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執筆者の写真明裕 橘内

2024年8月11日 聖霊降臨後第12主日


聖書交読 詩編34編2~9節(旧約p864)

司)34:2 どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。

会) 34:3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。

司) 34:4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。

会) 34:5 わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。

司) 34:6 主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。

会) 34:7 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。

司) 34:8 主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。

全) 34:9 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。

 

聖書朗読 エフェソ4章25~5章2節(新約p357)

4:25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。

 4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。

 4:27 悪魔にすきを与えてはなりません。

 4:28 盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。

 4:29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

 4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。

 4:31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。

 4:32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

 5:2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

 

説教 「愛と赦しの土台」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン

 

熱戦が繰り広げられてきたパリオリンピックも最終日となりました。日本はメダルラッシュで、金メダルの数は海外開催の大会では最多となっています。数々の感動的なドラマが見られる一方で、誹謗中傷の嵐も話題となりました。言葉が人を励まし、またその同じ言葉が、人を傷つける、ということです。実は、今日の聖書の箇所には、言葉について書かれている部分が割と多いのです。どのようなことが書いてあったか、一緒に振り返ってまいりましょう。

 

本日の聖書箇所には、信じる者の新しい歩みのために様々な勧めが記されています。その中に、言葉に関する教えも含まれている、ということです。そして、結論から先に言ってしまいますと、実はそれらは、4章32節にある「赦し合いなさい」、そして5章2節の「愛によって歩みなさい」との勧めにすべて集約される、というように読むこともできます。

 

まず4章25節ですが、「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と勧められています。先ほどオリンピックの誹謗中傷のことについて触れましたが、私たちはお互い何を語るのか、という時に、相手を貶めるのではなく、相手を認めて、尊重して語るということです。それが、隣人に対して真実を語る、ということの意味していることです。これは、愛によって歩み、赦し合っているからこそできることなのです。また、急に南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が出されましたが、お互いの間に愛があるからこそ、「不安にならなくていいんですよ」と語ることができる。私たちには神様がおられるのだから、そのお方に頼ることができる、という真実を、語ることができるのです。

 

この節の後半には、「わたしたちは、互いに体の一部なのです」と言われていますが、これは、「私たちは一つの体である」ということをはっきりと表しています。少し前の、4章1節から16節の部分に書かれていて、強調されていたことでした。信仰によって、私たちは一つである、ということです。私たちは信仰によって結び合わされて、教会という、キリストの体を構成しています。その中で私たちがお互いに体の一部であるとすると、そこには当然のことながら互いにいたわる、ということが出てきます。愛という本質を見失うと、偽りを捨て、真実を語れ、というのは厳しい戒めのようにも聞こえてきますが、愛を中心に考えれば、一つの体に連なる者として、当然のことである、と読むことができるようになります。

 

続く26節は非常に具体的な教えで、今日からでも自らの歩みに取り入れることができそうです。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」。なるほど、外側の現象によって大きく感情が動かされて、それが「怒り」と分類されるものになる、というのは人間である以上致し方ない、というところもあるのでしょう。しかし、大事なのはその後です。怒りの感情が起こった時に、何に気を付けるのか、ということです。怒りの感情が湧き上がってきたときに、人間なのだから仕方がない、ということで怒りのままに振舞うのか、「この怒りの感情に任せて罪を犯すことがないように」と気を付けるのか。これは後々大きな違いを生むことになるでしょう。怒って罪を犯すとは、例えば誰かに向かって大声を上げるとか、あるいは手を上げるとか、そのような、目に見える行為に走る、ということだと思いますが、このようなことを気を付けるのは、やはり相手がいる時です。同じく教会というキリストの体を形作る隣人がいて、その人々を愛し、赦すということの具体的な表れとして何が大事かということを考えるときに、大声を出すのはやめましょう、手を出したりしないように、ということになるわけです。

 

加えて、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」とあり、それぞれご家庭でひとつのルールにもできそうですが、怒りに任せた行為をしないように、ということとともに、「長時間怒ったままでいない」ということが、お互いの愛を大事にした歩みにおいて、とても重要なのだ、ということを教えています。

 

