2024年7月7日 聖霊降臨後第七主日
- 明裕 橘内
- 2024年7月7日
- 読了時間: 14分
聖書交読 エゼキエル2章1~5節(旧約p1297)
司)2:1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」
会) 2:2 彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。
司) 2:3 主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。
会) 2:4 恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。
全) 2:5 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
聖書朗読 マルコ6章1~13節(新約p71)
6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。
6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
説教 「イエス様の驚き」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
先週は全国的に暑い日があり、災害級の暑さとも言われていまして、驚いたことでした。そのような中、皆さんが無事守られ、今朝もすでにかなりの暑さになっていますが、このように礼拝の場に足をお運びくださり、感謝いたします。
先週はまた、新紙幣の発行がありましたが、皆さんもうご覧になられたでしょうか。大きな変化ですが、それに伴う詐欺も横行しているようで、どんな機会をも人をだます機会にしてしまうという人間の姿に驚いてしまいます。イエス様はこのような状況をご覧になって驚かれるのでしょうか、どうでしょうか。
さて、驚くと言えば、今日の福音書の箇所には、何かに「驚く」人々が登場します。一方はイエス様の故郷の人々で、もう一方はイエス様ご自身です。イエス様の故郷の人々は、会堂でイエス様が教えておられるのを聞いて、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」(2節)と驚きました。続く「この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」との声は、まだ称賛の声に聞こえなくもありません。イエス様が会堂で教え始められた教えが、普段聞いているようなファリサイ派の人々の教えと異なることに気付き、それはどこから来たのか、と疑問に思う。そこから始まり、イエス様の知恵とその手で行われる奇跡にイエス様の故郷の人々は驚いています。
ただ、その声が「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(3節)というところまで及んでいくと、もはや驚いて尊敬する思いよりも、「この程度の身分の者に、なぜこれだけのことができるのか」といったような、イエス様を貶(おとし)めるような感情が入り混じってきていることに気付きます。「こどもの頃からあの人を知っている」という思いは、その人に対する親しさだけでなく、「だから、たいした存在ではないのだ」といった、根拠のない推測にも結び付きやすいものです。「出る杭は打たれる」という考え方とも関連しそうですが、あの人と私はそう違わない、そう思って人は自分を安心させるのでしょう。「あの人は私より優れている」とはなかなか思えないもので、そういった意味では、洗礼者ヨハネが最初から、イエス様を「わたしよりも優れた方」(マルコ1章7節)と呼び、そう認めていたのは、それこそ驚くべきことです。洗礼者ヨハネについては、また来週、詳しく見ていきます。
ここでイエス様が「大工」と呼ばれ、「マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟」であると言われ、「姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいる」とまで言われていることは、イエス様の地上でのご生涯についての、ごく限られた、貴重な情報であるということができます。ここで、イエス様が大工であると言われる時に、それは地上での父であるヨセフと同じ生業を継いだことを意味しているのかどうかであるとか、名前が挙げられている兄弟はいつ生まれたのか、兄なのか弟なのか、あるいは、なぜ姉妹たちに関しては名前が記されていないがなぜなのか、などといったことは、さほど重要なことではありません。むしろここでは、イエス様が確かに地上に存在されたということ、そして、孤高の存在として歩まれたのではなく、確かに家族の温かい交わりの中で、ある意味で実に人間らしく生きられたことを知ることの方が、はるかに重要です。言わずもがなのことではありますが、実在された救い主、ということです。
