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執筆者の写真明裕 橘内

2024年8月4日 聖霊降臨後第11主日

2024年8月4日 聖霊降臨後第11主日

聖書交読 詩編78編23~29節(旧約p914)

司)78:23 それでもなお、神は上から雲に命じ/天の扉を開き

会) 78:24 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり

司) 78:25 人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。

会) 78:26 神は東風を天から送り/御力をもって南風を起こし

司) 78:27 彼らの上に肉を塵のように降らせ/翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ

会) 78:28 彼らの陣営の中に/宿る所の周りに落としてくださった。

全) 78:29 彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった。

 

聖書朗読 エフェソ4章1~16節(新約p355)

4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、

 4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、

 4:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。

 4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。

 4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、

 4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

 4:7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。

 4:8 そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。

 4:9 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。

 4:10 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。

 4:11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。

 4:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、

 4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

 4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、

 4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

 4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

 

説教 「一つであること」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

相変わらず災害級の暑さが続いております。そのような中、皆さんよくお越しくださいました。暑いと言えばパリオリンピックですね。連日数々のドラマが生まれています。このような時期、もしかして、日本選手のメダル獲得になぞらえ、「信仰生活の金メダルを目指そう」といったようなテーマで教会で語られることがあるかもしれませんね。

 

そのような中で開かれた本日の聖書の箇所は、「一つであること」について語ります。改めて、御言葉に目を移していきたいと思います。

 

開いておりますのは、パウロがエフェソにいる信徒たちに書き送った手紙の一部です。1節の「主に結ばれて囚人となっているわたし」というのが、パウロのことです。この表現は、文字通り、パウロが囚人になっていることを表しています。パウロは2度、ローマの獄中にいたことがあると言われているのですが、これは第一回目、ローマで2年ほど獄中生活を送っていた頃に書かれた手紙だとされています。彼はその信仰のゆえに、本当に囚人となっていたのです。ただ、比喩的に、キリストのとりこになっている、という意味でもあるでしょう。私たちも、キリストの十字架に恩義を感じ、私は主に捕らわれている、と告白する者でありたいものです。

 

先ほど、「信仰生活の金メダル」という言葉を使いましたが、4章1節から3節の部分は、「立派に信仰生活を送って、神様から義の栄冠を得る」という意味において、「信仰生活の金メダルを目指しましょう」と語られやすい部分でもあります。

 

要するに、「私たちは神様から招かれた。これは大きな恵みであるから、その招きにふさわしく歩もう」(1節)ということです。それを具体的に表すと、2,3節にある、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」ということになるわけです。

 

ただ、気を付けなければならないのは、これが感謝からくる喜びの行いではなくて、律法的な、「このようにやればいいんでしょ」といった感じの義務的な行いになってしまうことです。本来なら、私たちを救ってくださった方がパウロを通して教えておられる教えなのですから、行っていけば幸いになるはずなのです。一切高ぶらずに柔和で寛容に生きることは、世間の荒波の中でポキッと折られることなく、しなやかに、正面から向かって来る様々なものをうまくかわしながら飄々と生きることにつながるはずです。愛をもって忍耐し、きずなを大事にして生きていて、それが直接の引き金になって何か大きなトラブルに巻き込まれることがあるでしょうか。なのに、イエス様の十字架によって義とされながらもなお古い自分の残像に悩まされる私たちは、プライドを捨てきれなかったり、どこか素直でなかったりする部分があるゆえに、イエス様の教えを利得の手段のようにしたり、それで自分の存在を確かめたりしようとするので、守っているうちに苦しくなったりして、「御言葉を行うのは窮屈だ」などと言い出すのです。これらの行いの土台はキリストの十字架による福音にあるので、「さあ、信仰生活のメダルを!」といった、自らの掛け声だけでは、実は十分ではないのです。常に、キリストの十字架を思い起こすようにいたしましょう。

