2025年2月9日 顕現後第五主日
- 明裕 橘内
- 2月9日
- 読了時間: 13分
聖書交読 イザヤ61章1~8節(旧約p1162)
司)61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
会) 61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
司) 61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
会) 61:4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
司) 61:5 他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。
会) 61:6 あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。
司) 61:7 あなたたちは二倍の恥を受け/嘲りが彼らの分だと言われたから/その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける。
全) 61:8 主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。
聖書朗読 ルカ5章1~11節(新約p109)
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
説教 「献身の道」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
先週は教会総会でした。皆さんご出席くださり、無事総会が成立し、一緒に報告を聞き、話し合いができて感謝します。また、先ほど任命式が行われましたが、役員が御心によって選出され、牧師の働きの補佐をする教会主事の信任もなされました。改めて感謝します。教会がこの2025年の活動に向けて、また一歩踏み出す時ですが、ちょうど御言葉が、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と促しています。ご一緒に、どんなことが書かれている箇所なのか、御言葉を探ってまいりましょう。
イエス様は、より多くの町に神の国の福音を告げ広めようと、諸会堂で教えられました。そのあと、ゲネサレト湖畔に立っておられました。ゲネサレト湖は、ガリラヤ湖の別名です。すると、「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」(1節)、とあります。もうこの当時、噂のネットワークによって、イエス様の評判は各地に広まっていたようです。それによって、イエス様は「神の言葉」を語る方だ、という認識も広まっていたようです。群衆は、神様の言葉を聞こうとして、イエス様の周りにやって来ました。では、私たちはどうでしょうか。私たちも彼らと同じように、イエス様のもとに、神様の言葉を聞こうとして集まってきているのでしょうか。それとも、単に習慣的に、何となくそうしなければならない、という思いによって、来ているだけなのでしょうか。神様の言葉は、私たちを生かす、命の言葉です。その命を求めて、私たちはイエス様のもとに来ているでしょうか、それとも、十分に余裕がある中で、付け足しのような形で、一応イエス様の言葉も聞いておこう、という程度で、来ているに過ぎないのでしょうか。
このように、イエス様の周りに群衆が押し寄せてきたとき、イエス様の近くには、二そうの舟がありました。このように、イエス様の周りには、イエス様のご用のために、必要なものが備えられているのです。
では、それが実際にどのように用いられたのか、3節で確認してみましょう。何とイエス様は、二そうの舟のうち、シモン、すなわちペトロの持ち舟に乗り、そこから群衆に教え始められたのです。あまりに人が押し寄せてきたので、湖面に出るしかない、ということだったのかもしれません。
それはそうと、舟とは何でしょうか。そんなこと、尋ねるまでもなく、それで魚を捕る漁をするとか、人を運ぶとか、そういったことが答えであるはずです。しかし、イエス様はそのような常識を超えておられました。イエス様は舟を、ご自分が教えをなさる場所として、お用いになったのです。
「腰を下ろして」教え始められた、とありますが、この姿勢は、ユダヤ教の教師が会堂などで教えるときの正式な姿勢です。イエス様は、たとえ舟の中でも、その習慣にのっとり、正式な姿勢で、お教えになりました。
また、イエス様が舟から群衆に教えられたことは、イエス様がどこであっても、私たちの日常のただ中で語ってくださる、ということの表れでもあります。舟とは、漁師であったペトロたちには、まさに彼らの生活の現場でした。そのようなところを、イエス様は大事にしてくださるのです。そして、そこで神様の言葉を語ってくださる。これは、少し前の個所と併せて考えれば、神の国の福音のことである、と言ってもいいでしょう。イエス様はどこででも、私たちの日常生活の中で、喜ばしい神の国の福音、良い知らせを語ってくださるのです。
