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2025年11月30日 待降節第一主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 8 時間前
  • 読了時間: 11分

聖書交読 イザヤ2章1~5節(旧約p1063)

司)2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

会)2:2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい

司)2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。

会)2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

全)2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。


聖書朗読 ローマ13章11~14節(新約p293)

13:11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。

13:12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。

13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、

13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。


説教 「その日は近づいている」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


先週は25日火曜日に久しぶりにフェローシップ・ディコンリー福音の教職者会がありました。一年に一回の集まりです。いつも講演会があり、そのあとに各教会からの報告、お祈りの時があるのですが、今回は神戸ルーテル神学校より正木牧人先生、うらら先生ご夫妻がお越しくださり、説教について、特にルター、あるいはルター派の教会の説教についてお話ししてくださいました。興味深い内容だったため、宣教会事務のお二人、また主事のお二人も一緒に参加されて、お話をお聞きいたしました。ルターについてのまとまったお話を聞くことはなかなか得難い機会なので、とても恵まれた、幸いな時を過ごしてまいりました。


さて、本日から待降節に入りました。教会の暦では、新しい一年の始まりとなります。先ほど触れた正木牧人先生の講演の時にもご指摘があったのですが、待降節第一主日には、伝統的にはイエス様のエルサレム入城の箇所が開かれ、のちにイースターの一週前の枝の主日にも同じ個所が開かれる、という流れだったのですが、最近は少し異なり、世の終わりについて語る箇所が取り上げられる傾向があります。そこで、本日は同じテーマである使徒書の方を選びました。


同じく正木先生の講演の中で、説教の箇所がどのような分の流れの中にあるかをしっかりとらえることが重要だと教えられましたので、その辺りにも触れておきたいと思います。本日開いておりますのは、パウロの筆によるローマの信徒への手紙ですが、特徴として、様々な教えについて書かれている教理の部と、それを実際の生活に生かす実践の部分と、二つに分かれています。これは、ほかのパウロの手紙にも当てはまる特徴です。ローマの信徒への手紙においては、11章までが、教理の部となっています。皆さんもご存じのように、その3章では、充実した、信仰義認についての教えが展開されています。12章から、言ってみれば実践の部となるわけですが、本日の使徒書の箇所は、その中に属しています。そして、位置としては、13章の終わりの箇所となっています。新共同訳は、小見出しがあって便利ですが、13章は、まず「支配者への従順」という内容で、有名です。「上に立つ権威に従うべきだ」と勧められています。その印象からすると、世の終わりについて記す本日の箇所とのつながりが見いだしにくいですが、間に「隣人愛」について語る箇所を挟んでおり、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」とパウロは述べます。本日の箇所が、「更に」という言葉で始まっていることからすると、前の部分を受けての教えであることは間違いありません。パウロは上に立つ権威に従い、隣人を愛して生きることを教え、その流れにおいて、本日の箇所を書いている、という理解で読んでいきたいと思います。


11節では「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と言われており、その場合の「救い」はイエス様の再臨のことを指しています。著者であるパウロは、イエス様の再臨をとても現実的に受け止め、それがすぐにでも起こると信じていました。「再臨の日は近づいている」という信仰です。待降節の初めにこれを読む、ということは、この季節がイエス様の再臨を待ち望む時であることをはっきりと示しています。どちらかと言うと、アドベントとは日本語で「待降節」と書く通り、イエス様のご降誕、すなわちお誕生を待ち望む、というイメージが強いかと存じます。確かに、教会では個の待降節、アドベントを待つかのようにして、クリスマスの飾りつけをし、クリスマスに向かう体制を整えます。しかし、アドベントが「到来」という意味を持つことからしても、この季節は単にクリスマスの準備だけではなく、イエス様が将来到来されることをも視野に入れる時であることがわかります。


同時に、将来におけるイエス様の到来、すなわち再臨を待ち望むことは、私たちに大きな喜びをもたらします。再臨、ということは、イエス様の最初の到来が確かにあったことが前提になっています。ということは、すでにイエス様が救い主としてこの世に来られ、私たちの罪の赦しのために十字架にかかられ、いのちを与えてくださったという意味での「救い」がすでに実現していることを意味しています。しばしば、イエス様は一度、赤ちゃんとしてこの世に来られ、次には王として来られる、と言われることがあります。弱い赤ちゃんの姿で到来なさったイエス様は、その地上でのご生涯において、私たちに代わって正しい生活を送ってくださり、最後には私たちを贖い出すために、十字架で犠牲となってくださいました。今や私たちにそのイエス様の正しさがプレゼントとして与えられ、私たちは神様の前に、正しく歩んでいるものと見ていただいています。そして、自分たちではどうしようもない罪を、すっかり赦していただいています。その喜びを噛みしめたいと思います。


続く12節は、「夜は更け、日は近づいた」と始まります。恥ずかしながら、「夜更け」というのが、日本語の感覚としてはわからなくはないのですが、時間としてはいつごろなのか、というのがいまいち捉えにくい感じがしています。皆さんはそんなことはないかと思いますが、恥を忍んで今はやりのAIに聞いてみると、「明確な時刻が法律などで定められているわけではありませんが、一般的には真夜中を過ぎて夜がかなり深まった時間帯を指します」とありました。具体的には「一般的な目安: 午後11時(23時)ごろから深夜2時(2時)ごろにかけての時間帯。慣用的な表現: 夜が更けて人々が寝静まっている様子を指すため、深夜帯全般を指して使われることもあります」との答えもありました。確かに、「夜は深まり・・・」という翻訳もありますので、そのような感覚なのでしょう。


