2025年1月26日 顕現後第三主日
- 明裕 橘内
- 1月26日
- 読了時間: 15分
聖書交読 詩編19編(旧約p850)
司) 19:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
会) 19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
司) 19:3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
会) 19:4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
司) 19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
会) 19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように
司) 19:7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。
会) 19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
司) 19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。
会) 19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
司) 19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
会) 19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。
司) 19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。
会) 19:14 あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。
全) 19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。
聖書朗読 ルカ4章14~21節(新約p107)
4:14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
説教 「解放が告げられる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
本日もこのように、皆さんと一緒に御言葉を開くことができ、感謝をいたします。さて、日本では生きていく上でとかくさまざまなしがらみ、束縛が多いと指摘されることが多々あります。その点では、その束縛からの解放というのは大きな課題となることでしょう。お気づきのように、本日お読みいただきました福音書の箇所には、「解放」ということばが出てきますから、何やら期待できそうです。では、ご一緒にも本日も、与えられた福音書の箇所をたどってまいりましょう。本日の箇所には、イエス様のガリラヤでの伝道の様子と、お育ちになったナザレでのお働きの様子が描かれています。
イエス様はヨルダン川で洗礼をお受けになり、荒れ野で40日間、悪魔の誘惑を耐え抜かれました。そのあとで、北上して、ガリラヤ地方へ帰られた、ということです。「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(14節)とあります。悪魔の誘惑を振り切ったことで、霊の力を得られた、ということもあるでしょう。あるいは、イエス様が洗礼をお受けになった時に降られた聖霊の力が及んでいた、とも考えられます。いずれにしても、イエス様が”霊”の力に満ちていたことは、周囲に明らかに影響を与えました。ですから、「その評判が周りの地方一帯に広まった」と言われるのもわかります。
この当時、噂のネットワークというものがあって、インターネット社会でもないのに、私たちが考える以上に、口伝えでイエス様の評判はあっという間に広がりました。そこで、イエス様はガリラヤの諸会堂で教えた、というのですから、イエス様は複数の会堂を巡って、お教えになられたことがわかります。その時のイエス様の人気の高さがうかがわれます。
そのように、イエス様のガリラヤでの活動は、たいへん好評でした。15節に「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」と書かれている通りです。
