聖書交読 詩編54編(旧約p887)
司) 54:1 【指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。
会) 54:2 ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。】
司) 54:3 神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください。
会) 54:4 神よ、わたしの祈りを聞き/この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
司) 54:5 異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ
会) 54:6 見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。
司) 54:7 わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。
会) 54:8 主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します。
全) 54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。
聖書朗読 マルコ9章30~37節(新約p79)
9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
説教 「私たちの心には何があるか」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
私たちの心はなかなか厄介なもので、自分ではコントロールできないと思うこともあります。人は心にいろいろな思いを持つものですが、時にはそれを隠したい、と思うこともあるでしょう。さて、私たちは、心の中をイエス様にのぞかれても大丈夫でしょうか。今日の福音書の箇所では、弟子たちが、その心のうちをイエス様に知られたくない、と思ったようです。その辺りの次第を、見てまいりましょう。
イエス様の宣教の生涯は、移動に次ぐ移動でした。長くひとところにとどまることはなさいませんでした。もちろんそれは、神の国の福音を広めるためでした。今日開いている聖書箇所でも、「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」(30節)とあります。
この箇所の前の部分では、イエス様は汚れた霊に取りつかれた子からその霊を追い出しておられます。それは、弟子たちにはできなかったことであり、イエス様の神様としての栄光が表れる絶好の機会となりました。30節で「そこ」と言われるのは、そのような場所のことです。それでも、そこを去って、イエス様はガリラヤ地方を通って、先に進んでいかれるのです。
その時に、「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」(30節)とあります。これはなぜでしょうか。
それには、イエス様と、群衆の理解の違いが関係しています。イエス様にとっては、あくまで人々のために身代わりの死を遂げることが、メシアとして重要なことでした。その一方で、群衆は、悪霊が追い出されることや、病がいやされていくのを見れば、そのような、奇跡の人としてのメシア像をイエス様に当てはめ、それでイエス様をもてはやす、ということにもなっていったわけです。ひいては、そのような姿は、イスラエルを政治的にローマから解放する王としての姿にも結び付き、ますますイエス様の考えておられたメシア像とは異なっていったのです。このままではお互いのメシア像は平行線をたどり、決して理解が一致することはないでしょう。群衆が、間違ったイメージからご自分をイスラエルの政治的解放者として祭り上げることは目に見えていたので、イエス様はあえて、気づかれるのを好まれなかったのです。イエス様が知られれば知られるほど、神の国の福音を広めるというイエス様の意図が達成されるかと思えば、逆に間違ったイメージの方が広まっていくとは、何とも皮肉なことでした。
そのような中で、イエス様は先週の福音書の箇所に引き続き、第二回目の死の予告をなさいます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(31節)と言っておられます。第一回目の予告は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ8章31節)という言葉遣いになっていました。今回の二回目の方が、シンプルな形になっていることが分かります。第一回目の予告で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥される」と言われていたことが、「人々の手に引き渡される」と言い換えられています。
この「引き渡される」という表現は、もちろんイエス様が苦しみを受けることを表しています。それとともに、物の本によると、ユダヤにおいては、法的な意味合いをも持つ言葉であって、「一人の人間をある権威のもとから他の権威のもとへと引き渡す行為」のことだとされています。今回のイエス様の受難に関する予告の文脈に沿って言うならば、イエス様が神様からのメシアとして、当然のことながら神様の権威のもとにおられたのに、長老や祭司長、律法学者たちの権威のもとへと引き渡されてしまう、ということになります。これはたいへんなことです。
