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執筆者の写真明裕 橘内

2024年8月25日 聖霊降臨後第14主日


聖書交読 詩編34編16~23節(旧約p865)

司)34:16 主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。

会) 34:17 主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。

司) 34:18 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。

会) 34:19 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。

司) 34:20 主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し

会) 34:21 骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。

司) 34:22 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。

全) 34:23 主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。

 

聖書朗読 ヨハネ6章60~69節(新約p176)

6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

 6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。

 6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。

 6:63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。

 6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

 6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

 6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。

 6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。

 6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」


説教 「イエス様のもとへ」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

先週は下山神学生の説教でした。宣教協力で他教会に招かれた時、御影での説教者がいつも与えられていることに感謝をしています。今日は、先週下山神学生が取り上げてくださった部分の続きということになります。


本日選びました福音書の箇所は60節からですが、「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った」とあり、この前の部分、先ほども触れましたように、先週下山神学生が説教で触れた部分に書かれている部分と関連が深いことがわかります。具体的に「これ」は何を指しているかと言えば、ひとつには55節の「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」といったセンセーショナルな御言葉が考えられます。下山神学生も語っておられたように、当時ユダヤでは律法で血を食べることが禁じられていましたので、このような御言葉に嫌悪感を抱くユダヤ人が多かったことは想像に難くありません。また、58節にある「これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」という御言葉からすると、出エジプト記に記されているマナのことを指していると思われますが、出エジプトの出来事の後、奇跡的にイスラエルの人々を養い、多くの人が感謝し、憧れてきたマナを「先祖が食べたのに死んでしまったようなもの」と断じているので、これはまた多くのユダヤ人にとってつまずきとなったと思われます。

 

ここで、イエス様を「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と非難している「弟子たちの多くの者」というのは、もちろんいわゆる12弟子や12使徒と呼ばれる人々とは異なります。彼らは結局はイエス様から離れて行ってしまったわけですが、どうしてイエス様の言葉を「実にひどい話だ」と言えたのか。また、イエス様のお話に対して「こんな話を聞いていられようか」と言ってしまうのはどんな時か、考えてみたいのです。イエス様に対する基本的な信頼に欠けており、表面的なつながりだけで来た人々は、イエス様の言葉もまた表面的にだけとらえる、ということがあったのではないでしょうか。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」と言われても、イエス様に対する信頼があるなら、「イエス様がこのようにおっしゃるということは、きっと何か深い意味があるに違いない」と思って踏みとどまることができたはずです。「実にひどい話だ」であるとか、「こんな話を聞いていられようか」などと言い出す人が周りにいても、「ここはイエス様を信じて、もう少し一緒にいてみよう」と思うことができたはずです。

 

続く61節の「弟子たち」も、12弟子のことではありません。イエス様と浅くつながっていただけの人々のことです。彼らはイエス様に対してつぶやいていました。それはイエス様がはっきり気づかれるほどでした。それを見て、イエス様は「あなたがたはこのことにつまずくのか」と尋ねます。もうこの段階では、はっきり「つまずいている」と言ってもいいぐらいの状態だったと思われます。

 

「つぶやく」とは、単に小声で言う、ということを越えて、「満足せずに不平を言う」ということを意味します。12弟子以外の弟子たちは、イエス様の言葉に満足できなかったのです。そして、「ひどい話だ」であるとか、「聞いていられない」などと、不平を言ったわけです。また、「つまずく」とは、もとの言葉は「スキャンダル」の語源でもあり、「道に妨げの石があって、それで行く手を阻まれること」を意味します。それが転じて、「罪に陥れられてしまうこと」「何か、あるいは誰かに対して信頼を失うこと、あるいはそのように仕向けられること」も意味するようになります。イエス様と表面的にしかかかわりを持っていなかった弟子たちは、結局はイエス様に対する信頼を失う、ということになってしまったのです。ということは、「あなたがたはこのことにつまずくのか」というイエス様の問いかけは、「あなたがたはこのことで、私に対する信頼を失うのか」という言葉でもあったわけです。

 

続く62節の「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……」とは、ヨハネの福音書らしい謎めいた言葉でありますが、「私が話した言葉ぐらいでつまずいているなら、ましてわたしが天に昇るのを見るような時には、一体どうするのか」といった意味なのでしょう。イエス様は、十字架と復活による救いのわざの達成以降のことまで、この時点からはるかに見通しておられることになります。イエス様は天の所から降りて来られて、救いの実現のために十字架と復活を経験されますが、それが正しいやり方であることを見れば、父なる神様としてはもう、天の世界にイエス様を連れ帰すしかありません。そのことがイエス様の昇天の表すところの一面であるわけですが、事故でもたまたまでもなく、ある意味で当然の権利として、堂々とイエス様が地上から天へと帰っていかれるのを目の当りにしたら、それはイエス様の言葉以上に、当時の人々にとってどんなにセンセーショナルなことであったか。人間ごときが天に昇るなどありえない、しかし、人の姿をしたイエス様が天に昇って行かれるのは想像もできなかったことなのです。イエス様はここで、ご自分の栄光の姿を前もって少し見せておられる、ということにもなるでしょう。 

