聖書交読 ルカ13章1~9節(新約p857)
司) 13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
会) 13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
司) 13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
会) 13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
司) 13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
会) 13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
司) 13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
会) 13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
全) 13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
聖書朗読 イザヤ55章1~11節(旧約p1152)
55:1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
55:2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
55:3 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
55:4 見よ/かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし/諸国民の指導者、統治者とした。
55:5 今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は/あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主/あなたに輝きを与えられる/イスラエルの聖なる神のゆえに。
55:6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
55:7 神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。
55:8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
55:9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
55:10 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。
説教 「御言葉が実現していく時」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
季節の変わり目、寒暖の差も激しい折ですが、こうして皆さんとともに礼拝の恵みにあずかることができ、感謝をしております。
四旬節第三主日に当たり、今日は珍しく、聖書日課の旧約聖書の箇所を開いております。力強い神様の御言葉の約束が記されているからです。新共同訳の小見出しには、「御言葉の力」と記されている箇所です。
本日の聖書箇所は、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」との呼びかけで始まります。これは、主なる神様の、私たちに対する招きです。新改訳2017によると、この節の冒頭には、「ああ」という感嘆詞がついております。原文もそのようになっております。原文で使われている言葉は、もともとは満たされない思いや痛みの表われで思わず「ああ」と言ってしまう、そのような言葉なのですが、この場合は、注意を呼び覚ますために使われていると言われます。ですから、「さあ」という呼びかけに変えても差し支えないと思います。「さあ、渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」という、大事な呼びかけであるのです。
この呼びかけの意味は、弱さを抱えている者が、神様に招かれている、ということです。「水のところに来るがよい」と言われているのは、水を豊かに与えて私たちを潤してくださる神様のもとに来なさい、という意味なのです。ここで強調されているのは、無代価であることです。そして、語りかけておられるのは、主なる神ご自身と考えられます。
では、今日この御言葉を読むにあたり、ここで呼びかけられている、飢え、乾き、弱さを覚えている者たちとは、誰なのでしょうか。それは私たちのことです。しかし、もしかして私たちは、なかなかそのように思えないかもしれません。恐らく、それほど飢え渇いているという実感がないからだと思います。もちろん、今、主食である米の値段が高くて、お金を払わずに米を求めよ、と言われたら、ピンとくるかもしれません。しかし、それでも、現代の日本においては、もう食べるものも飲むものもまったくない、というところまではいかないことが多いと思われるので、飢え乾いている私たち、という意識にはなりにくいのかもしれません。結果として、主の招きに応える、というところまで、行きにくいのかもしれません。