さて、すでにお気づきのように、本日の聖書箇所では、「一つ」という言葉が繰り返されており、強調されていることがわかります。それは、3節にある「霊による一致を保つように努めなさい」という勧めの実現のためである、と読んでみてはいかがでしょうか。一致するために、まず「体は一つ、霊は一つです」(4節)と言われているのです。私たちは一つの体、一つの霊を有しているのだから、一致できる、という論の進め方です。ここで「一つであること」の大事さが示されています。私たちが一つであることによって、私たちは様々な違いを乗り越えて、一致できる、ということなのです。オリンピックを通して、多様性とは言いながら、実は乗り越えがたい違いがある、ということを知らされてもいます。現実世界はそうなのです。だからこそ、私たちは同じ信仰をいただいていることによって、まるでひとつの体、ひとつの霊であるかのようになることがいかに尊いことであるかを知り、それによって一致する道が開かれていることに感謝するのです。

 

ここで「一つの希望にあずかるようにと招かれている」(4節)とありますが、その希望とは、ここでは復活の希望のことでしょう。私たちの体は滅んでいきますが、キリストが十字架の後復活されたことによって、私たちには復活の希望があります。それもまた、私たちを一致に導く大きな要因です。私たちは復活の希望によって、一つになる、ということです。

 

続く5,6節でも、「一つ」が繰り返されていることがわかります。日本語訳では丁寧に、主語によって、「一人」や「唯一」と訳されていますが、どれも「一つ」と訳せる言葉です。興味深いのは、ここで原文では2種類の「一つ」という言葉が使われていることです。それは、一般的な「一つ」という意味の言葉と、「唯一」という意味の言葉です。実は、「洗礼は一つ」のところの「一つ」が「唯一」というニュアンスを持つことばで、あとは、6節の「神は唯一」の所も含め、一般的な「一つ」という言葉が使われているのです。ちなみに、先ほどの「一つの希望」は、厳密に訳せば、「唯一の希望」ということになります。しかし、この辺りは、パウロの手紙が書かれた当時、どのぐらい意味の違いが強調されていたのかを知ることは難しく、あまり「一つ」という意味の単語をずっと繰り返し使うのも工夫がないので、時々「唯一」という意味の言葉を入れたのかもしれませんので、相互に置き換え可能な同義語と考えてもいいのかもしれません。今日は、あまり違いを強調せず、どれも「一つ」ということを表している、としたいと思います。そして、主語によって変えずに、「一つ」と表現することにします。

 

5,6節における「一つ」は、今度は神様に由来する一つである、というように言うこともできるでしょう。私たちの主である方、そしてその方が与えてくださる信仰、そしてそれに基づく洗礼。それらの究極的な原因である神様。これらはどれも一つずつのものだ、ということです。主は二つではない。ここでこの「主」とはキリストを指すと思われますが、私たちにとって救い主であるキリストは一つです。聖書は一つだけの信仰について語りますし、私たちに教えられているのは一つの洗礼だけです。そして、これらのものをすべて導き、その背後におられる神様も一つです。

 

このように、私たちの信仰生活になくてはならないもの、なくてはならない存在がすべて一つであるということは、私たちに「一つである」ということの大事さを教えるものであり、先程触れましたように、3節にある「一致」というものを後押しするものとなります。

 

7節では、「一つ」とは少々異なりますが、「わたしたち一人一人」に、恵みが与えられている、と語られています。「集団」と、その反対の「個」ということで考えると、「私たちみんな」といった集団ではなく、そのうちの一人一人、ということで、個の方が重視されていることがわかります。その点では、今日の御言葉のテーマである「一つであること」と「一人」ということで、つながる点があるかもしれません。しかも、その恵みは、「キリストの賜物のはかりに従って」与えられる、とあります。これは、キリストが私たち一人一人を個人としてよく見ていてくださって、ふさわしい分の恵みを与えてくださる、ということを示唆しています。

 

このように、7節で「賜物」という言葉が使われたために、8節でその賜物の由来について語られています。7節とそれ以降のつながりは、ここにあります。

 

