top of page
執筆者の写真明裕 橘内

2024年9月8日 聖霊降臨後第16主日


聖書交読 詩編146編(旧約p986)

司) 146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。

会) 146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。

司) 146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。

会) 146:4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。

司) 146:5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人

会) 146:6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は

司) 146:7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち

会) 146:8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し

司) 146:9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。

全) 146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々王。ハレルヤ。


聖書朗読 マルコ7章24~37節(新約p75)

7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。

7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。

7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。

7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。

7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。

7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。

7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。

7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。

7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


説教 「イエス様が出会った人々」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本日の福音書の箇所には、イエス様が出会った人々が登場します。まず、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女」(25節)が登場しますが、彼女は「シリア・フェニキアの生まれ」(26節)であって、異邦人でした。


この部分をマタイによる福音書で読むと、「この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」(マタイ15章22節)と書かれています。洗礼を受ける前、大学の聖書研究同好会の時だったかと思うのですが、この箇所を読んでわかち合う、という経験がありました。その時私は、「娘が苦しんでいるのに『わたしを憐れんでください』とは、何と自己中心的か」と発言したように記憶しています。そのような読み方が合っているかどうかわかりませんが、マルコによる福音書では、「娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ」とありますから、必ずしもそのように解釈する必要はないと思います。


そのように、「娘から悪霊を追い出してください」と必死にお願いするものの、イエス様の反応は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(27節)と冷たいものでした。「子供たち」がユダヤ人、「小犬」が異邦人、と解釈されます。イエス様に、「まずはユダヤ人」という考えがあった、とも言われ、それはのちのパウロの「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」(ローマ1章6節)という考え方にも通ずるものでした。女性を蔑視していたわけではありません。また、この女性が「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」(28節)、すなわち、異邦人であっても、イエス様の恵みのおこぼれにあずかれるはずだ、と知恵に富んだ回答をすると、すぐにイエス様は態度を変え、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」(29節)と温かく声をかけてくださっています。ここに私たちの主の慈しみとまことが表れているのであり、そのゆえに私たちは主を賛美するのです。


さて、この部分にはもう一人、イエス様が出会った人物が描かれています。それは、実際イエス様と顔と顔を合わせてあったわけではないようですし、言葉も記されていませんが、汚れた霊に取りつかれた幼い娘です。そもそもなぜ、この子は汚れた霊になど取りつかれたのでしょうか。ちなみに、お分かりのように、ここでは汚れた霊が悪霊に言い換えられており、両方とも同じ意味で使われています。ここが異邦人の地だから、このようなことが起こったのかと言えば、イスラエルでも同じようなことは起こってますから、場所であるとか、異邦人だから、ということは理由ではないことがわかります。


みことばにはっきり理由が書いてありませんので何とも言えませんが、唯一の神様に向かって心を向けていないときに、また、何か別なものに対して心を開いてしまっているときに、汚れた霊、あるいは悪霊が入ってくる隙を作ってしまっているのではないでしょうか。これはあくまでも推測に過ぎないのですが、この子は神様も希望もなく、ただただ虚しい日々を送っていたのかもしれません。そのような中で、当時はやりの占いであるとか、魔術的なものに心を開いてしまい、それがきっかけで、汚れた霊が入り込んできてしまった、と考えることもできます。


お母さんもこの子も、この出来事で苦しんだと思いますが、言ってみればお母さんの信仰で、彼女はいやされた、すなわち、悪霊を追い出していただけたわけです。マタイによる福音書の方では、「 婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)というイエス様のお褒めの言葉も記されています。このいやしは今はやりのことばで言えば「リモート」で行われたようで、イエス様が直接この子のところに行っていやしが行われたわけではありません。その意味では、先ほども指摘しましたように、イエス様は直接この子にお会いしたわけではないのです。しかし、彼女がいやされるかどうかは、その後の彼女たちの歩みを大きく左右したわけですので、その意味では、確かにイエス様はこの子に出会ってくださった、と言って差し支えないでしょう。この子にしてみても、のちに母親から、「イエスという方があなたをいやしてくださったのだ」と聞いたでしょうから、直接会ってはいないにしても、私の人生に大きな影響を与えた方だ、ということで、長らく記憶に残ったのではないでしょうか。


これは私たちとイエス様の出会いと似ています。私たちは、イエス様と直接顔と顔とを合わせて会ってはおりません。だからと言って、それで私たちは、イエス様が私たちに出会ってくださったことを否定したりはしません。昔の偉人について、書物等で知り、感銘を受けて大きく影響を受けた時、私たちはごく普通に、「その偉人と出会った」と言うものです。そうであるならば、今も生きて働いておられるイエス様との出会いはなおさらのことです。聖書を通してイエス様を知るに至り、大いに感銘を受けて私たちの人生が変わった、と言う時、それは私たちにとって、イエス様がわたしたちに出会ってくださった瞬間です。悪霊に取りつかれていた娘がいやされて、のちに母親からイエス様によっていやされたことを知った時、「イエス様が私に出会ってくださって、そしていやしてくださった」と思ったであろうことと同じです。


