聖書交読 出エジプト34章29~35節(旧約p152)
司)34:29 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。
会) 34:30 アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、
司) 34:31 モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。
会) 34:32 その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。
司) 34:33 モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。
会) 34:34 モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。
全) 34:35 イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。
聖書朗読 ルカ9章28~36節(新約p123)
9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。
9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
9:36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
説教 「祈ると変わる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
皆さん、おはようございます。月並みな言い方ですが、2025年も始まったと思ったらもう3月です。月日の経つのは早いと改めて思わされます。寒波と言っていたと思ったら、急に春のような温かさ。かと思えば、大雪と言っていたと思ったら、岩手の方ではたいへんな山火事となっております。世界情勢も、米国が介入してのウクライナとロシアの停戦実現かと思えば、リーダー同士の話し合いの決裂が報じられ、雲行きが怪しくなっています。そのような変化の中で、教会の暦も大きく動いて、本日は変容主日を迎えています。来週からは、もう四旬節です。本日は、イエス様のお姿が変わった出来事の箇所を、ルカによる福音書を通して見ています。
ルカによる福音書は、イエス様の祈りに注目しています。ここでもイエス様は、「祈るために山に登られた」とあります(28節)。この山は、イエス様が6章で12弟子を選ぶために祈りに登った山であるとも言われます。イエス様はこの時、ペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを連れて山に登られました。この3人は、8章で会堂長ヤイロの娘のいやしのためにイエス様とその家に入った、選ばれた3人でした。のちに彼らは、イエス様の十字架の直前、ゲツセマネの園でイエス様と一緒に祈っています。
祈るために山に登るというのは、この当時の風習であったかもしれません。しかし、わざわざ苦労して山に登り、祈るというのには意味があったことでしょう。一つには、祈りには犠牲が伴う、ということです。何でも無理せず、楽なように、という昨今の風潮がありますが、ソファーにくつろいでいては祈れない祈りもある、ということです。特にプロテスタントの方では、祈りがカジュアルになってきている面があるように思いますが、ここにあるのは祈りのもっとフォーマルな面です。
また、このように山に登ることには、静まる、という意味合いもあったことでしょう。多くのいにしえの聖徒たちが、祈りにおいて、この「静まる」ということが大事だと認識して、実行してきました。もちろん神様はどんな形での、そんな場所での祈りも聞いてくださいますが、私たちが世の喧騒から離れて静まり、神様に集中して祈ることもまた、貴重な機会です。
イエス様が祈っておられると、「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)とあります。祈っておられるうちに、イエス様の神様としての本質が現れ出た、ということです。「服は真っ白に輝いた」とありますが、白という色は、神様の栄光を表します。この辺りのことを、ある聖書の解説の本はこう語っています。
「イエスが神の子キリストであり、本来栄光の姿をもっておられる方ならばその本質が、どこかで現れるのは自然である。これは暗黒を破ってさし出て来たイエスのまことの姿である。」(『新約聖書略解』)
早速このように、イエス様の神様としての栄光が現れるという、イエス様のお姿が変わった出来事の本質がここに明らかにされています。教会はこの出来事を大事にして、このように変容主日として、記念しています。そして、先ほども触れましたように、その次の主日から、いよいよ四旬節が始まるのです。
そのような教会の暦の流れからしても、イエス様が十字架の苦難を前に、ご自分の神様としての本質を表されたのは、まことに重要なことでした。あたかもそれなしには、お苦しみを耐え忍ぶことなどできなかった、ということであるかのようです。