また、この現代の日本においては、「自助努力」あるいは「自己責任」という言葉がしばしば聞かれます。それもまた、私たちを追い込んでいるのかもしれません。「水」や「穀物」「ぶどう酒」と「乳」に象徴される豊かさ、そしてそれを与えてくださる主なる神様。この神様のもとに来なさい、という招きを受けてはいるのですが、「安易に助けを求めてはいけない、まずは自分で努力するのだ」というところに立ってしまうと、なかなか容易にほかに頼れないと言いますか、頼るのは弱さの表れ、というような味方になってしまい、それはそれで生きづらくなってしまうように思います。心開いて、安心して、神様に頼っていいという知らせを、広くお伝えしたいものです。
次の2節も、引き続き主なる神様ご自身からの声となっています。「糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労する」とは、人間的な努力のことを表しています。先ほどもご紹介した、自助努力、自己責任、という考え方です。なぜ、豊かに満たしてくださる方がすぐそこにおられるのに、あくせく自分の力で何とかしようと立ち働いて、自分で満たそうとするのか、という問いかけです。すぐそこに、解決の道があるのです。御言葉は、「わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる」と、解決の糸口を示しています。しかし、そのような道が示されても、それを選びたくない、いや、選んではいけないと思っているかたくなな人間の罪深い姿がよく表れています。神様はすでに、「その豊かさを楽しむであろう」と、私たちに幸せへの道を開いておられるのです。それなのに、「自分で何とかしなければ」とがんばって、その結果、「苦しい、苦しい」と嘆いている。神様にゆだねることができない人間の姿です。それは、他でもない、私たちの姿でもある。悔い改めの四旬節において、このことに気づくことは重要です。そのような私たちのために、イエス様はこの世に来てくださり、私たちのその罪を負って、十字架にかかってくださいました。そのことを深く思うものです。
3節においても、主なる神様は、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい」と呼びかけてくださっています。それだけ、神様は私たちのことを大事に思っていてくださって、ご自分のもとに招きたいのです。「聞き従って、魂に命を得よ」と、ここでは私たちを命へと招いておられます。それだけ、命は大事、ということです。ここに、神様の与えてくださる、尊い命の輝きを見るように思います。
次に、神様は契約について語られます。日本は契約社会ではない、と言われることもあるようです。何しろ日本は察する文化であり、雰囲気や慣習を重んじる中では、あまり契約、契約と言われないこともあるのかもしれません。しかし、ここでの契約の意味は、口うるさいとか、物事に細かいとか、そういったことではありません。むしろ、私たちの幸せにつながるものです。御言葉を改めて読んでみましょう。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」。神様は私たちと、私たちを守り、導くという契約を結んでくださるのです。しかも、それはとこしえの契約ですから、何と永遠に変わることがありません。しかも、その土台はダビデにあります。神様がダビデに約束なさった真実の慈しみのゆえに、結ばれる約束です。この部分は、新改訳2017では「ダビデへの確かで真実な約束」と訳されています。その方がわかりやすいかもしれませんね。そのような確かな約束が土台となっているのですから、ちょっとのことでは変わらないのです。過去に土台を置いた契約は、今の私たちがどうこうしたところで、決して変わりません。これが安心できるポイントです。神様が私たちに恵みをお与えになり、幸せにするという契約は、決して変わることがないのです。その契約関係の中に、私たちはいれられているのです。
4節で、少し毛色が変わります。「見よ/かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし/諸国民の指導者、統治者とした」と、今まで出てくることのなかった「彼」という代名詞が登場するのです。これは、誰のことなのでしょうか。この「彼」が、諸国民への証人になるし、諸国民の指導者、統治者となっていく。単数であって、このような立場の存在となると、自然に私たちは、これはメシアのことではないか、と思うようになります。メシアが、神様がおられることと、神様が契約を結んで民を恵み、幸せにしてくださることの証人となる。そして、神様に導かれて、諸国民を統治していく。このような姿です。
続く5節も、4節に密接に結びついています。4節は、明らかに主なる神様の言葉でしたが、ここから話者が預言者イザヤに変っているようにも見えます。そして預言者が、4節で「彼」として示されたメシアを、今度は「あなた」と呼び換えています。いわく、メシアが国に呼びかけ、その国がそれに応じて、メシアのもとにはせ参じる、ということです。しかも、ただの国ではなく、「知らなかった国に」ということですから、メシアが知らなかった国に、呼びかけると言われています。それで、メシアを知らなかった国が、メシアのもとにはせ参じてくる、ということなのです。
