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2025年2月2日 顕現後第四主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2月2日
  • 読了時間: 13分

 

聖書交読 詩編71編1~6節(旧約p904)

司)1:主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく

会)2:恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。

司)3:常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。

会)4:わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から/悪事を働く者、不法を働く者の手から/わたしを逃れさせてください。

司)5:主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み

全)6:母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。


聖書朗読 エフェソ2章7~9節(新約p353)

7:こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。

8:事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

9:行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。


説教 「恵みにより、信仰によって」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日は午後に教会総会がありますので、礼拝において今年のみことばについて、しっかりと確認しておきたいと思います。週報にありますように、今年のみことばはエフェソの信徒への手紙2章8節より、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」の部分を選んでおります。8節冒頭の「事実」ということばは割愛しております。本日はせっかくですから、その前後の節も取り上げ、2章の7節から9節を見ていきたいと思います。


パウロはその手紙において、まずは前半で教理、教えについて書き、後半でそれを生かした実践について述べる、ということが多々あります。この手紙もその通りで、3章までが教えの部分、それ以降が具体的な勧めになっております。その意味では、今年のみことばは、教えの部分に属していることがわかります。また、特に2章は救いの教えについて述べています。本日の箇所も、救いのことを伝えている大事な部分です。


7節においては、まず、父なる神様が御子であるキリスト・イエスにおいて慈しみをお示しになった、と言われています。父なる神様はそのままで、直接人間に、ご自分の慈しみを示すことだってできたはずです。しかし、そうはなさらず、人間の姿で私たちの間に来てくださったイエス様において、ご自分の慈しみを示されました。キリスト・イエスと言われているのは、キリスト、すなわち救い主であるイエス様、ということを明確にしたかったからでしょう。神がおられるというなら見せてみよ、とつい言ってしまうような人間に対して、まさにそれに答えるかのように、イエス様は人間の姿でこの世に来られて、神様の愛を存分に表してくださいました。ここで言われている「慈しみ」は、神様の良いご性質すべて、またそのご親切すべてを表します。人間の姿であれば、その慈しみが同じ人間に伝わりやすい、と思われたからでしょう。


この神様は、「限りなく豊かな恵み」を持っておられる方です。これは、「超えている恵み」ということで、限界を超えている、あるいは私たちの想像を超えている、ということだと考えることができます。私たちの想像をはるかに超えている恵みとは、私たちを罪の中から救う恵みのことです。こればかりは、ここまで罪が重かったら、誰も救われないのではないか、と勝手に想像してしまうことをはるかに超えています。そのような救いの恵みを、「来るべき世に現そうとされた」とあるのは、ある時代に限定するのではなく、どの世代にも、永遠に至るまで明らかにし続ける、ということを表しています。すなわち、この素晴らしい恵みが閉ざされる時代はない、ということです。いつでも、いつまでも、永遠に至るまで、この人間の想像をはるかに超えた救いの恵みは明らかにされたままなのです。


その救いの恵みがどれほど確かなものか、それは8節冒頭の「事実」ということばでよくわかります。ただ、他の訳を見ますと、このように冒頭に「事実」と訳語を入れている訳は見当たりません。新共同訳よりも新しい日本聖書協会の聖書協会共同訳では、この「事実」ということばは省かれています。


続いて、8節には「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とあります。「恵み」と「信仰」による救い、と言い換えたくなるのですが、ここで使われている「より」と「よって」は同じ意味なのでしょうか。別の訳で読むと、この部分は「恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです」となっています(新改訳2017)。直訳しますと、「恵みのために、あなたがたは信仰を通して救われた」とすることもできます。確かに、先ほどご紹介した新しい翻訳、2018年の聖書協会共同訳では、「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです」と訳されています。新共同訳で「より」「よって」と訳されている言葉は、日本語では似ていますが、元の言葉ではそれぞれ違う単語が使われているのです。


まず、「より」や「ゆえに」、また「ために」と訳される単語は、基本的に原因や理由を述べるための導入として用いられます。恵みが原因、また理由となって、私たちは救われた、ということです。また、「よって」「通して」と訳される単語は、「ある場所を通って」、というように、場所のことも表しつつ、仲立ちとなるものや手段をも表します。信仰を仲立ちとして、あるいは信仰がひとつの手段となって、救われる、ということです。あるいは、これは「管」をイメージすれば、わかりやすいかもしれません。「恵み」は定冠詞がついていて限定されているので、キリストの十字架による恵みです。それを原因、また理由として、またその救いの恵みが私たちの方に流れてくるために、信仰が管となって、信仰を通して、私たちに救いが届く、というイメージです。そのような確かな救いが与えられていることに、改めて感謝します。