さて、このように私たちの目はずっと変容のイエス様に向けられていましたが、ここで突然その視界に、2人の人物が割って入ってきます。それはモーセとエリヤでした。今ここに真っ白に光り輝くイエス様がおられますが、モーセもまた、顔が光を放っていて、覆いを掛けなければならないほどであったと言われています。本日の交読文で、そのことがわかります。それは、大事な大事な、律法の石の板を神様から受け取ったからでした。
続く31節には、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。このように、ルカによる福音書の方には、モーセとエリヤが現れて、イエス様と何を語り合っていたかがはっきり記されています。彼らは、イエス様の最期について、話し合っていたのです。このことがあるので、教会の暦では、この変容主日はかつて受難節と言われていた四旬節の前に置かれているのです。
この「最期」という言葉ですが、「脱出」あるいは「出発」の意味があります。それだけではありません。この言葉は、あの出エジプトの、尊い救いの奇跡を暗に示す言葉でもあります。ですから、彼らはここで、イエス様の出エジプトについて、語り合っていたことになります。
出エジプトと言えば、旧約聖書の出エジプト記に記されている奇跡のことです。かつて、エジプトに住んでいたイスラエル人が増え広がり、エジプトで強制労働をさせられることになってしまった。その苦役の中で彼らが神様に叫ぶと、神様はモーセを指導者として立て、エジプトから脱出させてくださった、という出来事で、旧約聖書全体を通して、救いの出来事として描かれています。イエス様の出エジプトとは、イエス様が実現してくださる新たな出エジプトのような救いの奇跡のことで、それを通して私たち人間を救い出してくださる、という意味もあるでしょう。また、イエス様自体の脱出、ということで、イエス様がたとえ十字架で苦しみを受け、命を落としても、脱出、すなわち復活がある、という意味もあるかと思います。この時、モーセが現れたことは実に印象的です。まさに彼が、出エジプトの時の指導者だったからです。あたかも今回は、イエス様の出エジプトを導くかのようです。
32節で、ペトロとヨハネ、そしてヤコブも、モーセとエリヤを認識したことがわかります。それよりも、彼らが目にしたのは、「栄光に輝くイエス」でした。まさに、神様の栄光を表に出した姿でした。
このとき、ペトロとその仲間が「ひどく眠かった」というのはどういうことなのでしょうか。山登りで疲れたのでしょうか。理由はともかく、ひどく眠かったということは、積極的に人間側が動くことができないときだった、ということでもあります。イエス様の栄光を見るのは、実はそのようなときなのだ、ということです。人間側の意識がさえわたり、縦横無尽に動き回ることができるときというのは、案外人間は自分自身だけを頼みとしているというか、イエス様の方まで意識が行かずに忙しく立ち回っている、ということが多いのではないでしょうか。そうではなく、ひどく眠くて意識もはっきりせず、体も思うように動かせないような時こそ、実はイエス様を認めるとき、イエス様の栄光を配するときなのだ、と知るのです。
33節に表されている様子というのは、神様の栄光が見えても、ペトロにはまだ、イエス様もモーセもエリヤも同等で横並びだった、ということなのでしょうか。それとも、順番の面で、ちゃんとイエス様を最初にしていますから、イエス様の優位性を理解していた、ということなのでしょうか。ペトロはイエス様に言います。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(33節)
とにかく、ペトロの思いというのは、ここによく表れています。「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」。不思議にも、この「すばらしいことです」という訳ですが、口語訳も新改訳も私たちの使う新共同訳も、共通して皆「すばらしいことです」と訳しています。使われている元の言葉は「良い」という意味の形容詞。ですので、多くの英訳が「良いことです」と訳しています。ペトロにとっては、イエス様はもちろん、不思議にも姿を現したモーセとエリヤと一緒にいることは、良いことと思ったのです。
ここでペトロが仮小屋を作りたかったのは、なぜだったのでしょうか。この部分、新共同訳は「仮小屋」と訳していますが、元の意味はテント、あるいは幕屋ということで、新改訳2017は「幕屋」と訳しています。古い新改訳では、そればかりか、注において、「聖なる天幕」という別訳の可能性も示唆しています。こうなると、神様の栄光の輝きを放つイエス様に幕屋を、というのはまだわかりますが、モーセとエリヤにまでそのような幕屋を作ろうとしたのはなぜだったのか、少々理解に苦しむところです。ユダヤ人である彼が、まさかモーセとエリヤを礼拝の対象として見たとは思いませんが、いずれにしても、この時のペトロの理解としては、イエス様もモーセもエリヤも横並びだった、と言わざるを得ない状況です。
良い方に誤解すれば、ペトロとしては、仮小屋を作ってでも、もう少しこの光景を見ていたかった、モーセとエリヤと一緒にいたかった、ということなのでしょう。何せこの2人と言えば、旧約聖書を代表する人物なのですから。しかし、34節になって、状況が変わります。
「 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。」(34節)