イエス様の力によって悪霊が出て行ったとき、この子は「床の上に寝て」いました。単に横たわっていただけでなく、悪霊に取りつかれていたことが悪夢であったかのように、すやすやと眠っていたのではないでしょうか。何とも穏やかな、平安な様子です。悪霊に取りつかれていた間、どのような様子だったか、それは記されてはいません。もしかして母親が手が付けられないほど、暴れまわっていたのかもしれない。でも、それが嘘だったかのように、今そこには平安があります。母親もほっとして、イエス様に感謝したのではないでしょうか。先ほど指摘しましたように、この子の姿は私たちに似ています。私たちも、イエス様に出会う前は、嵐の中でもがくような体験があったのです。それが、イエス様が出会ってくださったおかげで、平安が訪れたのです。そしてまた、往々にして偉大なる神様の御業は、私たちが眠っている間に起こるのです。私たちは、いつでも目を覚ましていて、神様のなさることをつぶさに見ていようと思うのですが、なかなかそのことはかないません。むしろ私たちが気を緩めて、眠っているような時にこそ、神様は働いてくださる。そこで私たちは、私たちの頑張りによらず、神様の方で事をなしてくださる、ということを学ぶのです。


続いて、もうひとつの、イエス様が出会ってくださった人々についてのストーリーを見てまいりましょう。新共同訳では、「耳が聞こえず舌の回らない人をいやす」と小見出しが付いている箇所です。ここでは、長旅の後、イエス様はガリラヤ地方に戻っておられます。


ここでイエス様が出会ったのが、「耳が聞こえず舌の回らない人」でした。聞こえないし、話すこともできない人、ということです。周りの人々が彼をイエス様の所に連れて来て、控えめに、「その上に手を置いてくださるように」、とだけ願った、と記されています(32節)。


しかしイエス様のなさったことは、その場の群衆の願ったこととは異なりました。「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」(33節)とあります。このようなことは、古代におけるいやしの行為においてなされうることだったようです。


それにしても、いきなり何の同意もなしに、このようなことをなさるとは、昨今のコンプライアンスにうるさい世の中の流れからすると、問題にもなりかねないような気も致します。しかし、この人が、身振り手振りでそれを拒絶することもできたでしょうけれども、それをしなかったということは、イエス様のなさることを受け入れたということであり、また、ある意味でそれは彼に与えられた信仰でもあった、ということではないでしょうか。


先ほどは、悪霊を追い出してもらった娘と、私たちに共通点がある、とお話ししました。今度のケースではどうでしょうか。私たちにも、別の意味で、耳が聞こえず、舌が回らない、という面はないでしょうか。


考えてみたら、私たちは、神様がせっかくたくさんのことについて語りかけていてくださるのに、それを聞くだけの耳を持っていない、というところがないでしょうか。神様が語りかけてくださっていることを知っていれば、ここまで不安になる必要はなかった、ということが、もしかしてあるかもしれません。


また、舌が回らないとは、話すことができない、ということですが、私たちも、本当に話すべきことについて、話すことができているか、と心探られます。溢れるほど恵みを注いでいてくださる神様に、十分に感謝の言葉を語っているか。聞く人に恵みを与えるような言葉を語っているか。そのようなことに関しては、あまり十分に舌が回っておらず、ちゃんと話していないのかもしれません。


ですから、この箇所を、単に「実際に耳が聞こえず舌の回らない人」の記録だ、と読めば、あまり私たちとの関係を実感できないかもしれません。しかし、別の意味で、私たちも神様の声が聞こえず、感謝の言葉について舌の回らない者なのだ、と受け止めれば、俄然この箇所は、私たちに深く関係する御言葉として私たちに迫ってきます。


無事この人は、「耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるように」(35節)していただけましたが、その時にイエス様が使われたのは、「エッファタ」という言葉でした。「これは、『開け』という意味である」(34節)に説明書きがありますが、この言葉はギリシア語ではありません。イエス様当時のパレスチナで使われていたアラム語でした。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、イエス様が実際に使われていたのはアラム語であったのかもしれない、と類推される箇所です。イエス様の生の声の貴重な記録であるとも言えるでしょう。


先ほど少しお話ししましたように、神様からの語りかけについて耳を持たず、感謝の言葉について舌の回らない私たちにとっては、まさにこの「エッファタ」という言葉にあるように、何かが開かれて行かなければならないのでしょう。耳が開かれ、口の何かせき止められているようなものが開かれ、それによって、どんどんと神様からの語りかけが耳に入ってきて、神様への感謝の言葉が口からあふれ出す。そのようなイメージです。ですから、このイエス様の「エッファタ」という言葉は、私たちにも必要な言葉です。そして、まさにそのような私たちに、投げかけられた貴重なイエス様の言葉です。それによって、私たちも「開く」のです。心開いて、イエス様の方に向かうのです。そして、イエス様から、神様がどんなに私たちを大事に思って、常日頃声をかけていてくださるか、教えていただくのです。そして、「イエス様、感謝します」と、はっきりと語り出すのです。


