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2025年1月19日 顕現後第二主日 

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 1月19日
  • 読了時間: 14分

聖書交読 イザヤ62章1~5節(旧約p1163)

司) 62:1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。

会) 62:2 諸国の民はあなたの正しさを見/王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって/あなたは呼ばれるであろう。

司) 62:3 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。

会) 62:4 あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく/あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ/あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ/あなたの土地は夫を得るからである。

全) 62:5 若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。


聖書朗読 ヨハネ2章1~11節(新約p165)

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。

2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。

2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。

2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。

2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、

2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


説教 「喜びの宴にて」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


1月17日であの阪神淡路大震災から30年となりました。そのことを思い起こすならば、説教題にある「喜びの宴」ということばはふさわしくないようにも思われます。昨日は午後4時から祈祷会がありましたが、改めて、真の復興のために共に祈りました。また、祈祷会が終わってからはしばしの間、あの震災の時、どんなにたいへんな経験をしたか、ということを、語り合いました。その思い出は、喜びということとは程遠いものでした。それでも私たちは、聖書を開き、そこに喜びについて書いてあるなら、それを神様からのメッセージとして、受け取るのです。


本日は、イエス様がなさった最初のしるしとしての奇跡を記した福音書の箇所が開かれています。ガリラヤのカナで婚礼があって、イエス様も、その弟子たちも招かれていました。婚礼と言えば、まさに喜びの宴です。そのような場所に、イエス様は共にいてくださったのです。


ガリラヤのカナとは、イエス様の母が住んでいたナザレから北に13キロほど行ったところにある町です。調べても、あまり詳しく説明されていません。のちにイエス様がそこで役人の息子を癒していますし、1章でイエス様に出会い、イエス様の弟子となるナタナエルは、このガリラヤのカナの出身であると言われています。決して名もない町だったというわけではないのですが、でも、イエス様が最初の奇跡をなさったにしては、少し知名度が低いように思われます。なぜイエス様は、神の都エルサレムで、華々しく最初の奇跡をなさらなかったのでしょうか。


でも、ここに何か意味があるのだと思います。この最初の奇跡は、新しいイエス様の時代の始まりを表す大事なものだったと言われます。それが、エルサレムではなく、地味な、ガリラヤのカナで行われた。それは、私たちの地味な毎日に、イエス様が入ってきてくださる、ということを期待させないでしょうか。私たちは、いつも人生の晴れ舞台にいるわけではありません。ごく当たり前の、平凡な毎日を送っている、ということもできないわけではない。そのような、エルサレムにいるというよりは、むしろガリラヤのカナにいる、と言った方がふさわしい私たちの、ごく当たり前の日常に、イエス様は来て、その喜びの宴に加わってくださるのです。


しかし、ガリラヤのカナでの喜びの場はやがて、危機の場となりました。祝いの宴になくてはならないぶどう酒が、何と足りなくなってしまったのです。それに際し、イエス様の母は、「ぶどう酒がなくなりました」(3節)とイエス様に報告しています。これは、イエス様に期待する姿です。2025年も始まって3週間近くになりましたが、今年の私たちの姿は、このイエス様の母のように、逐一「ぶどう酒がなくなりました」と、イエス様に告げるようなものでありたいと願います。職場などで言われるホウレンソウ、すなわち報告、連絡、相談ではありませんが、私たちが自分たちの状況を、イエス様に細かく報告すること、これは重要なことです。イエス様だったらわかっているんじゃないか、そのようにも思いますが、でしたらなぜこの時イエス様の母は、「ぶどう酒がなくなりました」などとイエス様に言ったのでしょうか。彼女は、理屈はともかく、とにかくイエス様に報告すること、告げることがまず大事だ、と思ったわけです。私たちも、何か起こった時に、「どうしよう、こんな時はどうしたらいいんだ」と自分の中で堂々巡りするのではなく、すぐに目を自分の外に向けて、「イエス様、今こういう状況です」と告げる、このことが大事です。そうしていくことで、ますます今年、イエス様との距離が近くなっていくのではないでしょうか。いえいえ、イエス様のお手を煩わすことなどもってのほか、などともっともらしい言い訳をするのではなく、素直に心を開いて、「ぶどう酒がなくなりました」と言えるようでありたいと思います。