「皆から尊敬を受けられた」は、そのまま読むと「皆から賛美された」と訳すこともできる言葉が使われています。別な訳では、「あがめられた」ともなっています。2025年に入って4週間近くになりますが、この「イエス様を賛美した」「あがめた」というガリラヤの人々の姿は、私たちの目にどう写りますでしょうか。彼らは、純粋に目をキラキラと輝かせて、霊の力に満ちて故郷へと帰ってこられたイエス様を喜んでお迎えし、その教えを聞いてはイエス様を賛美し、あがめていました。これは今日私たちに示された、ひとつの信仰のモデルです。私たちも、イエス様の教えを教会で聞いて、イエス様をあがめ、賛美して過ごすのです。
ガリラヤの中でもナザレでの活動の様子は詳しく記されています。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」と16節に記されています。ここにあるように、イエス様のなさったことは、会堂での聖書の朗読と、それに基づく説教でした。
紀元前586年にエルサレムの神殿がバビロンによって破壊されたため、ユダヤ人の信仰体系は聖書朗読と祈りのために会堂中心になっていきました。一説によると捕囚で連れていかれていたバビロンの地が会堂の発祥の地であるとも言われます。それがのちに、捕囚から帰ってきた人々によって、ユダヤの地でも会堂が設けられ、またユダヤ人が離散した先でも会堂が設けられるようになっていったと言われます。それまでの、祭司による神殿中心の信仰から、律法学者による会堂中心への信仰へと変わっていったわけです。主に安息日に彼らは聖書朗読と祈りの時を持っていました。その時、律法の書と預言書が聖書日課によって読まれ、そのあとで、その解説と奨励、お勧めがなされていたようです。すなわちそれが、説教であるわけです。ある時は、何人も説教することがあったようです。そのような伝統に従って、イエス様はこの時、聖書を朗読し、説教をなさったのです。
イエス様は「預言者イザヤの巻物が渡され」(17節)たので、そこから朗読なさいましたが、それは現在、イザヤ書61章1節から2節の一行目(新共同訳聖書)として知られている箇所です。これは、著者のルカが、ヘブル語で書かれた旧約聖書のギリシア語訳である70人訳に基づいて引用したものだと言われます。特に18節前半は70人訳のイザヤ書61章1節とぴったり同じになっています。
ちなみに一応、元となっているイザヤ書の箇所をご紹介しておきましょう。
「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」(イザヤ書/ 61章 1節)
「主が恵みをお与えになる年」(イザヤ書/ 61章 2節)
文章が途中になっていますが、ここまでです。
実は細かく言うと、もう一箇所、同じイザヤ書の58章6節の一部も、ここで引用されていると指摘されています。まずは、58章6節全体をお読みします。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること」(イザヤ書/ 58章 6節)。
このように言われている中の、「虐げられた人を解放し」の部分が、ルカ4章18節の「圧迫されている人を自由にし」の元になっていると言われています。
少し細かいところまで触れてしまいましたが、イザヤ書61章、また58章からの引用とこのルカの福音書の箇所の違いについて深く触れていこうとすると、かなり大きなことになってしまいます。引用元のイザヤ書の本文と引用先のルカの本文が違うのは、実は新共同訳聖書の独特の翻訳から来るもので、実は新しい聖書協会共同訳という翻訳では、また印象が異なっている部分もあります。ですから、今日はこの引用が、ギリシア語訳旧約聖書である70人訳からの引用である、と述べるにとどめたいと思います。
むしろ、ルカの福音書のテキストを読みながら、イエス様の当時に思いをはせ、この朗読を聞いたナザレの人々が何を感じたのか、というところに目を向けていきたいと思います。
それにしても、イエス様の肉声の朗読を実際に聞いたナザレの人々がうらやましくなります。皆さんはいかがでしょうか。イエス様はどんな声で、どんな調子で朗読なさったのでしょうか。
ルカの記録によれば、イエス様の朗読は、「主の霊がわたしの上におられる」ということばで始まっています。どんな声だったのか、どんな調子だったのか、もちろん今となってはわかりません。でも、誰か他人のことについて客観的に読んでいるというよりは、これは自分のことだ、という深い認識の中で読まれたのであり、おのずとそのような雰囲気が、朗読の中にも表れていたのではないでしょうか。
イエス様が読まれた中には、「貧しい人に福音を告げ知らせる」、「捕らわれている人に解放を」(18節)告げる、とあり、たいへん印象的です。福音、すなわち良い知らせは、貧しい人に知らされるのです。このルカによる福音書では、イエス様のお誕生の素晴らしい知らせが、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番を」(ルカ2章8節)していなければならなかった貧しい羊飼いたちに告げられました。そのことを思い起こさせます。