また、調べてまいりますと、ある時代のユダヤでは、このことは「遺棄」、捨てられる、という考え方にもつながっていることがわかってきます。例えば神様が、イスラエルをその罪によって異邦人や、さばきを担うみ使いの手に渡される、ということで、いちばんわかりやすいのは、ユダヤ人にとっては民族の危機であったバビロン捕囚、ということになるでしょう。このように、イエス様が「引き渡される」とは、イエス様が本来とは異なった姿になってしまうことを意味しており、それがすなわちイエス様にとっての苦しみとなるのだ、ということになるのです。
ただ、それでも、そこには前回に引き続き復活の確かな予告も含まれていました。「殺されて三日の後に復活する」と確かにイエス様は言っておられるのです。ですが、弟子たちの耳には届かなかったようです。あまりにも、「殺される」という言葉が印象に残りやすかったのでしょう。メシアなら死ぬはずはない、という思いもあったと思います。メシアが亡くなってしまったら、自分たちは置いてきぼりにされてしまう。そこには別れのさびしさ、孤独感というものもあったことでしょう。少し逸れるかもしれませんが、東京の、母教会である同じ団体の小竹向原キリスト教会で信仰生活を送っておりました時に、当時は伝道師だった上田先生が、まだ当時江古田にあった古い会堂で、「私も宣教のために、いずれは新しいところに出て行かなければならない」というようなことを言われたことがあり、それを聞いて寂しい思いになったことを思い出します。今から考えれば、働き人が、宣教の広がりのために新しいところに出て行くことを志すことは、とても素晴らしいことだ、ということになるのですが、当時はただそれこそ「置いて行かれる」というか、そんな感じで何となく寂しく感じたものです。弟子たちの気持がわかるような気もします。
ともかく、なぜメシアともあろう方が死ななければならないのか、ということが理解できず、彼らはただただ困惑するだけでした。しかも、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)とあるように、「分からない」ということをイエス様に知られるのを恐れていました。本当は、「なぜイエス様、そんなことをおっしゃるのですか」と質問したいのです。わからない、と言いたいのです。しかし、第一回目の死の予告の時に、「そんなことがあるはずはない」とイエス様をいさめたペトロは、「引き下がれ、サタン」と言われてしまいました。そのことは強烈に弟子たちの心の中に残っていて、誰も心の中の「わからない」という思いを外に出すことができませんでした。彼らは、イエス様に、心の中にあるものを知られたくなかったのです。弟子として、イエス様には心のうちをすっかりさらけ出していた方がいいのではないでしょうか。しかし、この時、彼らはそのようにはできなかったのです。心のうちを、イエス様から隠したのです。
続いて弟子たちは、カファルナウムに向かう道中で議論をしていたのですが、イエス様に「途中で何を議論していたのか」(33節)と尋ねられても、彼らは答えられませんでした。「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」(34節)と理由について言われています。
そもそもなぜ、弟子たちはよりによって、「誰がいちばん偉いか」などと議論していたのでしょう。それは、イエス様の死と復活の予告、それも二回目だったのですが、それを聞いた後の弟子たちのあるべき姿とは到底思えません。本来であるなら、もし先生であるイエス様の身に何かが起こるとして、その後の弟子団の在り方をどうするか、などを話し合うべきではなかったでしょうか。あるいは、一度弟子たちの間で、イエス様の死の予告の発言の意図をよく検討するとか、そういうことがあってしかるべきであったでしょう。しかし、そもそも彼らはイエス様のことばの意味が分からず、「わからない」という心のうちをイエス様に知られることすら恐れているような状態でした。とてもではありませんが、今後のことについて検討する、というような前向きな姿勢にはなれなかったのです。
それにしても、よりによってなぜ、「だれがいちばん偉いか」という議論なのか。マルコによる福音書9章には、ほかにも「議論」ということばが出てきます。今日読んでいただいた箇所の前の部分で、悪霊に取りつかれた息子から悪霊を追い出すことができなかった件で、「彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」(9章14節)と言われています。彼らが多少議論好きだったことが伺える箇所です。ただ、いくら議論好きであったにしても、なぜ「だれがいちばん偉いか」という議論だったのか。これは、来るべき神の国において、だれがいちばん偉いのか、という議論だった、と言われます。彼らがここで、神の国について関心を寄せていることは興味深いことです。ただ、恐らくそれは、イエス様が政治的にイスラエルをローマの属国状態から解放し、イスラエルを再興する意味で実現するであろう理想の世界としての神の国、ということだったのではないか、とも思うのです。イエス様が、ご自分の死と復活をかけて実現させようとしておられた霊的な意味での神の国のことなど、彼らには想像できなかったのではないでしょうか。なぜならそこには、誰が偉いとか、そういったことはないからです。
弟子たちとしては、イエス様が「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった時に、直感的に、「だれがいちばん偉いか」という議論が場にふさわしくない、と悟ったはずです。これはちょっとイエス様に言えない、と思ったわけです。というわけで、弟子たちはこの時もまた、自分たちの心の中にあることをイエス様に知られたくないと思ったのです。彼らの心の中には、イエス様に知られたくないものがあった、ということです。
