聖書交読 詩編37編1~6節(旧約p868)
司) 37:1 【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。
会) 37:2 彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。
司) 37:3 主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
会) 37:4 主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
司) 37:5 あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい
全) 37:6 あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。
聖書朗読 ルカ6章27~36節(新約p113)
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
説教 「神様が求めておられること」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
私がまだ神学生だった頃、ある教会で、長く求道しておられる方に牧師先生が「そろそろ洗礼を」とお尋ねになるところに居合わせることがありました。答えは「敵を愛するということができないので、まだ洗礼は考えられません」ということでした。今日開いている福音書の箇所の中心が、まさに「敵を愛しなさい」という教えです。今朝は、こんなことは人間にはできないとか、できない私は悪い、神様に愛されていないとか、そういった前提をひとまず置いて、虚心坦懐、このみことばを聞いてみましょう。ちなみに、マタイ5章43~48節に同様の教えが、山上の説教の一部として記されています。
本日開いているルカの方は、先週から続く、イエス様の平地の説教の一部です。それにしても、イエス様の「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とは、たいへんインパクトのある教えです。そんなの無理、という反応になってもおかしくはありません。マタイによる福音書では、「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」(5章43節)と、ユダヤ人たちがそれまで伝え聞いてきた教えを引き合いに出したうえで、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられています。
ルカの方に戻っていただいて、そもそも敵とは誰か、ということになるのですが、ここでは
「敵」が「あなたを憎む者」と言い換えられています。先週の玲子牧師の説教にもありましたように、聖書では様々な言い換え表現がなされていますから、ある言葉がわからなくても、それが言い換えられている言葉から、イエス様が何を伝えようとしておられるか、わかる場合があります。「敵」とだけ言われれば、誰のことかわかりにくいですが、「あなたを憎む者」と言われれば、わかるような気がします。また、「敵」と言われただけでは、「そんな、私の周りに敵などいない」と言いたくなりますが、「あなたを憎む者」と言い換えられると、「そう言われると、いるような気もする」という気になるものです。
もう一つ、「愛しなさい」というのもまた漠然としていて、何をどうしたものか、と思うものです。しかし、それにも言い換えがなされています。「あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われている中で、「親切にしなさい」が、「愛しなさい」の言い換えです。この方が、断然わかりやすいですね。新改訳は、「善を行いなさい」と訳しています。多くの英訳も、同じような翻訳です。口語訳、また新共同訳の「親切にしなさい」は「善を行いなさい」の内容を解釈して伝えているもの、と言うこともできるでしょう。
私のことを憎んでいるような人に、親切にすることなどできるのか。これは実際大きな問題です。でも、そもそも人はなぜ誰かに憎しみを持つのか。プロテスタントの作家、三浦綾子は、その著書『この土の器をも』の中で、「それは案外、たわいもない誤解からではなかったろうか」と問いかけています。
私たちの教会では、月一回、第四週の礼拝後に、三浦綾子読書会を開いております。本日も開催されます。何か月か前に読んだところに、三浦綾子さんのこんな推論が載っていました。自分の息子の奥さん、お嫁さんのことですが、彼女をえらく憎む老人のエピソードにまつわる考察です。少し読んでみます。
「彼女(お嫁さん)が、台所でポンプをぎこぎこ押している時に、『腹が減った』と老人が言ったとする。だが彼女にはポンプの音で聞こえない。老人はもう一度大声で言う。それもあいにくと聞こえなかった。そして食事時となった。今度は彼女が老人を食事に呼ぶ。老人は、むっつりと返事もしない。食事の間中、不機嫌にむくれている。彼女には理由がわからない。何をいったい舅は怒っているのだろう。わからないままに、あれこれ思いめぐらす。料理が気に入らないのだろうか。舅の不機嫌が、彼女をも不機嫌にまきこむ。これに似たつまらぬ誤解が、二、三度重なると、容易に憎しみに変り、お互いの心の中にしこりとなって残る。そのようなことも想像できるような気がする。」(『この土の器をも』、37ページ)
非常に平易な文章で、人間が憎しみあうきっかけについて、推察しています。このようなことは、実際にしばしば起こることなのではないでしょうか。そう思えば、「どうしても許せない」などという憎しみなどほんの少しで、あとは誤解が積み重なっただけ、だからそれが解きほぐされれば、相手に親切にすることは、それほど難しいことではないのかもしれません。