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1章46節)と当時言われてしまうほど、ナザレは何の期待もされない、重要ではない町でした。ですから、そこに住む人々の多くは貧しかったと考えられます。イエス様が朗読されたイザヤ書の御言葉は、心に響いたのではないでしょうか。
また、「貧しい」とは、余裕がない、という意味でもあり、人に頼らなければ生きていけない状態、とも言い換えることができます。そういった意味では、当時のガリラヤの人々だけでなく、現代に生きる私たちにも、関係のある御言葉、ということにならないでしょうか。
また、「捕らわれている人に解放を告げる」(18節)とは、同じ節の中の「圧迫されている人を自由にする」ということばと合わせて、このイエス様の朗読したイザヤ書の言葉の中心的なことばでもあります。イエス様はあえて、この「解放」ということばが入っている聖書の箇所をお選びになったのではないか、と思うほどです。
ここで、「捕らわれている人に解放を告げる」で使われている「解放」も、「圧迫されている人を自由にする」の中にある「自由」も、実は両方とも同じ言葉です。「行かせる、去るようにする」という言葉と関連があって、解放であるとか、自由と訳されます。これは意味を拡大するならば、「解散!」ということばにもつながりがあります。映画の中で、上官が部下に「解散!」であるとか、「下がって良し!」などと短く言う場面がありますが、まさにあれです。「解散!下がって良し!」とさえ言われれば、鬼のように厳しい上官の前に立っている緊張感から、一気に解放されます。それと同じように、ここでは捕らわれている人にも、圧迫されている人にも、「解散!」と告げられるので、その緊張感、圧迫から即座に解放される、というようなニュアンスがあるわけです。あたかも、このみことばを朗読しておられるイエス様ご自身が、捕らわれている人に、圧迫されている人に対して、「解散です!もう下がっていいですよ」と告げてくださるかのように聞こえたのではないでしょうか。
精神的な面で、何かに捕らわれている人、また何かに圧迫されている人は、何もこの当時のナザレの人々ばかりではありません。むしろ現代人の方が、様々なしがらみの中に捕らわれ、大小さまざまなプレッシャーのもとに、圧迫されているのではないでしょうか。人様に迷惑をかけてはならない、私は役に立つ存在ではなければならない、善い行いをしなければ神様に見放される、そういった思いに捕らわれ、プレッシャーに押しつぶされそうになっている人は少なくないと思われます。この当時のナザレの人々だけでなく、そういった人々にとっても、このイエス様の朗読された御言葉は、救いの福音、良い知らせとなるのではないでしょうか。
また、救いの福音と言えば、この「解放」ということばは、「罪の赦し」を意味することばでもあります。私たちはこのみことばを通して、尊い罪の赦しという、私たちが生きる上でなくてはならない恵みにまで、思いをはせることができるのです。
実はもう一つ、イエス様が朗読した聖書の御言葉が暗示することがありました。それは、レビ記の25章10節に記されている、「ヨベルの年」です。イエス様が朗読の最後に読まれた「主の恵みの年」ということば、これが、「ヨベルの年」を暗示しているのではないか、と言われることがあるのです。
その、聞き慣れない言葉かもしれませんが、ヨベルの年について告げる、レビ記25章10節をご紹介します。
「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(レビ記/ 25章 10節)。
ここに「解放の宣言をする」とありますが、ここにも「解放」ということばが見られます。やはり本日の説教でご紹介した聖書の言葉のキーワードは、「解放」であると言えると思います。まさにこれらの聖書箇所において、本日、「解放」が告げられているのです。
このヨベルの年は、イスラエルにおいて、50年ごとに祝われた解放の年のことで、奴隷は解放され、他の人の手に渡っていたものも、所有者のもとに返される年でした。このヨベルの年には、それを告げるために、雄羊の角笛が吹き鳴らされたと言われます。ということは、沈黙のうちに隠されるべきことではなく、その沈黙を打ち破って、大々的に広く知らされるべきことでした。また、大いなる喜びが沸き起こるときでもありました。奴隷が解放され、人手に渡っていた所有地も元に戻ってくるとなれば、それは大きな喜びとなったことでしょう。現代においても、しがらみから解放される、重荷から解放される、といったときに、私たちの心には安心感だけでなく、喜びも沸き起こってきます。私たちにも、この「解放」が必要である、と言うことができるでしょう。