イエス様の母の言葉に対しイエス様は「何とかします」などとはお答えになっていませんから、イエス様が何かしてくださるとは、到底期待できないような状況でした。しかし、母は「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5節)と、期待するのをあきらめてはいません。この時イエス様は母に「婦人よ」と呼びかけています。新改訳では「女の方」となっていますが、ご自分の母に対してこの呼びかけとは、何となく冷たい感じもしないことはありません。しかし、これは敬意を持った呼びかけだ、と言われています。ですので、イエス様は決して、ご自分の母のことを軽く見たり、低く見たりしているわけではありません。冷ややかな答えであるわけではないのです。とにかくこの時、最大限の敬意を払って、今まだ自分の時が来ていない、ということを伝えたかったのです。


そのような思いが伝わったこともあって、イエス様の母は、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召使たちに言うことができた、とも考えられます。とにかく、彼女はあきらめなかった。このことも、私たちに対する大きなメッセージです。私たちも、粘るのです。簡単にあきらめないのです。イエス様から、すぐ答えが来ないかもしれない。また、答えがあったとしても、「まだ時ではない」という答えかもしれない。しかし、それは、「その時が来ない」ということではありません。まだ希望があるのです。今まだその時ではない、というだけであって、信じて待てば、やがて時は来るのです。そう信じるのです。


婚礼という喜びの宴に、もてなすためのぶどう酒が足りない。私たちの日常にも起こるかもしれない、この深刻な欠乏。それを補うために、イエス様は何をなしてくださるのでしょうか。「わたしの時は来ていない」とおっしゃるイエス様。そのまま何もなさらないのでしょうか。


そこには、石の水がめが六つ置いてありました。それは、「ユダヤ人がきよめに用いる」ためのものだったと、説明があります。律法においては、食前にきよくないものに触れていると、その手で触れる食べ物も汚れる、とされていました。だから、きよめのための水が必要だったのです。1メトレテスで約39リットルだったとのことですから、ひとつの水がめで「二ないし三メトレテス入り」となると、約78リットルから117リットルということになります。それが六つあったわけですから、多くて702リットルもの莫大な水を入れることができる入れ物があったことになります。


この「ぶどう酒が足りない」という危機的状況は、イエス様の「水がめに水をいっぱい入れなさい」(7節)との声によって動き出し、ついにイエス様の「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(8節)との呼び声によって、すっかり変えられました。


この時、召使たちは六つの水がめに水をいっぱい入れました。それは何百リットルにも及びました。水は案外重いものです。震災の時、ポリバケツなどに水を汲んで運んだご経験のある方は、それをよくご存じのことでしょう。もしかしてこの作業には、私たちが想像する以上の時間がかかったかもしれません。水道の蛇口をひねってすぐに水が出る、というのではないわけです。もしかして時間をかけて、井戸や水汲み場まで行ったのかもしれません。そうやって時間をかけて、たいへんな労力をかけて、何百リットルもの大量の水が運ばれたのです。


そのあと何が起こったかは、9節で「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした」と言われているだけで、実にあっさりとした報告です。「その時、何と言うことでしょう、イエス様が手を挙げて祈ると、不思議な音がして、水がぶどう酒に・・・」などということは一言も書いてありません。とにかく忙しかったのは、召使いたちです。時間をかけ、苦労して水がめを水で満たし、イエス様に「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われれば、今度は宴会の世話役のもとへと走る。そのように忙しく立ち回る召使いたちに対し、イエス様の周りには静寂があり、淡々と物事が進んで、いつの間にか水は上質なぶどう酒になっていました。


この水がめの数が六つだった、ということには、何か深い意味があるのでしょうか。六という数字を、皆さんはどう考えますでしょうか。ユダヤ人たちは、完全数である七からひとつ足りない、と考えたようです。ですので、六は「不完全」を表す数字でした。イエス様の新しい、完全な世界に対して、六と言うのは人間の世界の不完全さを表していたとも考えられます。


それなのに、それに水が注がれた時、水はイエス様によってぶどう酒に変えられていく。そしてそれは、イエス様の栄光につながっていきました。これもまた象徴的です。実に人間的な、不完全なものが、一旦イエス様に用いられると大きな働きをなしていくようになる。そのことを、ここでは象徴的に表しているようにも思えます。


さて、宴会の世話役の、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10節)という言葉からすると、喜びの宴の、まさに宴もたけなわの時に、イエス様はこのように、水を上質なぶどう酒に変えるという奇跡をなさったことがわかります。まさに絶好のタイミングでした。この出来事によって、この宴の喜びは頂点に達しました。


この素晴らしい出来事において、事の次第を知っていたのは召使いたちだけでした。宴会の世話役は、このぶどう酒がどこから来たのか、知らなかったのです。だから、彼は花婿を呼んで、彼をほめたのです。


往々にして、神様の働きにはこのようなことがあるようです。偉大な神様の業がそこに起こっていても、それがどこから来たのか、人々は知らない。そのような、隠されたところで、神様の御業は起こるのです。