これは先にも申しましたように、たいへん具体的な教えで、道徳的・倫理的であり、どうしても「やる・やらない」という観点のみで語られることになりやすいものです。しかし、大事なのは、何をしないか、何をやめるかではありません。すなわち、「怒っても罪を犯さない」「日暮れまで怒ったままでいることをやめる」ということのみが重視され、その理由が忘れられてはいけない、ということです。ここでは、互いの愛、ということだけでなく、明確に、27節において「悪魔にすきを与えてはなりません」と言われているのです。これが、怒っても罪を犯さない、日暮れまで怒ったままでいない、ということを守る理由になる、ということです。怒りなど人間がコントロールできるものか、それは仕方ないんだ、ということで放っておくならば、それが「悪魔にすきを与える」という深刻な結果につながる、ということなのです。これは、言い換えれば、「私が何をし、何をしないかが、実は霊的な世界に大きな影響を与えている」ということにもなります。普段私たちは、自分たちのしていることで、悪魔に取り入るすきを与えているなど、ほとんど思わないことでしょう。そもそも、悪魔の存在自体がリアルでない、ということもあるかと思います。しかし、目に見えないだけで、感じていないだけで、私たちの周囲には霊的世界が広がっており、私たちがこの災害級の暑さの中で注意散漫になり、感情に任せた言動をしている間に、実は悪魔が活動するすきを与えてしまっており、やすやすと、神様と私たちの間の親密な関係が破られる、邪魔されるということがある、ということは、信仰生活を送るうえで知っておいていい霊的な知識、ということになるでしょう。

 

28節は、「盗むな」と禁止するだけでなく、「困っている人々に分け与えるように」というプラスの教えを伴うもので、これはどこかで見覚えがある、と思うと、ルターの小教理の、十戒の項の解説にも見られるものです。第七の戒めである「盗みをしてはいけません」に対して、ルターは「問答書」ですから、「 これはどういう意味ですか」という問いを設定したうえで、「私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。 ですから、私たちは隣人のお金や所有物を奪ったり、 詐欺によって得たり、 貧弱に作られたものを売りつけたりしてはいけません。 そうではなくて、 隣人が財産や経歴を増し加えたり、 守ったりできるように手助けしなければなりません」という答えを用意しています。禁止事項と、ではそれならどのように生活に生かすか、というプラスの教えの面が語られていることで共通しています。ルターの小教理が聖書に土台を置き、聖書の要約だと言われている理由でもあります。

 

ではなぜ、単に「盗むな」と禁止するだけでなく、「困っている人を助けよう」とプラス面の教えがなされているのでしょうか。それは、互いの間に愛があり、赦し合っているからにほかなりません。やはりこの部分における新しい生き方の勧めにも、愛や赦し、という重要な事柄が関係しているのです。

 

29節に進んでいきたいと思いますが、ここでは、自然災害の恐怖が身近にあるような危機の時代にあって、それに乗じて人をだます、不安に陥れるようなことがあってはならない、ということを語っている、と読むこともできます。「悪い言葉を一切口にしてはなりません」と禁止事項が述べられたうえで、「恵みの言葉を語る」というプラスの面も勧められていることは、先ほどと共通しています。「ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と勧められている通りです。ここでは、「必要に応じて」と言われていることに注目しておきたいと思います。恵みが与えられるように語ること、その人を造り上げるのに役立つ言葉を語ること、これは手放しで勧められているのではありません。あくまで、「必要に応じて」語るのです。逆に言えば、必要ない時は、恵みの言葉であっても、人を建て上げる言葉であっても、一切語らない、ぐらいの覚悟のいる勧めでもあると思います。このように、「必要に応じて」と配慮できるのは、やはりそこに愛があるからです。そうでなかったら、人はどんどん語り出してしまうのです。自分はいいことを語っている、と思い込んでしまうのです。そこに愛があるから、「今は控えておこう」「今度にしよう」ということが出てくるのであって、これは生まれながらの品性、ということを越えて、信仰によって新しく作り替えられた人格の中でなされていくことである、と言って差し支えないでしょう。

 

