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2024年9月1日 聖霊降臨後第15主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2024年9月1日
  • 読了時間: 15分

聖書交読 詩編15編(旧約p845)

司)15:1 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。

会) 15:2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり

司) 15:3 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。

会) 15:4 主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。

全) 15:5 金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

 

聖書朗読 マルコ7章1~8節(新約p74)

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。

 7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。

 7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、

 7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――

 7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

 7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。

 7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』

 7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」


説教 「守るのは何か」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

新しい月が始まりました。また新しい気持ちで、歩みを始めたいと思います。本日の福音書の箇所には、古い人間の言い伝えを頑なに守る人々の姿が描かれていますが、私たちはこの箇所を通して、どのようなメッセージが語られているのでしょうか。

 

本日の箇所の冒頭には、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」(1節)とあります。ファリサイ派の人々は安息日や宗教的清めに関する律法を守ることを強調し、民衆にも影響力を持っていました。祭司のようなプロの宗教家ではなく、信徒集団でした。律法学者と言えば、律法やそれに関する言い伝えを筆記した人々のことで、古くはエズラにまでさかのぼります。ですが、この頃の多くはファリサイ派に属していました。ファリサイ派の人々も律法学者たちも、同じグループに属していたことになります。

 

彼らはエルサレムからイエス様のおられたガリラヤ地方へとやってきました。イエス様の影響力は大きく、彼らは自発的に、イエス様のもとにやってきたようです。彼らは、やはり地方の人々よりも、律法に厳格だったと思われます。だから、「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」(2節)時に、それが気になったのでしょう。それで思わず、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)と尋ねてしまうのです。

 

彼らの伝統について、3,4節で説明がなされています。これは、マルコがこの福音書を執筆したローマのユダヤ人たちの風習の反映だとも言われることがあるようですが、概ねイエス様当時のパレスチナのユダヤ人の風習と考えてよいと思われます。ここにはまず、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をしない」、ということが述べられています。続いて4節には、「市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」とあります。その他のこととして、「杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」とありまして、これらは明らかに、異邦人の読者に向けて、解説として書かれています。

 

コロナ禍を経た私たちには、これらはたいへんわかりやすい教えです。食前の手洗いどころか、家に帰って来たらすぐに手を洗う、と言われてきました。また、コロナ禍の初めには、家に帰って来たらまず衣服を脱いでシャワーを浴びる、ということも言われていました。これは、ひどい花粉症の方も実践することかもしれません。これらは広く言えば衛生上の問題ですが、当時のユダヤ人たちがしていたことは、同じように見えますけれども、理由は儀式上の問題でした。衛生の面ではなく、むしろ儀式的に不浄なものを触っていて、その手で食べ物を触らないように、という注意だったのです。儀式的に不浄なものを触った手で食べ物に触れば、その食べ物もまた儀式的に不浄となる、という考え方でした。

 

市場から帰った後の決まり事も、同じようなことです。出かけてどこかで不衛生になっているかもしれない、ということよりは、市場には儀式的に不浄なものがある可能性があったので、それに触れていたら不浄になっている、その状態で食べ物などに触ったらたいへんだ、ということで、身を清める、ということになっていた、ということです。市場で儀式的に不浄なものに触れるというのは、律法で汚れているとされる動物に触れるとか、そのようなことも想定していたのでしょう。旧約聖書のレビ記に、どんな動物を食べてよいか、ということで、こんなことが書かれています。

 

「イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである」((レビ11:2~

4)

 

これはほんの一部の規定で、ほかにも魚はどうだとか、鳥はどうだとか、決まりごとが続くのですが、そこで「汚れている」とされている動物に触れてしまうことは、市場という性格上、ありえたわけです。そのような可能性がある以上、帰ってきたら身を清めるのだ、という決まりごとがあったのです。

 

当時の様子は、手を洗うことに関して、3節の「念入りに」手を洗う、という表現からもうかがい知ることができます。この表現は、口語訳から受け継いでいますが、新しい新改訳2017では「よく手を洗う」と訳されています。もとの表現は「握りこぶしで」洗う、などなど、様々な解釈の可能性があります。握りこぶしでごしごしとほかの手を洗う、ということかもしれません。また、「肘まで」という意味なのだ、という説もありますから、これも様々な感染症がはやる時には、指先だけでなく手首など、広範囲を洗う、と言われますので、それと類似した考え方と見ることもできます。儀式的な清めの洗いだから、適当に、さっと洗ってしまったらそれでいい、というのではなかったのです。この、入念な手洗い、というところには、当時のユダヤ人の真剣さ、その徹底ぶりが見られるように思います。

 

そのように、さっと洗うのではなく、しっかりと、入念に洗うのですから、そこには、手洗いに必要な水が確保できた、という背景があります。手だけでなく、身を清める、ということもしていたわけですから、ユダヤ社会には豊かな水が必要でした。乾燥している地方であると言われますが、水が確保できた、ということがわかります。これは、彼らの歴史的背景にある、出エジプトの直後の荒野での生活とは大きく様子が異なります。その当時は、水がなくて、たいへん苦労したようで、その様子が旧約聖書に描かれています。その時代に、歴史的背景、あるいは精神的背景を置きながらも、イエス様の当時のユダヤ人社会では、手を洗い、身を清めるのに十分な水があった。それだけでなく、その他様々な、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うという儀式的行為のために、水が用いられました。その流れの中に、私たちが今も大事に受け継いでいる、洗礼という礼典があるのです。