ですから、そこでは神様の御業を見通す信仰の目が必要となります。そしてまた、召使たちのように、地道に仕えていた人々は、神様の御業に触れることができます。「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」(9節)と言われている通りです。私たち、フェローシップ・ディコンリー、すなわち「交わりと奉仕」の伝統に生きる者として、神様に仕え、その御業を目の当たりにする、ということを、今年も地道に続けていきたいものです。


イエス様は、水を上質のぶどう酒に変えたことを宴会の世話役に知られなくても、一向に構いませんでした。これはなかなかできないことです。つい、「私がやったことです」と言いたくなるのが私たちなのではないでしょうか。イエス様は有名な「山上の説教」の中で、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6章3節)と教えておられます。何とも厳しい教えだと思ったりもしますが、そもそもイエス様が、そのように生きておられた方でした。イエス様は、ご自分がなさらないようなことを無理に私たちに押し付けるような方ではありません。それが、当時のファリサイ派やその律法学者たちの人々との大きな違いでした。律法学者たちは、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」(ルカ11章46節)とイエス様に非難されています。律法学者の多くはファリサイ派の人々だったと言われますから、ファリサイ派の人々も同じようなものだったと思われます。そのような存在とは異なり、イエス様は私たちに重荷を押し付けるようなことはなさいませんでした。むしろ、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11章28節)と招いていてくださいます。イエス様は私たちに重荷を負わせようなどとは思っておられません。ただ、ご自分がしていることを、しておられるようにお話しなさっただけです。イエス様ご自身が、自らごく自然に、右の手のすることを左の手に知らせないように生きておられた。その生き方の通りに、水をぶどう酒に変えても、それを周りの人に大々的に知らせようとはなさらなかったのです。


このように、ガリラヤのカナの婚礼の喜びの宴で大量の水を上質なぶどう酒に変えたこと、これがイエス様の最初のしるしでした。これは、イエス様がメシア、キリストであることの証拠となる奇跡、という意味です。イエス様は、最初は「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃったのです。これは、すべての人の救いのために十字架にかかる時はまだ来ていない、という意味でした。しかし、そう言われながらもここで人々の具体的な必要に直面し、水をぶどう酒に変えたのは、そうすることがふさわしいと思われたからでした。イエス様が私たち人間に寄り添ってくださる姿です。結果的にそれは、イエス様の栄光を現すことにつながったのです。


イエス様の最初のしるしが、このように大きな喜びと深く関連があることはたいへん興味深いことです。イエス様はそのなさる奇跡によって、私たちに大いなる喜びを与えてくださるのです。この2025年、私たちは大いなる御業を見てイエス様から喜びをいただき、あたかも喜びの宴の中にいるかのように、喜びに満たされて、日々の暮らしを送ってまいりましょう。


お祈りいたします。

天の父なる神様。

私たちは今、共にあなたの前に出ています。そして、あなたからいただいた御言葉を開いております。そこには大いなる喜びについて書いてありました。私たちはあの阪神淡路大震災という未曽有の悲劇からちょうど30年と言うことで、いろいろと思い起こしては心曇らせたりしております。しかし、そうであったとしても、私たちはそのようなただ中で、あなたからの喜びのメッセージをいただきます。イエス様は、喜びの宴の中に共にいてくださいました。そして、そこで何が起こっているのかつぶさに見ていてくださって、具体的な必要のために、奇跡を起こしてくださいました。私たちも諦めることなく、「ぶどう酒が足りないのです」と、自らの必要についてあなたに訴えることができますように、導いてください。人生はまさかの連続で、喜びの席に急に困窮が生じたり、祝いの場が一転して悲しみの場になったりするものです。そのような人生のはかなさを、あの大震災においても、また近年のコロナ禍においても、私たちは体験してきました。どうかそのような中でも、イエス様の確かな御業を見て喜ぶ信仰の歩みを地道に続けていくことができるように、私たちを助けてください。震災をはじめとする様々な災害によって生きにくさを感じている人々に、水をぶどう酒に変えてくださるイエス様の尊い救いと助けがありますように。また、この戦火の絶えない世界においても、キリストこそ私たちの平和、と言われるように、イエス様が平和の礎となってくださいますように。尊いイエス様の救いの御名によって祈ります。アーメン


報告

・2月2日の教会総会に向けて、準備が進んでいます。本日は礼拝後会計監査がありますし、25日(土)には、総会資料の製本を行います。本日午後は、青年会主催の聖書研究会で、内容は「マラキ書」です。また、来週の礼拝後は今年一回目の三浦綾子読書会となります。



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