これはいつの状況なのでしょうか。預言された当時においても、これは未来のこととして描かれています。むしろ、これは終末の状況を示す、ということができるでしょう。将来の終わりの時に、メシアはメシアが知らない、またメシアを知らない国々に呼びかけ、そしてその人々が、メシアのもとに集まってくる、という壮大なビジョンです。もちろん、このメシアを、私たちはイエス・キリストとして信じでいます。また、ずっと先のことと考えなくとも、すでにパウロの時代から、終わりの時代と思われていた節がありますから、今のこの教会の時代、メシアであるイエス様は多くの国々に呼びかけられ、そこから、私たちも知らなかったような、多くの人々を、御許に招いておられるのです。
このような壮大なヴィジョンを受けて、6節において改めて、「主を尋ね求めよ」「呼び求めよ」との呼びかけが繰り返されています。
「主を尋ね求めよ」の「尋ね求める」は、熱心に、繰り返し求める、というニュアンスがあります。まことの神様を祈りと礼拝において探り求める、ということです。この呼びかけもまた、今日この御言葉を読んでいる私たちへの呼びかけ、と受け取ることができます。私たちに対して、「見いだしうるときに」「近くにいますうちに」主を求めよ、と呼び掛けているのです。
ということは、主なる神様が見出せなくなり、近くにおられなくなる時が来る、ということでもあります。「見いだしうるときに」とは、探して見つけることができるとき、という意味です。探しても探しても、神様が見つからない時が来る、そのような終末の困難な時期のことを、ここでは暗示しているのかもしれません。
私たちも、神さまを求めることなどいつでもできるのだから、今でなくても、と思っているうちに、時間切れになって、もういくら探しても見つからない、という時が来ると言われているのですから、油断することなく、神様が近くにおられるうちに、探し出せる間に、神さまを求めることが大事です。いつでもできる、と思っていると、かえって人間、やらなくなってしまうものです。免許の更新のはがきが来ていても、まだ時間はある、いつでも行ける、と思っているうちに、あっという間にその日が近づいてしまった、などというご経験もおありのことでしょう。この前、メジャーリーグが日本で開幕戦を行って、たいへんな話題を呼んでいました。テレビのインタビューで、「今日は観戦するんですね」と尋ねられた青年が、「それが、チケットは取れたんだけど、期日までお金を払わなかったので入れないんです」と苦笑いしている様子が映し出されて、何ともったいない、と思いました。しかし、このようなことは起こりうることです。探し求めることができる間に、近くにおられる間に、一緒に神様を求めていきましょう。
この神様を求めることは、先ほど、祈りと礼拝において探り求めることでもある、とお話ししました。ますます、礼拝出席に熱心になりましょう。また併せて、祈祷会の出席もお勧めします。御影は土曜日午後4時から教会で、園田は水曜日夜7時から久松さん宅で開催です。
呼びかけはさらに、「神に逆らう者」「悪を行う者」にまで及びます。神様の目は、すべての人に及んでいるのです。「神に逆らう者」は、新改訳2017では「悪しき者」と訳されており、その方が原意に近いと思われます。「悪を行う者」の方ですが、直訳すれば「悪の人」というような感じで、実際は「悪しき者」とほぼ同じ意味の言葉であることになります。とにかくここでは、悪人はその道を離れ、そのたくらみを捨てよ、ということが呼びかけられているのです。
しかも、主に立ち帰るなら、主は憐れんでくださり、赦してくださる、というのですから、厳しいと思われる旧約聖書にすでに、神様は赦しの可能性を示しておられることになります。
この御言葉もまた、「誰かほかの人に言っている」ということではなくて、私たちへの呼びかけとして、受け止めたいものです。神にも逆らっていないし、何のたくらみも持っていない、と思うかもしれません。しかし、本当に正直に、誰の前でもとがめられるものは何もない、と断言できる人がどれだけいることでしょう。私は清廉潔白だ、などと主張する人に限って、何かやましいものを持っていたりするものです。今私たちは、イエス様の十字架の犠牲を深く思い、悔い改めの心を持つ四旬節を過ごしております。それに際し、もう一度、神様から見れば、逆らう者、悪を行う者に過ぎない私たちに対し、帰って来るなら赦される、と赦しの道を開いておられる神様に、心から感謝をささげたいと思います。
8節からは再び、主なる神様が語っておられる部分となります。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる」と訳されていますが、実際は、「異なる」という言葉は原文にはありません。むしろ、直訳すると、「と言うのも、わたしの思いはあなたがたの思いではなく、あなたがたの道は、わたしの道ではない」となります。「わたし」とおっしゃるのが主なる神様で、「あなたたち」が、今このように御言葉を読んでいる私たちのこと、と読むことができます。
私たちも、日々の忙しさにかまけて、神様のことをじっくりと思うこともなく、次第に、神様と私たち、同程度の存在として考えてしまうようになってしまう、ということがないとは限りません。そう言えば、ギリシア神話の神々は、私たちと同様に手足を持ち、泣いたり笑ったり、また思うままに怒ったり、そのような存在として描かれています。まさか私たちが、神さまをギリシア神話の神々と同程度に考えているということはないかと思いますが、でも、思いの通りにならなかったり、難しい状況に置かれたりすると、どこかで、神様に対する期待が薄まってしまって、神さまを小さく、小さくとらえていってしまって、ついには人間と大した変らないような神様にしてしまう、というようなこともあり得ます。そのようなことがあるからこそ、ここで、「わたしの思いは、あなた方の思いではない」とはっきり断言される神様の言葉を、今日一緒に心して、受け止めておきたいと思います。そうです、神様は私たちとは同じでないのです。神様の道は、私たちの道とは異なる。このことを、はっきりと心に刻んでおきたいと思います。