このイメージをもっと膨らませていくと、恵み深いキリストのもとにある救いが、信仰という管を通して私たちのところに来る、と言うこともできるでしょう。大げさに言えば、キリストと私たちをつなぐもの、それが信仰だ、ということです。


ここに述べられている「恵みによる救い」ですが、大事なことは、先ほど少し触れたように、恵みは漠然としたものではなく、英語で言うと”the”のような定冠詞で限定されている、ということです。その意味では、「大地の恵み」などといった漠然としたものではないということに注意しておきましょう。大胆に言うと、この恵みとはキリストだ、ぐらいの明確な理解を持っていても差し支えない、ということです。私たちは恵み深いキリストご自身によって救われている、ということです。


この「恵みによる救い」に関しては、すでに2章5節において、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と明言されています。そのことばのエコーが8節にも響いている、と言うこともできます。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」というみことばですが、こちらでは「恵み」に定冠詞はないものの、ここの「恵み」を「キリスト」に置き換えても、何の違和感もありません。「あなたがたの救われたのはキリストによるのです」。まさにその通りのことです。「恵みによる救い」ということを考えるときには、日本でも「恵み」ということばを使うからこそ、それと混同しないように気を付ける必要があります。何となくほんわかとした、大きなものに抱かれるようにしてそれで救われる、と言うのであれば、それは単に自然宗教に過ぎず、キリスト教会の信仰ではありません。私たちは、私たちに恵みを与えてくださるキリストによって救われるのだと、「恵み」の意味を明確にして、とらえるべきです。


また、細かい話になりますが、この「恵みによる救いの」の「よる」に関して、これは言い換えれば「恵みが土台の救い」、という理解もできるかと思います。そうすると、すでにここに、人間の力によらない救いが示されている、ということにもならないでしょうか。救いの土台は恵みにある。決して人間の力が土台なのではない、ということです。そのような救いを、信仰を接点として、いただくのです。


今度は、この「信仰によって」の部分について、少し考察してみましょう。今はドラマなどでもその内容について「考察する」というのがブームのようですから、そうであればなおのこと、私たちは私たちにとって命となるみことばについて、より積極的に考察していくことが必要でしょう。


「信仰によって」が、「信仰を通して」と訳されうる、ということを紹介しました。現に新しい聖書協会共同訳が、そのように訳していることは先にお話ししました。恵み、すなわちキリストが理由となる救いが、信仰を通して、信仰を接点として私たちのもとに来る。あたかもこれは、キリストに原因がある、すなわちキリストに起因する救いが、そのような接点なしでは私たちとは無関係で、自然に私たちのもとに流れてくるものではない、ということを示しているかのようです。


このことを理解しておくことは、実は非常に重要です。どこかで私たちは慣れっこになってしまって、私たち人間は当然のように救われるのだ、と思ってしまっていることがあるかもしれない。しかし、実はそうではない、ということです。人間の罪というのは、実は厄介で、そんな風に、自分たちはそのままで、何にもせずに救われてもおかしくない、などと夢想してしまうことこそが、人間の驕り高ぶりなのではないでしょうか。もしそんなだったらキリストの十字架など必要ないわけです。しかし、そうではなかった。現に、キリストの十字架が打ち立てられなければならなかったということは、そうでもしない限り人間の罪は赦されなかった、ということを、如実に物語っているわけです。人間はもともと、救いに親和性などないのです。救いは私たちのものではなかった。ありえなかった。私たちは救いから程遠く、もちろんキリストからも程遠く、救いなど、望むべくもなかったのです。私たちと救いには、接点はなかったのです。


そのように、東が西から遠く離れているように、接点もなく私たちから遠く離れていた救いが、何と信仰という接点を得て、それが仲立ちとなって、私たちのもとに来るようになった。しかもうれしいことに、この信仰とは私たちのもともとの資質とか、そういったものではなく、あとから、神様によって与えられるものだ、というのです。これこそ、本日の良い知らせ、福音なのではないでしょうか。


また、「信仰によって」というのが「信仰を通して」であり、この「通して」が接点、仲立ちを示す、と言うとき、それはまた、「代理人」という意味にもなりえます。すなわち、信仰が接点、仲立ちになる、ということは、信仰が「代理人」となる、ということでもあるのです。


