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2025年1月5日 顕現主日礼拝

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 1月5日
  • 読了時間: 13分

聖書交読 エレミヤ31章7~14節(旧約p1234)

司)31:7 主はこう言われる。ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。「主よ、あなたの民をお救いください/イスラエルの残りの者を。」

会) 31:8 見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し/地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も/身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。

司) 31:9 彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き/流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となり/エフライムはわたしの長子となる。

会) 31:10 諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした方は彼を集め/羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」

司) 31:11 主はヤコブを解き放ち/彼にまさって強い者の手から贖われる。

会) 31:12 彼らは喜び歌いながらシオンの丘に来て/主の恵みに向かって流れをなして来る。彼らは穀物、酒、オリーブ油/羊、牛を受け/その魂は潤う園のようになり/再び衰えることはない。

司) 31:13 そのとき、おとめは喜び祝って踊り/若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え/彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。

全) 31:14 祭司の命を髄をもって潤し/わたしの民を良い物で飽かせると/主は言われる。


聖書朗読 マタイ2章1~12節(新約p2)

 2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

 2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

 2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

 2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

 2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

 2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

 2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

 2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


説教 「大事なささげもの」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


主の新年、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。お正月のご挨拶をしましたが、実際まだ教会はクリスマスシーズンを過ごしています。明日は主の顕現日(エピファニー)で、本日は顕現主日です。救い主イエス様がご自身の姿を世に現わされたことをお祝いしますが、むしろそれは、ご自分からは何もできない幼子イエス様のもとに人が集まり、その方を礼拝した出来事でした。


ですので、そのためには、身を低くすることが求められました。その場に集まったのは、東の方からエルサレムにやって来た、占星術の学者たちでした。彼らのことばから、最初から彼らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を「拝みに来た」、ということがわかります。この「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を、私たちは全世界の救い主として信じています。彼らは自分たちが拝む対象が、恐らく年少者、あるいは幼子であることは予測していたことでしょう。しかし、だからと言って、占星術の学者として、故国の天文学を一手に担う者として、かなりの地位にあったと思われる彼らが、身を低くして幼子を拝むことは、簡単なことではなかったでしょう。彼らはむしろ、頭を下げることよりも、頭を下げられることの方に慣れていたと思うのです。


それにしても私たちは、なぜ聖書が「東の方から」としか記していないのか、結局この学者たちはどこから来たのか、知りたいと思うものです。単純に、この福音書を描いたマタイが、それを知らなかっただけなのか。それも、敢えて聖書はそれを語らないのか。永遠の謎とも言えるような問題ですが、人間は弱いものです。もしはっきりと地名が書いてあったら、人々はこぞって、そこに詣でたかもしれません。あたかもその場所自体が大事であったかのように。さあ、この場所こそが、あの偉大なる学者たちを輩出した土地です。みんなでここで、その徳にあやかりましょう。そんなことになっていたかもしれません。しかし、聖書はそれは違う、と私たちに語り掛けます。場所が大事なのではない。要するに、あの学者たちの信仰が大事だったのだ、ということです。神様は異邦人である学者たちにも、ユダヤ人の王、すなわちメシアを求める信仰をお与えになったのです。


このことはまた、拡大すると、主の新しい年2025年を生きる私たちにも大きなヒントになります。すなわち、信仰は場所とは関係ない、ということです。時に私たちは、私たちの信仰の流れのルーツにあるドイツに憧れるかもしれない。憧れは良いものですが、それが、ドイツだと信じやすくて、異郷の地日本では信仰は育たない、といった考え方に偏ってしまうと問題です。また、私たちの最も憧れる聖地。そこに行って、ぜひ信仰を増し加えていただきたいものだ、と願うなら、まず、私たちが置かれているこの場所で、主の祝福を存分にいただけることを体験すべきです。戦争のため訪れることができなくなっている聖地の平和回復のために祈ることは重要です。しかし、そこに行きさえすれば自動的に信仰が増し加えられるのだから、ぜひとも取り戻さなければならない、ということになると、遠い昔の過ちの二の舞になってしまいます。


大事なのは、場所ではなく、ひとり神様の前に出て神様に向き合う「私」という存在です。この私が祝福され、信仰が増し加えられ、身を低くして、救い主イエス様を心に迎え入れるのです。