いくらモーセとエリヤが現れたにしても、その光景は永続するものではありません。彼らは、イエス様も例外でなく、雲に隠れてしまいました。このように、大事なことが見えるようになるために、雲が現れて私たちの目から何かを隠すこともある、ということです。この場合、ペトロたちの目に、いつまでもモーセとエリヤが見え続けることは、良くないことでした。ペトロからすれば、それは先ほども「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。良いことです」という彼の言葉を紹介したように、モーセとエリヤがいるのは良いことでした。しかし、いつまでも彼らが見え続けるのは、神様からすれば、良いことではなかったのです。モーセとエリヤに代表される、旧約聖書の時代は終わった。これからはイエス様による、新しい時代に入る。そういったことだったのです。
決定的なことは、雲の中から声が聞こえたことでした。しかもそれは、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と断言します。
そして、その声がしたとき、もうモーセもエリヤも姿を消し、そこにおられたのは、イエス様だけでした。ですから、ペテロたちからすれば、「これに聞け」と言われて、目の前にイエス様しかおられなかったわけですから、これは「イエス様に聞け」と言われたのと同じであるわけです。ここで、モーセでもエリヤでもない。イエス様なのだ、ということがわかったわけでした。
今日神様は私たちにも同じように、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と、イエス様について語られます。私たちの信仰生活や祈りが定まらないのは、このように、「これに聞け」と言われる神様の御言葉に飛び込み、それを徹底することができていないところから来るのかもしれません。
しかし、だからと言って、このところの伝えようとしていることが、「さあ、みんなでイエス様だけを見上げましょう」と私たちを鼓舞することなのかというと、また違うようにも思うのです。もう一度この時の状況を振り返ると、ペトロたちは努力して、がんばってイエス様だけを見ようとしたのではないのです。ごく自然に、雲が晴れて、イエス様だけが見えた、ということでした。これは、言い換えれば、神様がイエス様だけを見るようにしてくださった、ということでもあります。私たちにも同じようなことが起こります。私たちが、いったい誰を見るべきなのだろうか、と目移りしているとき、神様が雲を起こして、何も見えなくされる。そして、「これに聞け」という御言葉とともに、雲を取り除いてくださって、私たちが見るべき存在として、イエス様だけを現わしてくださる。それで、私たちが見るべき、聞くべき存在はイエス様だけなのだ、ということがはっきりわかって、私たちが確信をもって、イエス様だけを見て歩めるようにしてくださる、ということなのです。これは、最初から最後まで神様の側の働きです。私たちはイエス様だけを見せていただくのです。
今日は変容主日にあたり、これまで、イエス様のお姿が変わった出来事について触れてまいりました。それは、イエス様の、神様としての栄光が現れた瞬間でした。この出来事は、イエス様が祈るために山に登られた時、起こったのです。
このように、イエス様は祈っておられるとき、お姿が変わりました。私たちは祈るとき、イエス様の栄光ある姿を見ることができます。もっと期待して、私たちは祈ることができます。私たちが祈りの答えをいただくことももちろん重要ですが、祈ることを通してイエス様の栄光に触れることもまた、私たちにとって重要なことです。また、イエス様が祈っておられるときにお姿が変わったことは、私たちにとっても希望でもあります。私たちも、祈るとき、姿が変えられる、ということです。希望を持つことができず、暗く沈んだ顔から、祈ることによって、希望にあふれ、喜びに満ちた顔に変えられていきます。それによって、ますます期待して、心にあるあのことこのことを、信頼して祈ることができるようになります。また、月のようにイエス様の栄光の輝きを反映させて、私たちもこの世にあって、光り輝きます。それが日常生活における証しとなり、私たちは「伝道しなければ」というがんばりから離れて、自然にイエス様の光を伝える者となるのです。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。あなたの恵みに感謝します。その恵みによって、また信仰を通して、あなたからの素晴らしい救いをいただいていますことに、改めて感謝します。この変容主日、イエス様のお姿が変わったことを通して、私たちがこのイエス様の栄光を拝することができること、また、私たち自身も変えられる希望をいただきました。ますます期待して、祈ることができるように導いてください。災害に苦しむ地や戦火の絶えない地に、あなたの慈しみの御手が延べられますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日は礼拝後に昼食会があります。また、フェローシップMLCの交わりがあり、そのあと役員会となります。

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