昨年は特にメジャーリーグで大谷選手が大きな話題となりました。そのような選手は、通常代理人がいて、その人が仲立ちになって、メジャーリーグの球団と交渉することになります。その代理人が、球団との接点となる、ということです。日本球団からメジャーリーグに最初に移籍した野茂英雄投手がアメリカで強烈なデビューを果たしてからちょうど30年になろうとしていますが、彼にもまた、団野村という代理人がいて、彼が接点となって、困難な移籍が実現したわけです。代理人の重要さがわかります。


恵み深いキリストに起因する、素晴らしい救いがあるのだけれども、残念ながら接点なしには、私たちにはそれがやってこない、ということがイメージできましたでしょうか。そのような状態に、信仰が代理人としてやってくるのです。そして、救いと私たちにつながりができるよう、橋渡しになってくれるのです。


しかも、すでにお話ししたとおり、信仰は神様から与えられる大きな大きなプレゼントです。私たちはありがたく、その信仰をいただき、即座にその信仰を代理人として立て、その仲立ちによって、キリストと太いパイプをいただいて、救いをいただくのです。その意味では、信仰とは、私たちが救いを受け取る手のようなものでしょう。私たちは信仰という手を差し伸べて、救いをいただくのです。


8節後半で、「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」と言われています。その意味では、救い自体が、神様の賜物、と言うことさえできるかと思います。「神の賜物」というのは、神様がご提供くださったもの、という意味でもあります。救いとは、神様ご自身がご用意なさり、ご提供くださったものなのです。


この救いに関しては、実はこの2章冒頭を読んでいれば、わかることになっています。私たちには罪があり、もともとは神様の怒りを受けるべき者だったのに、それでも神様は私たちをこの上もなく愛してくださったので、罪に死んでいた私たちをキリストと共に生かし、そればかりか復活させてくださり、天における永遠の命を与えてくださった、というのが、救いのもう一つの意味です。それらは神様がご用意なさり、私たちにご提供くださったものでした。


ここに描かれているのは、神様の怒りを受けるのでは、と恐れていた魂が、実はその神様に愛されていることを知る、ということであり、また同時に、罪に死んでいて、どんよりとした、命を失ったような、希望のない生き方をしていた者が、生かされている喜びを知り、まさに希望ある人生へと復活していく、ということでもあります。救いを、このようにストーリー性のあるものとしてとらえることも可能ですし、大事なことです。自分のしてきたことの結果におびえ、それが何か悪い運命につながるのでは、と戦々恐々としてきた魂が、大いなる愛に包まれて、不安が取り去られ、いやされていく。また、生きる目的を失い、明日への希望もなく生きてきた者が、生きる希望を見出していく。すべてそれらが恵み深いキリストとの出会いをきっかけに体験されるものであれば、それは救い、と呼べるものです。そのような救いを、私たちは何らかの形で、経験してきたのです。


最後の9節は、なぜ救いが行いによるのではないのか、という説明となっています。また同時にそれは、8節後半のみことばの語る内容の増幅でもあります。「このことは、自分の力によるのではなく」と言われていました。それをさらに明らかにするために、あえて「行いによるのではありません」と言われているのでもあるのです。


なぜ救いが行いによるのではないのか。それに対する回答は、「だれも誇ることがないため」と告げられています。すなわち、行いによる救いでは、皆の誇りが乱立し、収拾がつかなくなる、という意味でもあるのです。ここでは、救いの集団性が示唆されています。一人しかいないのに、「だれも誇ることがないため」と言うのもおかしな話です。私たちは共に救われ、共に信仰生活を送る。ひとりで信仰生活を送るのではないのです。共に信じる仲間に支えられて、共に生きるのです。私たちは共に信じる群れなのです。私たちが「フェローシップ・ディコンリ―」と言っている、その「フェローシップ」は「交わり」という意味とともに、信じる者の群れを指示しています。私たちはその群れの中で、共に救いの恵みをいただき、生きていくのです。


お祈りしましょう。

天の父なる神様。あなたの大いなる御名を賛美します。私たちのために救い主イエス様を与えてくださり、感謝します。恵みにより、信仰を通して、私たちを救い出してくださり、感謝します。それはまた、恵み深いイエス様ご自身による救いであり、あなたが与えてくださった信仰を仲立ちとして、私たちのもとに来た救いです。この救いを共にいただき、喜び、これからも信仰の歩みを続けていくことができますように。この御影ルーテル教会をこれからも祝福してくださり、午後の教会総会において、あなたの御業をあがめ、共に感謝することができますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


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・本日礼拝後は教会総会です。ご出席ください。


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