さて、私たちは、このような立派な信仰者である学者たちが訪ねてきて、どうしてヘロデ王もエルサレムの人々も皆不安を抱いたのか、そのことに疑問を抱きます。恐らく故国ではかなりの地位にあったであろう彼らが、身を低くして、救い主を拝みに来たのです。その柔和な姿。もしかして、私たちが見たら、「いい人だ」と思えるような、魅力的な人たちだったかもしれません。人は、信仰深く、謙遜な人を、恐れるのでしょうか。また、恐れるとしたら、どのような時なのでしょうか。もちろん問題となったのは、彼ら自身というよりも、彼らの語った言葉でした。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。ヘロデ王に関しては、自分の座を奪うような、ユダヤ人の王が生まれたとあっては、自分の地位が危ぶまれる、ということでした。エルサレムの人々に関しては、自分の地位が危ないとわかって焦ったヘロデ王が何か困ったことをしないかどうか、そちらを心配したのかもしれません。


ヘロデ王はそれでも、偉大なる旅人をないがしろにするようなことはせず、「メシアはどこに生まれることになっているのか」と問いただしています。この「メシア」というのが、ご存じ救い主のことです。ここで、救い主であるメシアの到来を、「誕生による到来」とみなしていることに注目しておきたいと思います。ヘロデは、私たち同様、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」をメシアであると理解しました。さらに、「メシアはどこに生まれることになっているのか」と、メシアが「どこかで生まれる存在」であることを認識していました。それはただ、東方からの学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と、「生まれた」という言葉を使ったから、というだけではないと思います。メシアは、すでに成人した状態で、突如表舞台に姿を現す、ということもありえたわけです。もしそう思っていたとすれば、いくら遠方からの旅人が「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と言ったとしても、「いやいや、メシアは大人の姿で現れるのだ」と主張してもよかったわけです。このことから、ヘロデの時代、ユダヤ人ではない、イドマヤ人であっても、「メシアはどこかで生まれる」という信仰が広まっていたことがうかがわれます。


そこで、ヘロデからの質問を受けた民の祭司長たちや律法学者たちが拠り所としたのは、今でいう旧約聖書でした。その預言書の部分、今私たちがミカ書として知っている部分に、その答えがある、と言うのです。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』ミカ書の5章からの引用ですが、今日は出典となるミカ書の方の朗読は割愛します。その部分のかなり自由な引用である、と述べるにとどめたいと思います。いずれにせよ、ミカ書の御言葉から、「メシアが生まれるのはベツレヘムである」と、彼らは答えを得ていたのです。そして、彼らは確信をもって、「ユダヤのベツレヘムです」と言い切っています。相当自信があったことがうかがわれます。そしてその自信は、もちろん御言葉に土台があったのです。


これもまた、この新しい年を生きる私たちに一つのモデルとなるものです。彼らは、自分に土台を置くことなら、ここまで自信をもって言い切ることはできませんでした。しかし、御言葉に土台があることだったので、自信をもって、断言することができました。またそれは、かなり聖書に通じていることによるものでした。今年私たちは、何に親しむのでしょうか。そして、何に土台を置いて、生きるのでしょうか。それは、聖書の御言葉です。聖書の御言葉に親しみ、そしてそれに土台を置いて、信仰を告白し、生きていくのです。


神様の御心に沿わない行動は、ひそやかに行われます。それは、表立ってはできないのです。「ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた」(7節)。何か策略があるのです。「そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した」(8節)。ヘロデは単に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を亡き者にしようと、このように学者たちに接したのです。ここに、大いなる善意と、邪悪な心が出会いました。ヘロデのこの策略の前に、この善意は屈してしまうのでしょうか。


しかし、なおも旅を続けようとする学者たちを後押しするかのように、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」(9節)とあります。神様は、純粋な心で救い主にお出会いしようとする者の心を、ないがしろにはなさいません。この後の2000年近くの歴史の中で、どんなに善意が踏みにじられるような悲劇が起ころうと、この時ばかりは、神様は、当時幼子であった救い主を拝もうとする人々の思いが潰え去るようなことをお許しになられませんでした。ここで私たちは、この学者たちが救い主を拝みに来たのはまさに神様の御心だった、ということを知ります。たとえどんなに私たちが、「占星術の学者」ということばに違和感を覚えたとしても、彼らがやって来るのは御心だったのです。そして、ヘロデの野望が打ち砕かれることもまた、御心だったのです。