ここでは、具体的にどんなことを語られたかは、はっきり書かれていません。わかっているのは、それが神の言葉であり、神の国の福音である、ということだけです。しかし、イエス様がペトロに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と促した、励ました、というところから考えると、何かしら、一歩踏み出そう、といったような前向きなメッセージを語られたのかもしれません。
ペトロたちのしていた漁は、地引網のような漁ではなく、投網による漁だったと思われるため、そもそもそれほど沖合にまで出て行うようなものではありませんでした。それなのに、イエス様は「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と促します。舟を借りたお礼に、魚でも取らせてあげよう、というのでしょうか。しかし、時間はもう朝で、魚がとれるような時間でもありません。
ペトロは正直に言います。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。「先生」と呼びかけていますから、イエス様に対してある程度の尊敬の心は持っていたようです。ただ、「夜通し苦労したが、何もとれなかった」というのは、動かしがたい現実でした。今更何を、と思っても、おかしくない状況だったのです。
ここでペトロは、自らの体験した現実を取るか、イエス様のお言葉を取るか、という岐路に立たされました。このようなとき、経験者の言葉は重みを持ちますが、目の前におられるイエス様が、漁師をしていた様子はない。その点では、今は自分の方がスペシャリストである。そのようなとき、自らの経験の方を捨て、素直にイエス様の言葉を聞くことは難しかったことでしょう。しかし、その時、彼はイエス様のお言葉の方を取りました。そして、網が破れそうになるほどの大漁という奇跡を目の当たりにします。
ここでのイエス様の、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というお言葉は、私たちにとって大きな励ましです。今まであまりに多くの人々が、このお言葉によって励まされてきたため、それは賛美の歌にもなりました。先ほど皆さんで賛美した、聖歌597(635)番がそれです。まさに聖歌らしい曲で、歌っていて胸躍るような、内側から喜びが湧き上がってくるような賛美です。
私たちは、つい「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言いがちです。イエス様を伝えようとして、一生懸命伝道しました。でも、何の結果も出ませんでした。いくら誘っても人は教会に来ません。むしろ、教会に来る人々は減っています。そのように、私たちは自分たちがどんなに苦労しているかということについて、愚痴を言ってしまいます。しかし、イエス様はそれでも、「沖に漕ぎ出してみなさい」と私たちに呼びかけてくださいます。
私たちが勇気をもって一歩踏み出し、まさに「沖に漕ぎ出だす」時、そして、思い切って網を降ろすとき、イエス様は奇跡を起こしてくださるのです。
その奇跡は、もう魚のとれないと思われる朝に起こりました。魚がとれるはずの夜は、夜通し苦労しても魚がとれなかった。そのように、もう何も期待できないとき、網が破れそうになるほどの大漁になったのです。
6節に、「漁師たちがそのとおりにすると」とありますが、思い切って沖に漕ぎ出し、網を降ろしたのは、イエス様のお言葉に従順に従ったことの表れでした。私たちも、イエス様のお言葉に従順でありたいと思います。もう一歩踏み出すように、と招かれるとき、素直にその一歩を踏み出せるように、と願うものです。
この時、あまりの大漁に、「もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ」とあります(7節)。これで、二そうの舟が魚でいっぱいになったわけですが、これによって、なぜイエス様のお近くに舟が二そうあったかがわかってきます。確かに、イエス様がその中からお教えになられるだけなら一そうで十分だったわけですが、なぜ二そうあったのか。それは、この時のためだったのです。そこに二そう舟があったからこそ、この思わぬ大漁の時に、魚をもれなく入れることができたのです。神様の備えは完璧で、無駄なことは一つもないことがわかります。
また、人が奇跡に触れるときに、喜びだけでなく、恐れも生じる、ということを、この箇所は如実に物語っています。イエス様の言葉に従順に、思い切って沖に漕ぎ出だし、網を降ろしてみたら、思わぬ大漁だった。そこには躍動し、高揚する心もあったはずです。しかし、同時にそれはペトロに、恐れを生じさせました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)と思わず言っています。それは、「とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたから」(9節)でもありました。