一方でイエス様は、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(4節)と言われた上で、故郷の「人々の不信仰に驚かれた」(6節)と報告されています。単に驚かれただけでなく、その不信仰に影響されて、故郷ではあまり奇跡ができなかったと言われています(5節)。「預言者が敬われないのは・・・」というのは、イエス様当時のイスラエルでの一般的な格言だったのではないかと言われます。もちろんイエス様はご自分のことを預言者だとは言っておられないのですが、周囲の人々がそのように見なしているのをご存知で、あえてこのように言われたのでしょう。2節、3節にある、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」という言葉に始まる故郷の人々の驚きの言葉は、イエス様の地上の生業や家族のことまで触れていますが、それら全体を通して、イエス様は「故郷で敬われない」と評価しているようです。それだけでなく、イエス様を敬っていないどころか、それは根深い不信仰につながるものでした。
そして、その不信仰をイエス様は驚いておられるのです。イエス様が、故郷の人々の信仰の深さとか、その行ないの気高さなどに驚かれたのではなく、不信仰に驚かれたとは、まったくもってマイナスのことであり、不名誉なことでした。その不信仰のゆえに「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)とマルコは記録していますが、不信仰の、何か白けたような雰囲気によってイエス様が影響され、力が発揮できなかったというよりは、もちろんそのようなこともあったでしょうけれども、むしろそのような不信仰の中で奇跡を行ったとしても、それを奇跡として受け取ってもらえないだろう、というイエス様側での判断があったのではないかと推察します。
そのような、不信仰に対するイエス様の驚きについて記された後で、何があったのか、ということです。今日の福音書の箇所の中で大事なのはそのことです。本来なら、奇跡だってお控えになったわけですし、そのまま何もなく、別の所に移動して終わり、ということになってもおかしくなかったような状況のはずです。それでも、イエス様は諦めずに「付近の村を巡り歩いてお教えになった」のです(6節)。そして更に、「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」(7節)とあります。これが私たちのイエス様の姿です。どうしたらそのようなことができるのだろうか、ということです。単に切り替えが早かったからとか、神様であるイエス様には何でもできた、ということで片づけることは出来ないと思います。
そこには、どうしても神の国の福音を広く伝えたい、というイエス様の熱意があったから、というのがその理由でしょう。たとえイエス様ご自身が奇跡ができなかったとしても、十二人を通して、奇跡が広がっていくのです。
そこで、マルコが単に「十二人」とだけ記していることに、注目しておきたいと思います。本日の箇所の冒頭、1節で、「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った」とありますから、ここで言われている十二人がイエス様の十二人の弟子たちであったことは想像に難くありません。それなのに、今日の聖書箇所では、マルコは繰り返し、「十二人」とだけ記しているのであって、十二弟子とも、十二使徒とも記していないのです。これはマルコに限ったことではないのですが、このような書き方はどうも意図的だったようです。十二人と言えば、イスラエルの人々はすぐイスラエルの十二部族のことを思いだしたことでしょう。イスラエルの族長と呼ばれたヤコブの十二人の息子に由来する十二部族のことです。それらがイスラエル民族を構成していました。それと同じように、今度はイエス様によって遣わされる十二人によって、新しいイスラエルが構成される、そのような思いがあったのではないでしょうか。その意味では、この福音書の箇所を読む私たちイエス様を信じる者たちもまた、新しいイスラエルと言えましょう。私たちが今は新しいイスラエルとして、神様からの愛を一身に受けるのです。
そのようにして遣わされた十二人は、徹底的に神様に信頼して宣教することを余儀なくされました。8節以降、「旅には杖一本のほか何も持たず・・・」という指示に始まり、どのような状態で十二人が派遣されたかが記されています。8,9節だけを確認しても、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」とありまして、かなり過酷な指示であったと見ることもできます。ここから、この宣教の旅自体が短期のものと想定されていた、という説もあるようです。現代においてこのような旅を実行しようものなら、どこに向かうかにもよりますが、まず大きな困難に立ち向かわなければならないことは確かです。イエス様の指示がいかに過酷であったかだけではなく、それを受けて、十二人がどれほど神様を信頼しなければならなかったかがよく伝わってきます。故郷の人々の不信仰を受けて、奇跡を差し控えられたイエス様でしたが、この十二人の派遣によって、神の国の福音は広がっていく。その時に必要だったのはひたすら神様に信頼する信仰であって、まさにそれは、故郷の人々の不信仰と鋭くコントラストを形成していたのです。