繰り返しになりますが、故国ではむしろ頭を下げられ、仕えられる存在であったであろう学者たちが、長旅のために疲れていたのにもかかわらず、謙虚に幼子の前にひれ伏しました。そして、大事なささげものをささげたのです。それはおおよそ、幼子の前に差し出されるようなものではありませんでした。「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(11節)とありますが、ここに3種の贈り物が書かれているからといって、学者たちが3人だったと考える必要はありません。また、なぜこの3種なのか、ということに関しては、いろいろな説がありますが、「宝の箱」とありますから、とにかくこの当時の最高の宝を携えてきた、ということでありましょう。ヘロデの前にさえ、こんな宝は差し出さなかったかもしれません。ましてや、年端もいかぬ子どもの前に差し出すなど、考えられもしなかったことでしょう。しかし、それだけ高価なものをささげてしまっても惜しくないと、彼らは思った。そう思わせるだけのものを、幼子イエス様は持っていたのです。私たちも同じように、イエス様の前に謙虚にひれ伏し、今年も精一杯、ささげものをしていくのです。なぜなら、この方が、私たちのために、尊い救いを成し遂げてくださったからです。私たちは強いられてではなく、自らの受けた救いに対する感謝をもって、喜んで、おささげしていきます。それは、この時の学者たちの思いと、かなり共通する部分があるのではないでしょうか。


学者たちが、このささげものに関して、「惜しい」と思ったことは十分にあり得ます。すべてを投げ打って遠い旅に出た彼らにとって、どんなに苦しい旅をしても、それに対する報酬はありません。そんな時、「今ここに持っている宝箱から少し、いただいてもおかしくないのではないか。十分にそれに見合う働きをしている」と思ったことがないとは言えないでしょう。また、「これだけのものがあったら、帰り道、どんなに楽なことか」と思わなくもなかったと思います。しかし、そのような、本来なら惜しいと思うような贈り物を、惜しげもなくささげたところに、大きな意味があったのです。私たちも今年一年、矛盾した言い方かもしれませんが、惜しい、と思うぐらいのささげものを、それでも惜しむことなく、ささげたいものです。しかも、喜びに押し出されて、です。


最後に、少しトーンの変わった一節が現れます。「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)という御言葉です。ここでは、学者たちを導いたのは星ではありません。夢の中のお告げです。しかも、それが神様から直接のものなのか、はたまた天使からのものなのか、はっきりは書いてありません。しかし、かれらはそれを大事に受け止めて、別の道を通って、自分たちの国に帰っていきました。それは決して、簡単なことではなかったでしょう。来るのも難しかったし、帰るのも難しかった。結局、彼らに楽なことは何もありませんでした。しかも、プライドを捨てて幼子の前でひれ伏して、そればかりかたいへん高価なささげものまでしていく。彼らにとって、この長旅にメリットはあったのだろうか。そのようにも考えます。しかし、楽でなかったとしても、メリットがなかったとしても、彼らは救い主に出会った、ということに喜びを見出しました。私たちも同じです。今年一年、楽なことばかりではないかもしれない。学者たちが別の道を帰っていったのが冒険であったように、私たちのこの一年にもリスクのある冒険が待っているかもしれない。しかし、私たちはこの年、救い主にお出会いすることに喜びを見出し、それによって生きていくのです。そして、この出会いに感謝し、すべてをささげていくのです。


お祈りしましょう。

天の父なる神様。

新しい年が与えられ、感謝をいたします。その最初の主日礼拝に導かれ、ありがとうございます。心新たにし、ますます主に仕えることができますように。救い主イエス様が世に姿を現してくださったことを喜び、この救い主にお出会いできた感謝を胸に、この一年を過ごしていくことができますように。私たちの周囲には相変わらず様々な困難がありますが、救い主イエス様にお出会いする喜びによって私たちが支えられ、困難の中でも主を仰ぎ、心からのささげものをしながら歩んでいけますように。今、体調を崩しておられる方々が多いですから、どうか主の癒しがありますように。また、年頭に当たり、今年一年が災害から守られ、また世界に平和が訪れる年となりますよう、お祈りします。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日は今年最初の主日礼拝でした。午後は昼食会があり、フェローシップMLCの交わりがあり、役員会も開催されます。








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