 

日本でも、水で清める、という考え方がありますが、日本では「水に流す」という考え方もあり、それでなしにする、罪などの悪かったことを忘れてしまう、という面がありますので、恐らくその点ではユダヤの考え方とは異なる面があるでしょう。また、人類すべてのきよめ、ということを考えますと、水では足りなかったのです。イエス様が十字架で血を流す必要がありました。今日、聖餐式が用意されていますが、私たちの罪の赦しのために、イエス様の血が流されたということ、改めて思い返したいと思います。

 

先程触れましたように、エルサレムからやってきたファリサイ派の人々たちはより厳格であったので、思わず「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)と尋ねました。それが、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)というイエス様の教えにつながります。この背景として『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。

人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』と言われており、これはイザヤ書29章13節の引用でした。では、イザヤ書29章13節をご紹介しておきましょう。

 

「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。」(イザヤ29:13)

 

もちろんイエス様はこの時、イザヤ書が記された巻物を実際に開いて、それを見ながら語られたわけではありませんので、記憶に基づく自由な引用だったことでしょう。マルコもそれに従っていると思われます。大事なことは、神の民でありながら、心が神様から離れ、人間の戒めの方を大事にしてしまっている、というメッセージです。

 

これはなかなか痛烈な言葉であって、ファリサイ派の人々とその律法学者たちは、弟子たちが手を洗わずに食事をしている、ということを指摘しただけであったのに、あたかも心が神様から離れ、人間の教えばかり気にしている人々だ、と決めつけられてしまったかのようにも見えます。

 

しかし、イエス様が、「なぜ手を洗わないのですか」と尋ねられたことに対して、「それがわたしたちのやり方です」とだけ答えてもよかったのに、それ以上のこと、すなわち、イザヤ書の言葉まで引き合いに出して、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)とまでおっしゃったのには、やはり訳がある、ということでしょう。彼らは、尋ねたのです。質問したのです。「なぜ汚れた手で食事をするのですか」と。しかし、それにはもうひとつの意味があって、それはイエス様に対する批判でもあったのです。どうしてそういった、今までの習慣と異なることをするのだ、という批判です。なぜ大人しく今まで通りにしないのか。なぜそれを変えるのか。そのイライラを、イエス様は感じたのかもしれません。ですからこそイエス様は、単に「それがわたしたちのやり方なのだ」と述べるのにとどめず、ファリサイ派の人々の言葉の背後にある、神様から離れた姿を指摘するところまで行ったのです。

 

このところの議論をまとめれば、一言で言えば、「人間の言い伝えを固く守るのではなくて、神の掟を大事にしましょう」、ということになるでしょう。これは、わかりやすいメッセージであって、これによって大いに心探られ、信仰者としての在り方に関して、再考が促される、というものだとも思います。私たちの教会は宗教改革の伝統の上に立っていますが、それにあぐらをかいてしまうのではなく、教会は常に改革されるべきだとして、これは以前にやったことはない、などと言わずに、どんどん新しいことに向かっていく、ということも、これからますます必要になってくるでしょう。

 

ただ、そこで終わってしまうのも、もったいないような気がします。これを、「古いやり方に固執しない」と言い換えれば、本当に、別にキリスト教でなくてもいいわけで、どこかの学校や会社の朝礼で、ひとつの運営の方針や経営戦略ということで語られてもおかしくない話にもなります。わかりやすい反面、いつの間にか律法のメッセージになってしまうというか、「がんばってその方向にみんなで行きましょう」ということばかりになってしまって、そこに向かっていく私たちを神様はどんなまなざしで見ておられるのか、ということにはなかなか行き当たりません。

 

一歩踏み込んでこの部分のメッセージを読み解くならば、「人間の幸せのため」ということをいつも考えておられる神様の姿が見えてくるようにも思うのです。神様は今この聖書の言葉を開き、今を生きる私たちを含め、ご自分の造られた人間を愛しておられます。その私たちが「また要求されるのか」、と重圧を感じるようなことを、神様は語られるのでしょうか。神様がひとり子イエス様に、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)と言わせられた時、私たちを責めるのではなく、「あなたがたにとって、人間の言い伝えを守るより、神の掟を守る方がいいのだよ、その方が人間にとって幸いなのだ」と伝えようとなさったのではないでしょうか。

 

ここで私たちは、私たちに対する神様の徹底的な愛のメッセージを受け取ります。私たちは見捨てられてはいない。台風の情報に右往左往する中で、私たちは時に、この世界にひとりで放り出され、あとは自分で何とかしなさい、と言われているような、そんな頼りない思いをするかもしれませんが、実際はどこまでも神様は、私たちの幸せを願って、そのために動いていてくださるのです。私たちの上には常にあたたかい主のまなざしがあり、イエス様は私たちのかたわらにいてくださるのです。特に今日は聖餐式がありますから、その聖餐式の場に、イエス様は実際にいてくださいます。