では、私たちの心はどうでしょうか。私たちの心の中には、何があるでしょうか。私たちの心の中にも、弟子たちと同じように、とてもイエス様には見せられないものがあるかもしれない。他の人にはうまく隠せていても、イエス様にはさすがに隠せないものがあるかも知れません。心を探られる箇所です。
最後、35節から37節の部分には、子どもを弟子たちの真ん中に立たせて、イエス様が具体的に、弟子たちにお教えになったことが記されています。イエス様が「座り」、十二人を呼び寄せて言われる、というのは、ラビ、すなわち教師としての権威を持って教えておられるかのようです。
イエス様のおっしゃりたいことは実にシンプルです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)。しかも、「いちばん先になること」を否定してもおられません。厳密に言うと、これが弟子たちが議論していた「だれがいちばん偉いか」ということと同じと言えるか、ということがあるのですが、ともかく、イエス様は、彼らの議論を頭ごなしに否定しておられるわけではない、ということはわかります。
この時、なぜイエス様は子どもを弟子たちの前に連れてきたのでしょうか。それは、今となっては考えにくいことですが、当時のユダヤでは、子どもたちは数に数えられなかった存在だったからです。ですから、「子どもを受け入れる」というのは、単に弱い存在を受け入れる、ということを越えて、社会の中で無視されることの多い存在をも受け入れる、ということでもあったのです。まさに子どもは「すべての人の後」に位置する存在であったわけです。だからこそ、子どもを受け入れる、ということはすべての人の後になることで、すべての人に仕える者になることにつながったのです。
37節でイエス様は 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」とおっしゃっておられるのですが、どうして子どもを受け入れることが、イエス様を受け入れることにつながるのでしょうか。このことの理解のヒントは、「仕える」という言葉にあります。先にイエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられましたが、その「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる」ことの具体的な方法が、社会の中で無視されやすい子どもを受け入れることだ、ということになります。この、「すべての人に仕える」のは、もともと誰の姿でしょうか。それは、私たちの主、イエス様です。イエス様は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章45節)とおっしゃって、ご自分が「仕えられるためではなく仕えるために」この世に来られた、ということを明確になさいました。このことは、まさに「すべての人に仕える者になりなさい」というイエス様の教えに直接つながります。すなわち、イエス様こそ、すべての人に仕える方だったのです。ですから、子どもを受け入れてすべての人に仕える者となることと、すべての人に仕える方としてのイエス様を受け入れることには、密接なつながりがあるのです。
いくらすべての人の先になることが否定されていないにしても、社会において無視されがちであった子どもを受け入れながら、なおもまた「だれがいちばん偉いか」などという議論を続けることは、弟子たちにはできなかったことでしょう。ですから、イエス様はたくみな方法で、弟子たちからその議論を抜き去った、とも言えます。今や、だれがいちばん偉いか、などと言うことは神の国において関係ありません。もちろん私たちは、「弟子たちと違って、私たちの心の中には、だれがいちばん偉いか、などと議論するような思いはありません」と言うでしょうが、でも、実際のところどうでしょう。「もう少し私は認められてもいいのではないか」「私のしているこの奉仕は、もっと評価されてもいいのではないか」「もっとお礼を言われてもいいのではないか」というような気持ちは、私たちの心のうちにないでしょうか。私たちの心の中には何があるのか。決して褒められるようなものばかりがあるわけではないでしょう。そのような私たちであることを分かったうえで、イエス様は十字架で私たちの罪をすっかり赦してくださいました。だから、今日も、また今週も、堂々とイエス様の前に出て、晴れやかに生きることができるのです。
お祈りします。
天の神様。今日もこのようにあなたの前に出て、恵みをいただく礼拝の時をありがとうございます。御言葉をありがとうございます。あなたは私たちの心の中にあるものを明らかにしてくださいます。その中には、あなたに喜ばれない思いもありますが、すべてイエス様の十字架によって赦していてくださり、私たちをいつも新しくしていてくださることに感謝します。いろいろな意味での生きにくさを感じる昨今ではありますが、また大きな災害もある日本です。その中で苦しむ方々も大勢おられます。どうかそのような方々に、主の慈しみと憐れみがありますように。私たちの毎日の歩みに伴ってくださり、大きな困難を抱える時に、また病の時に、どうかあなたが私たちを慰め、励ましてくださいますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
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