 

63節は、53節の「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」といったイエス様の御言葉の繁栄でしょう。ここで引用符付きの“霊”は、新共同訳聖書の独特の書き方で、新改訳聖書では「御霊」と訳されることが多いようです。神の聖なる霊、聖霊のことですが、すぐ後に「肉は何の役にも立たない」と言われていること、加えて後半で「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われていることからすると、「肉」に対比される「霊」のこと、と受け止めてもよいかと思います。イエス様のお体と血をいただくことは、飲食なのですから肉体のことであるようで、実は霊的なことである、という理解も成り立ちます。イエス様のお体と血をいただく聖餐式がたいへん厳粛なものであり、空腹を満たすために行われたり、私たちの健康増進を図って行われたりするものではないことを、私たちは知っています。そのように、肉体以外の、目に見えない、精神面での効果を期待することを、時々私たちは「霊的である」と言ったりいたします。聖餐式は「霊的な飲食である」という不思議な表現をすることもあります。

 

それに対し、「肉は何の役にも立たない」とは何とも素っ気ないような気がしますが、人間の思いやその意志、決断ぐらいでは、目に見えない世界に影響など与えることは出来ませんよ、ということなのでしょう。

 

反対に、この節の後半で、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われているのは重要です。肉は何の役にも立たないものですが、霊は命を与える。そして、イエス様の言葉が霊である。それは、目に見えないものだ、という意味でもあり、目に見えない世界にインパクトを与えるものであることを表しているのです。この物質に溢れた世界で、私たちは多くの人が気付き始めているように、目に見えない世界に目を留めていくことが、このところで勧められているのです。

 

このような尊い命の言葉を語ってくださるイエス様ですが、「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」と告げておられるのが64節です。私たちは今、イエス様を見ないで信じ、伝えていますので、その点での困難があるように思います。むしろイエス様の時代は、イエス様を見ることができ、その息遣いを感じることができたわけですから、それはもう、イエス様に会う人、会う人皆がイエス様を信じたのではないか、と思ったりすることもあるかもしれません。ですが、その語られる言葉が霊であるので、永遠の世界を垣間見せていただき、また命の言葉を語られるのを聞いて本当に命が躍動していくのを体験したのではないかと思われる当時の人々で、「信じない者たちもいる」というのですから、驚きです。ここでは、この「信じない者たち」というのは、「イエス様を知らない人々」ではないことに注意しておきましょう。彼らは、イエス様を知っていたのです。見て、その言葉を聞いていたのです。その上で、「私は信じない」と決めた。その人々が、「信じない者たち」であったのです。その点で言うと、多くの日本人はイエス様を知らないだけの場合が多いですから、その人々を指して「信じない者たち」と断じることはできません。

 

もっと進んで、「御自分を裏切る者」もいる、そしてそれが誰だか知っている、というのがイエス様でした。「裏切る」という言葉は少しきついかもしれませんが、ここでは「ほかの人の手に渡す」という意味です。変な表現かもしれませんが、イエス様が私の手のうちにある時は、その命の言葉も、私の内にあって、私を生かし、永遠の世界へと導きます。しかし、裏切るとは他人の手に渡すことですから、そのような素晴らしい恵みをみすみす他人の手に渡してしまうことになります。悪いこと、というより、実にもったいないことであるようにも思えてまいります。

 

さて、今までの部分を振り返りますと、本日の福音書の箇所では、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(6章55節)といったイエス様の御言葉を巡って、イエス様から離れていこうとする弟子たちと、そうではなくイエス様のもとにとどまろうとする十二弟子の姿が対比されています。それは、読む者に、イエス様から離れるのか、イエス様のもとにとどまるのか、どちらなのか、と決断を迫るかのようです。

 

しかし、「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(65節)とイエス様ご自身がおっしゃるのも確かで、先ほども触れた「肉は何の役にも立たない」(63節)という御言葉にもあるように、肉の思いで「私はイエス様のもとにとどまる」といくら決断してもそれだけでは弱く、父なる神様のお許しがあって、それによってイエス様のもとへと導かれることが大事なのです。