 

そのことを踏まえたうえで、改めてこの部分の儀式的な浄、不浄のことについて考えますと、もうひとつ、違った面が見えてくるような気がします。すなわち、この部分では、単に儀式上の浄、不浄のことだけでなく、神様のみこころにおいては、衛生上のことも考えられていたのではないか、ということです。さきほど触れた、律法で汚れているとされる動物に関して、やはりそれは、単に宗教上のことではなく、当時としては衛生的に問題があった、だから神様は、それを人間が口にすることがないように、と思われたのではないか、という考え方と同じです。手を洗う、ということは、神様が、人々を思って定められたことなのだ。それで、衛生の面で、人間を守ろうとしてくださったのだ。それを、かたくなに儀式上のことと捉え、四角四面に、「守ればいいんでしょ」ということで、人間を束縛し、自由を失うような方向で守らせていたことに問題があった、とも考えられるのではないでしょうか。自由を失うような方向で、というのは、柔軟に、「それが今必要か?」などを問うことが一切できないような形で、ということです。これは、安息日規定にも共通しています。人間に休息を与えようと、人間のために設けられた安息日なのに、いつの間にかそれを守ることに形式的に囚われてしまって、却って自由さを失い、人間が苦しくなる、ということです。もともと手を洗うことは、「理由はともかく、それは守られなければならないことなのだ」、という迫りのもとで守られるようなものではなかった。あくまで人間の幸せのため、「その方があなたがたは衛生的に守られ、健康で過ごせますよ」という神様のアドバイスのようなものでもあった。それがいつの間にか、そのようなぬくもりを見失って、「守らないとはいかなることか」ということで、手を洗っていない人を見れば注意し、非難する、ということになっては、「では、なぜ手が洗えなかったのか」という、人間の側の事情も顧みられなくなり、それこそ「非人間的」になってしまうわけです。

 

この時、弟子たちが手を洗わなかったのはなぜなのでしょうか。これが、イエス様が共にいて、一緒に食べる食事だった、というのは大きな要因です。断食について、問答がなされた時、イエス様は、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」(マタイ9章15節)とおっしゃって、花婿が一緒にいる喜びの時に、断食などしない、という考え方を披露なさいました。花婿はイエス様のことを表しています。イエス様が共におられれば、その食事の席は喜びの席なのです。「さあさあイエス様、ここに一緒に座って、食事をしましょう」とイエス様をお迎えして、我先にと座に就き、何の心配もせず、食事を始めるのです。そこには、「もしかして私は儀式的に汚れているかもしれない」などと不安に思う人はいません。なぜならそこに、それらの汚れを一切はねとばしてきよくしてしまうことのおできになる方、イエス様が共におられるからです。

 

最後にもうひとつだけ、この部分でどこにイエス様の十字架を発見するか、ということについてお話しして、終わりにしたいと思います。以前フィンランドからの宣教師でヤナツイネン先生という方がおられて、神戸ルーテル聖書学院でも教えておられましたが、その先生のご本で「イエスに会ってみませんか」という本がありました。イエス様の十字架について明確に述べられている福音書の場面などでない所でも、「この聖書の箇所のどこにイエス様の十字架が見出せるだろうか」という視点で、個人や小グループなどで聖書研究をする、ということを推奨する本でした。その考え方からすると、もちろん今日の箇所はイエス様の十字架について記す場面ではありませんでしたが、この箇所のどこに、イエス様の十字架を見出せるか、ということです。

 

そう考えますと、「つい神の掟よりも人間の言い伝えを固く守りたがる私たち人間のために、イエス様は十字架にかかられた」と言えるのかもしれない。まさに、ここにイエス様の十字架がある、とも言えるのです。私たちが守るのは何か。伝統なのか、神様の言葉なのか、と言う時に、伝統を守ることばかりに縛られるような人間が神様のもとに帰るために、イエス様は十字架にかかってくださったのでした。そのことに改めて感謝します。

 

お祈りします。

天の神様。あなたの偉大なるお名前を賛美します。新しい月、新しい一週間が与えられ、このように月の初めの日、また週の初めの日に、心新たにして、あなたの前に出ることができ、感謝いたします。あなたはすべてを新しくしてくださる方です。古いものに過度に縛られることなく、私たちを自由にし、新しい世界へ踏み出させてください。どうしても古いものに囚われてしまう私たちを救うためにこそ、イエス様を送ってくださり、感謝します。その救いの十字架のみわざを思い起こす聖餐の恵みも用意されています。安心して、罪の赦しの確証としての聖餐にあずかることができますように。日々様々な意味での生きにくさの中におられる方々に、助けをお与えください。いやしの必要な人々に、いやしをお与えください。私たちが困難を乗り越える力を、いつも共にいて、お与えください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・台風が無事過ぎ去り感謝します。礼拝後は昼食会があり、フェローシップMLCののち、役員会があります。



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