続く9節も8節とほぼ同様の表現で、「天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている」と言われています。同じく「道」と「思い」が出てきますが、それが神様のものと人間のもので「異なる」、と言われていたのが8節。この9節では、「神様の道と思いの方が、私たちのそれよりも高く超えている」ということが述べられています。
そしていよいよ、10節に到達します。本日の説教題の、「御言葉が実現していく時」というテーマに深く関係する、その土台となる御言葉です。ここでは、当時この御言葉を聴いた人々がすぐにイメージできる自然界の様子が、たとえとして用いられています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える」。なるほど、その通り。この自然法則は当然変わることのないものと考えられていました。だから、それを神様に当てはめれば、神様が変わらない、揺るぎない方であることがわかる。そして、ますます信頼できるようになるのです。
なぜ本日の聖書箇所では、主なる神様の呼びかけが繰り返されていたのでしょうか。それには理由があります。「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない」と11節前半にあるように、御言葉の実力があるからです。主の御言葉の約束は決して私たちを失望させることなく、「わたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」(11節後半)と固く約束されているのです。主なる神様の言葉はむなしく帰ってくることはなく、必ず神様の望まれることを成し遂げ、その使命を果たすのです。
この神様の言葉は、創世記冒頭で「光あれ」と仰せられ、光が存在するようになった、あの天地創造の言葉でもあり、出エジプトの際に「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる」(出エジプト14章16節)と仰せになって、民をエジプトから救い出した、あの救いの言葉でもあります。神様はご自身の言葉によって創造し、救われるのです。
このように、御言葉には、語ったことを実現させる力があります。それを先ほど、「御言葉の実力」と表現しました。ぜひ心に留めておいてほしい言葉です。孤独と絶望に追いやられる夜に、目の前に立ちはだかる壁に恐れおののくときに、自信も期待も一切がはぎとられるその瞬間に、ぜひとも、神様の御言葉にはそれを実現させる実力がある、と信じていただきたいのです。そのように信じ切った人のことを、今日はご紹介したいと思います。
御影ルーテル教会では三浦綾子読書会を開催しておりまして、本日も午後1時から開催されます。本日で現在読んでいる『この土の器をも』は最終回となります。この作品は、三浦綾子さんの結婚生活の様子から、最後は『氷点』が朝日新聞一千万円懸賞小説に入選するまでを綴っています。その最後の辺りを今日読むことになるわけですが、そこには、三浦綾子さんのご主人、三浦光世さんの信仰がありありと描かれています。
光世さんは、小説に関しては全くの素人である綾子さんに、「綾子、この小説は入選するぞ」と断言するのです。それは、とある御言葉がひらめいたからだ、というのですが、それが、マルコによる福音書11章24節の御言葉でした。<なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう>。これは口語訳からの引用です。この御言葉を示したうえで、自信を持って、
「ほら、すでにかなえられたと信じなさい。と書いてあるだろう。そして、そう信じたら、そのとおりになるのだ。このみ言葉がひらめいたのだ。だから入選するよ」(248ページ12行目)
と言うのです。昭和38年12月31日の締め切りを迎える前の、7月ごろのことだったと記されています。そして、本当に、その約1年後、昭和39年7月10日、正式に入選が発表されました。それがまさに、御言葉が実現した時だったのです。
このような経験は、三浦綾子さんご夫妻にとどまりません。ここにいる私たち一人ひとりもまた、御言葉が実現していく時を体験するのです。この力ある尊い神様の言葉が、私たちにも与えられていることを喜び、確信を持って、今週の歩みを始めましょう。
お祈りします。
天の父なる神様。私たちに力強い御言葉を与えていてくださり、感謝します。その御言葉は、むなしく神様のもとに帰っていくようなことはなく、神様の望むことを成し遂げ、神様が与えた使命を必ず果たす、と約束されていますから、感謝いたします。そのような、実力ある御言葉によって、世界も私たちもつくられ、また、救われました。感謝いたします。御言葉の力を確信して、今週の歩みを続けていくことができますように。困難をも打ち破る御言葉の力を、経験することができますように。
尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・先週は、玲子牧師の説教でした。橘内師は三田フェローシップキリスト教会でのご奉仕でした。本日は、礼拝後に午後1時から三浦綾子読書会があります。『この土の器をも』の最終回となり、次回は新しい作品に移ります。

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