この箇所では、この「耳が聞こえず舌の回らない」一人の人をイエス様のもとに連れてきた、大勢の人々にも注目したいと思います。ある意味で彼らもまた、イエス様が出会ってくださった人々です。彼らは、大きな生きにくさを抱えたこの人を、ひとりの人間として尊重し、大事にし、共同体において共に生きていく存在として、受け入れていました。そのような大事な人物だったからこそ、イエス様が来られた、という時に、真っ先に彼をイエス様のもとに連れてきたのです。そして彼らは、イエス様の奇跡を共に拝する存在となりました。


ところが、そのような彼らにイエス様が言われるのは、「だれにもこのことを話してはいけない」(36節)という厳しい言葉でした。御言葉にあるように、イエス様はこの件に関して、口止めをされたのです。普通口止めをするのはどんな時でしょうか。ほとんどは、何か良くないことが起こった時ではないでしょうか。しかし、この時、素晴らしい出来事が起こったことには違いありません。このうわさを聞いて、イエス様のもとに人が殺到することを避けようとした、あるいは、いやしという実利だけを得ようとする間違った動機の人々がイエス様のもとに集まってくるのを避けようとした、などなど、いくつか理由は考えられますが、不思議な御言葉です。このような口止めが、この大いなる喜びの時に功を奏するはずがありません。案の定、「イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた」(36節)という結果になってしまいます。ただ、口止めはなさいましたけど、イエス様はこのようにご自分についての良い評判が言い広められていったという結果に対しては、最後に総括として「これは良くなかった」などと評価することもなく、何もおっしゃっていません。黙認、ということかもしれませんし、人々が喜んで話すのを、見守るような思いだったのかもしれません。


彼らは驚きのあまり、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と言いますが、先ほど言いましたように、そこには喜びの感情も含まれていたのは間違いないでしょう。このように、イエス様が「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」ということは、どのような意味を持つのでしょうか。この時代より何百年も前、預言者イザヤは、次のような預言をしていました。


そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。

そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。(イザヤ35:5,6)


これは、メシア、すなわち救い主の到来の時代の幕開けを告げる預言の言葉であると言われます。このようなことが起こったら、メシアの時代の始まりだ、ということです。ここに「聞こえない人の耳が開く」ということと、「口の利けなかった人が喜び歌う」ということが含まれていまして、まさにこのことが、本日開いております福音書の箇所で起こったとされているのです。人々は単に、イエス様が考えられないような奇跡を行った、ということで驚き、喜んでいたのではなく、まさにこれらのことが、メシアの時代の幕開けを示しており、それが起こったので、いよいよメシアの時代が到来した、という意味で、大喜びしていたのではないでしょうか。私たちもまた、このイエス様が、私たち一人一人を救う救い主として私たちのもとに来てくださったことを、大いに喜んでいます。


本日見てまいりました、イエス様が出会ってくださった人々にまつわるストーリーで共通しているのは、神様から信仰が与えられていた、ということです。汚れた霊に取りつかれた娘を持った異邦人の女性は、必ずイエス様が娘をいやしてくださると信じていました。耳が聞こえず舌の回らない人は、イエス様が自分の身に行っていることを受け入れるだけの信仰を持っていましたし、彼をイエス様のもとに連れてきた人々は、イエス様がこの人に手を置いてくださったら、きっと何とかなる、という信仰を抱いていました。これらの信仰は、すべて神様が彼らの中にその種を蒔き、芽を出させて大切に育んでくださったものでした。


現代は、新型コロナが昨年5月に感染法上の5類扱いになって以降も様々な変種が姿を現し、なくなる気配は見られず、感染拡大の第11波になっていると言われます。その他デング熱、少し前までサル痘と言われていたエムポックス、さらにマイコプラズマ肺炎など、地上から感染症はなくならず、それらとの共存が迫られています。厄介なのは、それらが目に見えないということで、ウイルスや細菌が目に見えれば、私たちも防ぎようがありますが、そうでありませんので、知らず知らずのうちに感染してしまう、ということが続いています。そのような世界で平安のうちに生きていくのに、信仰は欠かせません。しかも、その信仰は、神様が私たちに与えてくださるものですので、私たちは安心です。すでに私たちは、救い主イエス様がこの世界に来てくださった、救い主の時代に身を置いています。神様から与えていただいた信仰によって大いにこの救い主イエス様を信じ、平安のうちに、困難は多いかもしれませんが、この世の歩みを続けてまいりましょう。


お祈りします。

天の神様。このように週の初めの日に共に集まり、礼拝の恵みにあずかることができ感謝します。御言葉を通して、改めてイエス様との出会いのすばらしさを教えてくださり、感謝します。また、この困難な時代を生き抜くために、信仰の必要性も感じました。その信仰もあなたが与えてくださるものと知り、感謝します。私たち一人一人を、その信仰のうちに育んでください。午後の園田の礼拝の後には会堂の聖別の祈りが行われますが、その上にも祝福を置いてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・午後は園田伝道所礼拝があります。ご近所へのご挨拶、会堂の聖別のお祈りが予定されています。お祈りください。




閲覧数:17回0件のコメント

Comentarios


bottom of page