続く30節で、私たちは福音、すなわち良い知らせとして、何を受け取るのでしょうか。ここには「贖いの日」とありますが、贖いとは罪の赦しのことであり、ひいては救いのことを指しています。ここでは、救いには聖霊による保証がある、という素晴らしい良い知らせを受け取ることができます。ですから、そう考えますと、神の聖霊を悲しませたところで、救いは変わらない、という言い方もできないことはないのです。しかし、私たちをこの世に生み出してくださり、ひとりの御子イエス様によって贖ってくださった、すなわち救ってくださった神様を愛するがゆえに、その聖霊を悲しませるようなことはしない、ということでもあります。ですから、ここでは「神の聖霊を悲しませてはいけません」とは、単なる禁止事項とは異なります。むしろ信仰者の心構えと言いましょうか、神様を愛するがゆえに聖霊を悲しませるようなことはしないのだ、という覚悟を表明するものでもありましょう。

 

31節ですが、先程の29節の「悪い言葉を一切口にしてはなりません」と密接につながっていると思われます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」などを私たちが認識できるのは、それが言葉に出されるから、ということが多いと思います。無慈悲な言葉。憤り、怒っていることがひしひしと伝わってくる言葉。わめき、そしりは言葉として口から出されていることが前提となっています。これらを、「一切の悪意と一緒に」捨てるのです。これらの背後に悪意があることが暗示されています。

 

これらの勧めには、いずれも土台があります。それらは「ように」という言葉で示されており、4章32節で「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように」、5章2節で「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように」と言われています。これらが、赦し合い、愛によって歩む私たちの新しい歩みの土台となるのです。それらはいずれも神様とキリストの私たちへの働きかけを指しています。私たちが赦し合うことの土台は、神様がキリストの十字架によって、私たちを赦してくださったことにあります。また、私たちが愛によって歩むことができるのは、その土台として、キリストが私たちを愛して、ご自身をささげてくださったという事実があるからです。

 

そうなりますと、私たちが信仰者として新しい歩みをする、その土台は私たちにはないことがわかります。私たちはそうした方がどうやらいいらしい、ということで、赦したり、愛したりするのではないのです。むしろ、もともとの人間の姿としては、赦すのも面倒だし、愛するのも面倒。むしろ人と関わらないで生きていくか、ほどほどの距離を保ちながら、つかず離れずで関わっていった方が楽だ、という面もあるのです。それどころか、もっと悪意を持って、破壊的な方向で人とかかわりを持つ、ということもないとは言えません。しかし、そのような私たちであることを知ったうえで、神様はキリストを通して私たちを愛し、赦しておられる。その愛と赦しが土台となって、私たちは人を愛し、赦すのです。       

 

それでも、今日の御言葉には、もうひとつ良い知らせがあります。それは、5章1節には「神に愛されている子供だから、神に倣う者となりなさい」と言われていて、私たちがすでに神様に愛されている子供であることが明確にされていることです。聖霊の働きによって私たちの性質がすっかり変えられ、神様の子供とされており、それゆえに神様に倣う者となる可能性が与えられていることに驚きます。無理なことが要求されているのではないのです。神様の子供であるなら、父親である神様を倣うことは不可能ではないでしょう。だから、私たちは愛と赦しの歩みを続けることができるのです。「神に愛されている子供だから、神に倣う者となりなさい」。この御言葉が伝える希望、そこに秘められた可能性に感動します。すでに私たちは、神様に愛されている、神様の子供です。神様に倣って、神様の示してくださった愛と赦しを土台として、愛に生き、赦しの歩みを続けていきたいものです。

 

お祈りいたします。

天の父なる神様。

暑い毎日が続いていますが、このように私たちを守ってくださって、このように共に礼拝の恵みにあずかることができ、感謝いたします。御言葉を通して、私たちの新しい生活における愛と赦しの土台が、神様が示してくださった愛と赦しにあることを明確にしてくださり、感謝します。神様はイエス様の十字架によって、その愛と赦しを示してくださいました。いつもそのことを思い起こし、それを土台として、愛に根差し、赦し合う新しい歩みを続けていくことができますように。困難な中を通らざるを得ない人々の上に、限りない神様の慈しみがありますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

 

報告

・8月19日、園田伝道所の会堂となる物件の引き渡し手続きが行われます。お祈りください。




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