これでは少し、現実を甘く見ているでしょうか。それであっても、イエス様の言葉は、ある種理想にも似た、善を行うことへの勧めで満ちています。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(28節)。27節で「敵」と言われていた存在が、さらにここで、「悪口を言う者」「侮辱する者」と言い換えられていることが、容易にわかります。そして、そのような人々に対して親切にするということは、「祝福を祈る」、また「祈る」ことだ、と言い換えられています。そんな甘いことを言っているからつけあがるとか、そういったことを抜きに、ただひたすらイエス様は、善を行うことを勧めるのです。
29節に至ると、倫理的なことを超え、犯罪と目されるようなことを行うような者さえ、愛するように言われているようにも聞こえてきます。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」。ここで、「敵」と言われていた存在がさらに拡大され、「あなたの頬を打つ者」「上着を奪い取る者」と言い換えられていることは、あえて言うまでもないでしょう。もうここまでくると、犯罪行為とも言えます。黙っていていいのでしょうか。このような者たちに対してすべき親切な行為とは、「もう一方の頬を向ける」「下着をも拒まない」ということになるのですが、もうここまでくると、理解が追い付かないと言いますか、本当にできるのだろうか、いや、そのようにしていいのだろうか、と思ってしまいます。
イエス様の当時、頬を打つのはたいへんな侮辱行為でした。また、上着は貧者にとっては寝具の代わりにもなったので、それを奪うのは小さな行為とは言えなかったのです。そのようなことをする相手に対し、いくら愛するから、親切にするからと言って、もう一方の頬を向ける、下着をも拒まない、ということでいいのか。それでは、犯罪行為とも言えることを黙認し、相手を助長することだから、相手のためによくない、と私たちは判断しかねません。
するともはや、敵を愛することとは無関係とも思われる、「求める者には、だれにでも与えなさい」という教えにまで行きつきます。「求める者」は「あなたの持ち物を奪う者」とすぐに言い換えられます。そして、与えるのであって、取り返そうとしてはならない、とまで言われるのです。
そのような教えを経て、ついに31節、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という教えにたどり着くと、結局イエス様は、これを言いたかったのだ、ということが理解できるようになります。それまで、やや無理のある教えがあったとしても、すべてはこのことが言いたかったから、ということです。いわゆる「黄金律」と言われる教えです。ちなみにマタイの方では、この教えは7章12節で、「求めなさい」という文脈の中で現れます。しかも、「これこそ律法と預言者である」と、これが旧約の精神である、と教えられています。それほど重要な教えを効果的に伝えるために、この黄金律に至る布石として、イエス様はそれまで、あえて難しいと思われるような教えを口にされた、ということです。
この黄金律はまた、神様が私たちに求めておられることでもあります。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。これこそ、神様が今日、私たちに求めておられることなのです。
類似した教えは、皆さんもご存じのことでしょう。孔子は、「自分が望まないことは他人にしてはならない」と言いました。確かによく似てはいます。しかし、孔子が言ったのは、否定的な教えでした。「自分が望まないこと」、それを他人に「してはならない」、と否定的に教えたのです。実はそのほかの宗教にも同じような教えがあり、例えばヒンズー教であれば、「自分がされて痛みを覚えることを他人にしてはならない」で、ゾロアスター教は「自分に害であることは他人に対して行ってはならない」と言われるそうです。いずれも否定的、「してはならない」「行ってはならない」という教えです。
それに対して、イエス様がお教えになる黄金律は、全く反対です。「人にもしなさい」。何をするのですか。「人にしてもらいたいと思うこと」です。何と思いやりに満ちた教えでしょう。このようなことを求めておられる神様もまた、思いやりの深い、親切な方だと思います。ありがたいことです。
続く32節からは、先週の説教で語られたことと同じで、対比で真理を明らかにする部分です。先ほどまでが、愛敵の教えでした。今度はそのような無理難題に見える教えと、私たちが日常で行っていることを対比させ、真理を明らかにしようとします。敵を愛する話から、自分を愛してくれる人を愛する話へ話題を変えますが、この対比によって、大事なことを浮き彫りにしようとするわけです。まず32節では、「罪人でも、愛してくれる人を愛している」と具体例を出して、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたに恵みはない」と教えられています。
33,34節も同じです。「自分を愛してくれる人」を、「自分によくしてくれる人」と言い換える。そして、そのような人によいことをすることを、「返してもらうことを当てにして貸す」と言い換えています。いずれも罪人を引き合いに出し、「彼らとて同じことをしている」と述べます。このような語り方をすることによって、敵を愛することの方が尊い、ということを際立たせようとしているわけです。
そして、35節冒頭の「しかし」によって、この部分の総括となり、改めて「あなたがたは敵を愛しなさい」と念を押されています。そしてこれがまた、神様が求めておられることであることが明らかにされます。できるかできないかはさておいて、先ほどの黄金律、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とともに、「敵を愛しなさい」との教えを守ることが、祝福につながるのです。旧約聖書の神学を受け継ぎ、神様の求めておられることを守ることが、祝福となる、という教えです。その祝福は、具体的に「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」と言われています。
ここで言われている祝福の「いと高き方の子となる」というのは、いと高き神様の子となる、ということです。「子となる」というのは、「年齢に関係なく神の家族の一員となる」ということを意味しています。老いも若きも皆、神の家族に迎え入れられる。どこかに属している、という帰属意識は人間にとって非常に重要ですが、私たちは神の家族に属している、ということです。これは安心感をもたらします。私たちは孤独ではないのです。全世界規模の、大きな神の家族の一員として、私たちは迎え入れられており、その大きな交わりの中にくつろぐのです。