8節の「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」とは、十字架と復活の後、イエス様が天に帰られたこと、すなわち昇天のことを描いた表現です。イエス様の昇天の際に、人々に賜物を分け与えられた。その賜物のはかりに従って、恵みをくださる、ということです。しかも、その賜物は、11節においては、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師と」するような賜物である、とも描写されています。

 

ここで重要なのは、イエス様が私たちのために降りて来てくださった、という事実です。4章9節で、「 『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか」とパウロがわざわざ指摘しているように、パウロはイエス様が地上に降りておられた、すなわち、降りて来られたことを強調しています。そして「地上」を、「低い所」と呼んでいます。これは「高い所」と対比させて言っているのであって、本当は天の高いところにおられた神の御子のイエス様が、その身分も富も一切捨てて、あえて低い所に降りて来てくださったことを強調しているのです。これが、私たちが信仰者として、イエス様に従って正しく生活し、一切高ぶらず、柔和に過ごし、愛をもって忍耐し、平和のきずなを保って生きる動機となります。先ほど、このような行いの土台は福音にある、と言った通りで、私たちのために、高き所におられた方が降りて来てくださった、そして十字架にかかってくださった、ここに良い知らせがあるのです。これを聞いて、キリストがこの罪深い私のもとに来てくださったことを知り、感動して、キリストの愛に感化され、では私もその愛に基づいて生きてみようか、ということになるのです。

ところで、続く12,13節は、3節で言われていた一致が、キリストによって聖なる者とされた人々が「奉仕の業に適した者とされる」(12節)ことを目的としており、「信仰者が目指すものはすなわち奉仕である」ということを暗示しています。最終的には、私たちが「神の子に対する信仰と知識において一つのもの」(13節)となることが御心であって、それは同時に「成熟した人間」になることであり、「成長する」ことでもあるのです。信仰者の霊的一致は奉仕を目指しており、同時にそれは信仰者の成熟と成長を意味する、ということです。その成長とは、単なる人格的成長を越えて、「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで」の成長であると言われています。私たちは一つになって、そのようなキリストの豊かさにあずかるのです。ここに、私たちが一つであることの意味があるのです。

 

最後には、14節以下、霊的に一致して、主に仕える奉仕の面で成長し、ひとつとなった信仰者の歩む道のりが示されています。それは、第一に「十分に成熟し、成長しているので、もはや未熟な者ではない」ということ、そして第二に「愛に根差して真理を語る」ということであり、第三にそこからさらに改めて「成長」が語られ、「キリストに向かっての成長」ならびに「キリストの体としての教会の成長」が示されています。もちろんこれは、神様が与えてくださる成長です。キリストの体としての教会の成長に関しては、今神様は、園田伝道所の会堂取得という大きな恵みを通して実現していてくださいます。ますますこのことに感謝し、私たちは一致して主に仕える民として、歩みを進めてまいりましょう。

 

お祈りいたします。

天の父なる神様。暑い毎日が続いておりますが、私たちを守ってくださり、この礼拝の時に導いてくださって感謝します。体も一つ、霊も一つと、私たちが一つであることを御言葉で示してくださり、主はひとり、信仰は一つ、洗礼も一つ、神様も唯一であると示してくださいました。この信仰において、ますます一致へと導いていてくださるようにお願いします。この一致は主への奉仕に私たちを向かわせます。私たちを一つになって主に仕える群れとしてますます成長させてください。キリストの体としての教会の成長を導いてくださいますように。今園田伝道所の会堂取得に向けて進んでおりますが、そのように成長させてくださって感謝します。様々な手続きや準備を導いてください。暑い毎日を生き抜いていく私たちにも、その力をお与えくださり、いやしの必要なところにはいやしを与えてくださり、解決が必要な事柄にはふさわしい解決をお与えください。大きな災害の被災地に主の慈しみがあり、また戦火の絶えない地に平和が訪れますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・本日は昼食会があり、その後婦人会があります。

・来週は転入式があります。

 



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