「夜」はイエス様再臨前の時代、恐らくイメージとしては世が混乱して暗闇の時代を指しています。その一方で、「日が近づいた」と言われる時の「日」とは、イエス様再臨の喜びの日、救いの日のことを指すと解釈されます。イエス様の再臨の目的は、私たちを迎えることです。私たちを天の御国に招き入れるために、イエス様は再び到来されるのです。それが喜びの日であることは言うまでもありません。また、労がねぎらわれる、私たちの苦労が報われる日でもあります。イエス様はその日に、私たちに「忠実な良いしもべだ」と声をかけてくださいます。先週開いた福音書の御言葉の最後にありましたが、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(ルカ21章19節)とのイエス様の励ましの言葉を受けて、忍耐して歩んできた私たちが、「よかった、その苦労が報われた」とほっとして、安心できる時なのです。


そのような時だからこそ、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(12節)とパウロは強く勧めています。ここでの「闇」は、滅びや死であったり、神様に背く人々のことを指していると言われます。何の益にもならない、滅びに向かうような闇の行いを脱ぎ捨てよ、とパウロは勧めるのです。それに対して、「光の武具を身に着けましょう」と勧めますが、この場合の「光」は、神様自身やその御言葉、神様の真実を明らかにする人や物を指すと言われます。「脱ぎ捨てる」も「身に着ける」も、ごく日常の行為でありますから、それに例えればわかりやすいですので、すぐれた表現だと思います。


13節は、「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」というパウロの呼びかけで始まります。「日中を歩む」とは、「昼らしい歩みをする」ということでもあります。実はこの勧めですが、11節からつながっているように読むことができます。11節では、「あなたがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ています」と告げられていました。それは、12節の「夜は更け、日は近づいた」との宣言につながります。そして、その宣言が、この13節の「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」という呼びかけにまで、響いているのです。このように、11節からつながっているのです。


しかも、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい」(13,14節)と言われていますが、これはまさに、先ほど12節で言われていた、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」という勧めの言い換えです。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」の部分が、「闇の行いを脱ぎ捨てて」の部分に対応し、続く「主イエス・キリストを身にまといなさい」の部分が、「光の武具を身に着けましょう」に対応していると考えられます。このように、言い換えながら2回言われている、ということで、この勧めが強調されています。一言で言えば、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る、ということで、「服を脱ぎ着する」ということでは、先ほどすでに触れておりますように、とてもわかりやすい教えです。


最後の戒めは、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」という一文です。厳しいと言えば、厳しい言い方です。イエス様の十字架によって解放された新しい時代が来たのですから、もうどう生きようといいのではないでしょうか。いや、パウロはそのようには思いませんでした。再臨を待ちながら、昼間の生活を送る、ということと、自分のことばかり考え、その欲にまかせて生きるということが、共存するとは考えられなかったのです。「肉に心を用いてはなりません」とは、「肉に心を向けてはならない」ということです。そう言われると、ピンときます。私たちには、一度この世に来られ、私たちのすべての罪を贖ってくださったイエス様がおられます。来週は聖餐式がありますが、その聖餐式の中では、罪の赦しの祝福の宣言として、次のような言葉が宣言されます。


「願わくは、十字架につけられ、死からよみがえられ、わたしたちのすべての罪をあがなわれ、その聖なるからだと血とを、今わたしたちに与えられた主イエス・キリストご自身が、それによって私たちを強め、まことの信仰のうちに、永遠のいのちに至るまで守られるように。」


私たちのすべての罪をあがなうために、すなわち、その罪の赦しのために、十字架でお体を裂き、血を流すという尊い犠牲を払ってくださったイエス様は、私たちを迎えるために、もう一度来られるのです。そんな素晴らしい方が、ほかにおられるでしょうか。ほかの何に、私たちは心を向けるのでしょうか。そのような方がおられるにもかかわらず、相変わらず肉に心を向けるのでしょうか。それとも、恵みに感謝して、ご降誕の主、そして再臨の主に、心を向けるのでしょうか。


パウロの信仰に倣い、私たちもイエス様の再臨を待ち望みましょう。再臨の日が近づいている今、イエス様の恵みに押し出されてためらいなく古い自分を脱ぎ捨てましょう。暗闇の業を捨てるのです。その勇気は、イエス様ご自身が、いつも私たちが受けている聖餐の恵みによって私たちを強めてくださることで、与えられるのです。そして、主イエス様に似た姿の新しい人を着るのです。そこには、昼間を堂々と生きるすがすがしさがあります。そして、イエス様の再臨の日まで、まことの信仰のうちに、永遠のいのちに至るまで、私たちは守られるのです。


お祈りします。

天の父なる神様。あなたの尊い御名を賛美します。今年もアドベントに入りました。今まであなたが手を取ってお守りくださり、感謝します。今日は特に、その日は近づいている、即ちイエス様が再び到来する日は近づいている、という側面から、このアドベントを記念しました。イエス様のご降誕をお祝いするクリスマスを間近に控えている今、私たちを信仰の喜びのうちに置いてくださり、その喜びに押し出されて、古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を身に着けて歩むことができますように。困難の中を歩む人々を支えてくださり、安心と平和の中で生きることができるように、導いてください。

尊い救い主、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日礼拝後は昼食会で、フェローシップMLCの交わりがあります。そのあと、2時から母の家ベテルで待降節聖会がありますので、参加しましょう。講師は堺育麦キリスト教会の豊島先生です。

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