の日本においては、「アンバサダー」という言葉はもはや日本語になりつつあるとも言えるでしょう。意味としては「大使」、ということになりますが、現在は、マーケティング活動を行う外部人材のことを指す、とも言われます。いわゆる宣伝大使、ということです。4月13日開幕の大阪万博では、指揮者の佐渡裕(ゆたか)氏もアンバサダーに任命されています。広く大阪万博の魅力を伝える、というわけです。私たちもまた、その場その場にあって、キリストの魅力を伝えるアンバサダーなのです。そして、私たちが伝えるのは、新しい創造に基づく、神様との和解なのです。

 

本日の聖書箇所の最後の21節となりました。「罪と何のかかわりもない方」は、もちろんキリストのことです。この方に結びついて、私たちは新しい創造物とされ、それに基づいて神様との和解を得ました。新改訳2017では「罪を知らない方」と訳されています。罪を知らぬ、罪なき存在が、私たちの代わりに罪ありとされる。これはまさに身代わりです。このおかげで、私たちは罪なき存在とされました。ルターが言う、幸いな交換が成り立ったのです。すなわち、私たちの罪はキリストに、そして、キリストの良いものが、私たちに、という、交換です。そして、私たちが得たキリストの良いものとは、キリストによる神様の義、ということになります。キリストとの幸いな交換により、私たちには罪がないようになったので、そのおかげで、神様に正しい存在であると認められるのです。それがすなわち、神様の義を得る、ということであるのです。

 

今朝はこのように、神様と人間の和解、ということについて語る御言葉を見てまいりました。その土台にあったのが、私たち人間の新しい創造、ということでした。以前は神様に背を向け、敵対していた者が、キリストによってすっかり変えられ、まるで全く新しく造られた者のようになる、という恵みでした。それがあってこその和解、ということだったのです。私たちには、毎日新しい自分に変えられるという日ごとの洗礼の恵みがあります。そして、神様と和解して、神様が味方となってくださるので、安心して過ごすことができるのです。

 

お祈りします。

天の父なる神様。今朝も御言葉の恵みをありがとうございます。あなたに背を向け、敵対していた私たちを憐れんでくださり、恵みにより、信仰を通して救い出してくださり、感謝します。その背後には、イエス様が私たちの罪の一切を背負ってくださり、十字架にかかってくださった、ご受難がありました。それがあって私たちの罪はすべて取り除かれ、まったく新しく造られた者となり、それが土台となって、あなたとの和解が成立し、今、あなたと私たちがとても良い関係でいることができ、感謝します。なおこの世にあっては困難のある私たちの歩みではありますが、いつもあなたが味方でいてくださるので安心です。苦難や災害、絶えることのない戦火によって生きづらさの中におられる方には、どうかあなたの憐れみの御手が伸べられますように。私たちが、救い主イエス様を見つめ、あふれる恵みを味わいながら歩むことができるよう、いつもご配慮ください。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・イースター献金をおささげいたしましょう。本日は、4月20日のイースター礼拝の案内発送準備を行います。来週は礼拝後昼食会があります。




 
 
 

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