ただし、ここで気を付けておきたいことは、「敵を愛したら、救われる」ということが言われているわけではない、ということです。これは、重大な教えであるために、余計誤解されがちなので、よく気を付けなければなりません。敵を愛しなさいというイエス様の教えを守ることができたら救われる、ということでは行いによる救いになってしまいますし、敵を愛することによる喜びなど、なくなってしまいます。そもそも神様が求めておられることは、私たちが喜びに満ち溢れることです。無理難題を押し付けられていやいや従うようなことを、神様が求めておられるはずがありません。神様がイエス様を通して人間に「敵を愛しなさい」とおっしゃるとき、それを守ることを通して人間に喜びを感じてほしい、という思いが根底にあるのです。だから、神様の求めておられることは、敵を愛することの喜びを知ってほしい、それを感じてほしい、ということなのです。それなのに、敵を愛さなかったら救われない、などということがあるでしょうか。
確認すると、私たちの救いは、恵みにより、信仰によって与えられる救いです。週報にもある、今年のみことば、エフェソ2章8節にそれは明示されています。敵を愛したから合格点に達して、それで救われる、だからそれに達しなかったら救われない、ということではないのです。
ここでは、「救われた私たちが、いと高き神様に似た姿へと変えられていく恵み」について述べられていると考えてみましょう。本来なら、「敵を愛しなさい」と言われたら、自分の中に敵を愛することができるような何ものもないことに気づかされるのです。それでがっかりして、自分はその程度の人間だったのか、と落ち込んでも仕方がないところ、それなのに、イエス様の十字架によって救われるときに、神様に似る者へと変えられる恵みが与えられる。その恵みに気づき、喜びたいものです。「敵を愛しなさい」という迫りよりも、「救いをいただいて、敵を愛することができる私に変えられる」という希望の方を、いただきたいものです。
最後もまた、イエス様を通して語られる、神様の求めておられることです。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。これも、決して無理難題を押し付けようとしておられるのではありません。むしろここでは、イエス様によって、その救いを通して、私たちは父なる神様のように、憐れみ深い者になる道が開かれている、そのようになる可能性が開かれた、ということを喜ぶのです。
このように、「敵を愛しなさい」という教えから、神様が私たちを、敵を愛せる存在へと変えてくださる、というところまでお話してきました。最後に改めて、今日この御言葉を通して、神様が何を求めておられるのか、と言うことについて、思いを巡らしたいと思います。
今日のイエス様の教え、「敵を愛しなさい」は、要するに他者に関心を持つということを表しているのではないでしょうか。考えてみれば、愛するにも、また逆に憎むにも、相手に関心を持つ、ということが必要です。翻って、現代の社会を見渡すと、他者に関心を持たない時代になりつつあるようにも思えます。あまり他者に関心を持つとトラブルに巻き込まれるので、浅く広く付き合おう、という風潮が広がりつつあるのではないでしょうか。日本の宗教哲学者、波多野精一は、絶対他者に出会わない限り、本当に他者に出会うことにはならない、といったようなことを述べました。ここで絶対他者とは、神様のことを指しています。ということは、絶対他者を知らない人が大半の社会では、真実に他者に出会ってない、ということにもなります。自分を投影した、自分の延長のようなイメージの他人が周りにいるだけなので、自分の好みばかり押し付けたり、わがままを通したり、ということが起こってくるのです。コロナ以降の関わりの薄さと相まって、他者不在の社会では、本気で愛することも、本気で憎むこともなくなりつつあるのかもしれません。
そのような世界だからこそ、お互いに関心を持つのです。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という黄金律も、相手があってのことです。一人の中で完結していないのです。その意味では、他者に関心を持つこと、これが、神が求めておられることとも言えるでしょう。他者に関心を持つことのヒントは、本日の御言葉の中に、「祈る」ということで示されていました。他者のために祈り、大いに関心を持ち、それが他者への愛に向かって行くような、そんな今週一週間であったら、と願います。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。この御言葉の時をありがとうございます。いつも私たちを愛していてくださるので、御言葉を通して、尊い教えをありがとうございます。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と言う教えはともかく、「敵を愛しなさい」と言われると「それは無理」との反応をしがちですが、イエス様によって救われた私たちを、そのようなことができる私たちへと変えてくださるあなたの恵みにより頼み、深く感謝します。この、つながりが希薄になりつつある世の中で、私たちが周りにいる人々に常に関心を持ちながら、歩むことができますように。ひいてはそれが、その方々を愛することにつながりますように。今困難の中を、生きづらさを感じながら過ごしている方には、あなたの御手による助けがありますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・先週は玲子牧師の説教でした。橘内師は三田フェローシップキリスト教会でのご奉仕でした。本日午後は、三浦綾子読書会があります。来週は礼拝後昼食会があり、フェローシップMLCがあります。その後役員会となります。

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