この「わたしは罪深い者なのです」というペテロの発言から、イエス様は舟の中で、群衆に罪についても語っていたとも考えられます。しかし、ペトロはそれを他人事のように聞き、自分には関係ない、と思っていたのでしょう。ところが、「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」などと言って、イエス様に期待せず、一瞬でも、漁にかけては私の方が専門家だ、などと思ってしまったことが、自分の中でどんどんクローズアップされ、悔やまれてならない気持ちになっていった。それが高じて、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という言葉につながったのではないでしょうか。これは言ってみれば、ペトロが自分の罪深さに気づいた瞬間でした。それとともに、イエス様を「先生」と呼んでいた自分から、「主よ」と呼びかける自分へと、大きく変えられた時でもあったのです。
しかし、ペトロの中の恐れを知って、イエス様は「恐れることはない」(10節)と慰めてくださいます。イエス様は、自らの罪の深さを知って恐れる魂を、慰めてくださる方なのです。
それだけでなく、イエス様は、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(同節)という驚くべき発言をなさいます。まさにこのイエス様のお言葉こそが、本日の福音書の箇所のクライマックスとも言えるでしょう。このお言葉の意味は、あなたが今まで漁師をして、魚をとってきたように、今度は人間をとるようになる、ということでしょうが、もちろんたとえの表現です。これからは、人々をイエス様のもとに導く存在となる、という意味です。
そのお言葉を受けて、「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(11節)と言われています。すべてを捨てるとは、まさに身をささげるような、捨て身の信仰で、そのように生きるとは、献身の道を進むこと、とも言えましょう。そのように、ペトロとその仲間たちは献身の道に進むことになりました。しかしそれは、誰に命じられたわけでも、強いられたわけでもありませんでした。そのことを理解するのが、本日とても大事です。イエス様がおっしゃった「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とは、イエス様がペトロをそのような存在にする、という約束であり、ペトロをそのような存在にしたい、というイエス様のお気持ちの表明でもありました。だから、ペトロだけでなく、その仲間もすべてを捨ててイエス様に従ったのは、そう命じられたからではなく、自分たちを人間をとる漁師にしてくださる、というイエス様のお申し出に対する感謝からだったのです。すなわち、強いられてではなく、まったく自発的に、彼らはすべてを捨てたのでした。
献身の道と言えど、それが強いられてのものであれば、長続きはしません。この時、強いられたのではない、何かがあったのです。それは、イエス様の言葉の中にありました。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」というイエス様のお言葉の中に、「私はいてもいなくても同じような存在なのではなく、確かにイエス様は私のことを認めておられ、求めておられるのだ」ということを読み取ったペトロ。それはペトロの存在をすっかり変えてしまうのに十分でした。生まれたままのペトロではなく、イエス様に必要とされているペトロ、そして、イエス様の働きのために用いられていくペトロへと、彼は変えられていったのです。そして、その結果として、ごく自然に、彼はすべてを捨て、献身の道へと入っていったのです。いやむしろ、イエス様が彼を、献身の道に入れてくださった、と言った方がふさわしいでしょう。
私たちの耳にも、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」というイエス様の約束のお言葉が聞こえるかのようです。しかし、かと言って、私たちは皆が皆、ペトロたちのように、「すべてを捨ててイエスに従った」という反応ができるわけではありません。時代も、状況も異なります。しかし、たとえ私たちがすべてを捨てられなかったとしても、それでも愛してくださるイエス様に、これからも従っていきたいものです。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。尊いそのお名前を賛美いたします。この御言葉の時をありがとうございます。御子イエス様は、神の言葉、すなわち神の国の福音を告げ広めてくださいました。そして、私たちを励ましてくださり、沖に漕ぎいでよ、と招いてくださっています。それに常に答えることができない私たちではありますが、それでもなお、あなたの愛が変わらないことを確信しています。どうか、これからも従っていきたいと思っておりますので、あなたが手を引いて、私たちを導いてください。さまざまな困難を抱えている人々には、あなたの力強い助けの御手が差し伸べられますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・先週礼拝後は教会総会でした。議事録を配布しております。

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