さて、朗読の後、イエス様は席に座られますが、「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」(20節)と言うのですから、人々の期待の高さがうかがわれます。ここで描かれている一連の動作ですが、イエス様が巻物を巻き、係りの者に返し、席に座られる、ということに関して、特にイザヤ書の長い巻物を巻くのには、ある程度時間がかかったように思うのです。しかし、静寂のうちに、会堂にいるすべての人々は、何も言わずにじっとイエス様のことを見ていたのです。その時の期待たるや、いかばかりであったでしょうか。
その沈黙を破り、人々の期待の頂点でイエス様が語られたのは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」ということばでした。これはまさに説教の原型で、福音の実現を告げる、まさに恵みのことばだったのです。また、イエス様の説教の貴重な記録である、と言うこともできるでしょう。
ここでイエス様はまず、「聖書の言葉」とおっしゃいました。説教は、聖書の言葉について、語るのです。最近読んだ本とか、昨日見たテレビとか、有名な人のエピソードとか、そのようなことについて語るのではありません。もちろん、聖書の言葉の内容に関連がある場合のみ、それを印象付けるために、短くそういったことに触れることはあるでしょう。しかし、それがメインになってしまってはいけないと思います。しばしば、説教にそれを具体化し、聞き手に印象付けるための例話が必要か、と話題になることがあります。私は必ずしも必要ではないと思っています。イエス様が、聖書の言葉からしか語らなかったからです。
続いてイエス様は、「今日」とおっしゃっておられます。このように、説教は「今日」について、語るのです。「皆さん、聖書の言葉は素晴らしいですね。きっといつか、このようになるでしょう」と言うのではないのです。ましてや、「聖書の時代に生まれていたらよかったですよね。この御言葉は、あの当時にだけ関係するので、今には当てはまりません」などと希望のないことを語るのでもありません。説教は今日、神様の言葉が何を私たちに語るかを告げるものです。ですから、ぜひ聞かれる皆さんには、そのことを聞き取っていただきたいと思います。
また、「あなたがたが耳にしたとき」ということばから、説教とは「耳で聞かれる御言葉」と言うこともできるでしょう。読むのでもない、見るのでもない。耳から聞かれる、ということが、イエス様の当時、大事にされていたことがわかります。もちろん聴覚の障害とか、年齢を重ねると聞こえの問題が生じるとか、配慮の必要なことはありますが、基本的には、御言葉を耳で聞くことに徹する、ということもまた、大切なことなのではないかと思います。
そして、最後に、胸躍るような、「実現した」ということば。これは、私たちは昨年、園田伝道所に奇跡的に会堂が与えられた恵みの出来事から、実感することができるように思います。一言加えるなら、このことばはもともと、「満ちる、いっぱいになる」という意味のことばです。神様の御言葉にある恵み、その良い内容、それがもう、満ち満ちて、いっぱいになってついにあふれ出て、それが実現する、といったニュアンスです。神様の御言葉が、その約束することも含め、実現していくことは、私たちの大きな願いです。そのことを、この2025年、共に願ってまいりましょう。
御言葉が今日実現した、そのことの中のひとつは、「イエス様が解放者となられた」ということです。イエス様は単に、「解放についての御言葉を朗読した人」ではなかった。イエス様ご自身が、解放者となられたのです。この恵みは実に大きい、と言えるでしょう。
でも、実はこのお話には続きがあって、今日はそこまで読んでいないのですが、ナザレの人々はイエス様を受け入れなかった、という結末が待っていること、それはある意味で驚きです。私たちは心かたくなにしてそのようなことになってしまわないように、という教訓でもあるのでしょう。心開いて、イエス様が告げる解放を受け取り、心に喜びをいただきたいものです。
お祈りしましょう。
天の父なる神様。御言葉の恵みを感謝します。束縛多い世の中で、そこからの解放が告げられました。尊い聖書の御言葉が実現し、イエス様ご自身が、解放者となられました。感謝します。救いという解放をいただいて、喜びのうちに過ごすことができますように。御影ルーテル教会に、また園田伝道所に、神様の祝福が満ち溢れますように。私たちが恵みと信仰による救いをいただき、救い主イエス様を見つめ、あふれる恵みを味わいながら歩む一週間でありますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・来週2月2日は教会総会です。ご出席ください。本日は午後から、今年最初の三浦綾子読書会があります。

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