 

ただ、このことは逆から言えば、「父からお許しがあれば、だれでもイエス様のもとへ行くことができる」という確信にもつながるものです。何も不安に思う必要はないのです。

 

最後ですが、イエス様の言葉を巡る騒動によって、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と66節には報告されています。この人々とは別に、67節では「十二人」という言葉が見られます。先ほども触れましたが、66節の「弟子たちの多く」が「12弟子」あるいは「12使徒」ではない、ということが、ここでも明らかにされています。

 

「イエス様と共に歩まない」というのは、もちろんイエス様の当時ではそのままの意味であったでしょう。弟子として、イエス様の行かれる所に私も行く、と言っていたのに、もうその話は聞くに堪えない、ということで、イエス様の行かれる所に一緒に行くのをやめたということです。もちろん、精神的にイエス様から離れた、すなわち信頼するのをやめた、ということも意味したでしょう。現代においては、この意味の方が強いことは明らかです。私たちが、もうイエス様を信頼するのをやめること、それが、イエス様から離れ去り、イエス様と共に歩まなくなることの意味です。

 

そのような心痛めるような状況の中で、イエス様はあえて12弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねられます。私にはできないことです。私だったら、妙に察してしまって、「聞くまでもなく、彼らも去ろうとしているのだろう」と思って、敢えて何も聞かない、という姿勢を取ってしまうような気もします。それが、波風立てないやり方だ、という感じです。しかし、イエス様は違う。ほかの弟子たちはともかく、あなたがたはどうなのか、ということで、十二人の弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいか」とお尋ねになるのです。その心中を思うと、複雑な気持ちです。しかし、イエス様は真実を知る勇気があった。もし、「いや、実は私たちも、離れようかと考えているのです」という答えが帰ってこようとも、それでも、恐れずに尋ねたのです。

 

ただ、この時、68節にあるように、返答は「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」というもので、ほっとします。シモン・ペトロが答えた、とありますが、彼だけではなく、12人の弟子たち皆が、同じように思っていたと信じたいと思います。彼らがこの時示した信仰は、「イエス様のもとへ」という信仰でした。困難に突き当たってどこかほかの所に行ってしまうのではなく、そのような時にも、「イエス様のもとへ行く」という信仰です。私たちにも、同じ信仰が必要です。そのことを、メッセージとして、今日の福音書の御言葉は語っています。そして、先ほどもお話ししたように、不安に思う必要は全くなく、私たちはすべて、父なる神様によって、イエス様のもとへと導かれているのです。

 

この時のペトロの言葉には、微妙なところがあります。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。この認識はOKです。63節の御言葉に基づいた認識です。ただ、「あなたこそ神の聖者である」という認識に関しては、そのように信じ、知っているということなのですけれども、現代の私たちが聞くと、「いや、イエス様はそれ以上の存在なのだけれども・・・」と思ってしまうところです。

 

ですから、結局は私たちの肉では、イエス様のことはすべてわからない、ということに尽きるのです。先にもお話ししましたが、63節の「肉は何の役にも立たない」という御言葉の通りなのです。私たちの肉では、イエス様は「神の聖者」ぐらいにしか見えない、ということです。父なる神様が私たちにイエス様が尊い救い主であることを示してくださり、私たちはイエス様のもとへ行き、救われて永遠の命を受けるのです。そのことに感謝して、イエス様のもとで永遠の命の言葉をいただき、聖餐の恵みに常にあずかって、幸いな信仰の歩みをこれからも続けてまいりましょう。

 

お祈りします。

天の父なる神様。あなたのお名前を賛美します。そのように礼拝の場が与えられ、週の初めの日にあなたから恵みをいただくことができ感謝いたします。イエス様の言葉がセンセーショナルに聞こえることがあって、人々がイエス様から離れて行く様子が描かれていましたが、どうか私たちは、イエス様から離れることがありませんように。イエス様のもとへといつも身を寄せることができますように導いてください。そして、イエス様の命の言葉をいただいて、永遠の命の希望のうちに毎日を過ごすことができますように。(用意されている聖餐の恵みを感謝します。これをもって、罪の赦しが確かになされていることを確信することができますように。)まだまだ暑い日が続きますし、台風が近づいているとも言われていますが、その中で私たちを日々害悪から守ってくだい。困難を抱えている人々にはその解決を、いやしの必要な人々にはいやしをお与えくださいますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・8月19日、園田伝道所の会堂となる物件の引き渡し手続きが完了しました。お祈りと尊いおささげものに感謝します。引き続き、オープンまでの必要な準備が守られますように。






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