ここまでの過酷な宣教の働きに、どうして十二人は向かうことができたのか。自分たちこそ新しいイスラエルを構成する最初の十二人なのだ、という気概だけではそれは無理だったでしょう。そこには、イエス様の与えてくださる「権能」というものが関係していました。7節で、「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、・・・」と派遣の時の様子が記されていますが、ここに、「汚れた霊に対する権能」という言葉が見られます。もちろんこれは、汚れた霊が言うことを聞くようになる権能、ということです。それによって、汚れた霊のせいで宣教が妨げられることなく、宣教の道をひたすらまっすぐに進むことができるようになる、ということです。
ただ、汚れた霊に対する権能と言っても、そう書いてあるボタンがあって、もし汚れた霊がやってきた、というときに、それを押すと自動的にそれが言うことを聞くようになる、というわけではないわけですから、これにも信仰が必要だったわけです。「イエス様が、『あなたがたに汚れた霊に対する権能を与える』と言ってくださったけれども、実際はどうなのだろう」と思うのも無理はないのであって、実際に汚れた霊に出会ったときに、信仰を持って一歩踏み出し、勇気を持って「汚れた霊よ、静まれ」など命じる時にはじめて、その権能を本当に有していることがわかる、ということなのです。汚れた霊と言うのは、共同体において、その輪を乱す逸脱行動をする人の背後にあると考えられ、その人に「黙れ、静まれ」とイエス様の権能によって命じる時に、静かになれば、その権能を有している、と見なされたのでしょう。十二人は、授けられた権能を行使する上でも、信仰が求められたわけです。
そのようにして彼らが出て行って、2人で一組だったとのことですけれども、十二人ですから6組に分かれて、宣教していきました。このような、最初期における宣教ですが、12節に「悔い改めさせるために宣教した」と明確に記されているように、「悔い改め」を目的としていました。日本ではどうしてもこの「悔い改めに」にネガティブなイメージがあり、後悔する、あるいは日本人の好きな「反省」ということとつなげて考えてしまうことが多いように思います。しかし、この「悔い改め」とは、旧約聖書の伝統とのつながりで言うと、「戻る」「帰る」ということであり、かつて紀元前6世紀の捕囚期の預言者エゼキエルが、「悔い改めて、生きよ」と熱心に進めたように、「神様に戻って、生きよ」「神様に立ち帰って、生きよ」というメッセージだったのではないでしょうか。イエス様が派遣した、6組に分かれた新しいイスラエルは、方々で「神様に帰って、生きよ」と教えを宣べました。そしてそこには、「そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」と13節に記録されているように、目に見える具体的なしるしが生じたのです。すなわち、様々な理由から引き起こされていた、共同体を破壊するような逸脱行動は収まり、病人はいやされていったのです。
現代の私たちは、「悔い改めの宣教よりも、福音の宣教だ」と言うのでしょうか。また、悪霊を追い出すとか、病人をいやすとか、そういったことが現代に求められているのではない、と言うのでしょうか。悪霊を追い出す、というのが、実際どのような現象を指したのかはともかく、当時はそれが求められていたのでした。だから、宣教の実りがあったのです。今はイエス様の当時とは違って医療が発達しており、教会とは別の領域で病に苦しむ人々を受け持つようになったのだから、教会はそれとは別のことをするのだ、という考え方もあるでしょう。このように、悪霊を追い出すことも、病人をいやすことも、時代が変わった、と受け止めてしまっては、ここでイエス様が伝えようとしておられることをとらえきれずに終わってしまいます。ここでは、実際に何が起こったかということよりも、信仰が働いていた、ということに注目すべきです。悪霊を追い出し、病人を致した十二人にも、悪霊を追い出してもらった人々、いやしてもらった病人たちの間にも、信仰があった。信仰とは、神様への深い信頼です。そしてそれは、イエス様の故郷の人々の不信仰と鋭く対比されているのです。
ですから、ここで私たちが受け取るメッセージも、「ひたすら神様に頼って生きる」ということになるはずです。何も持たずに、また、何の経験もなく宣教の旅に出た弟子たちは、もう神様を信頼せずにはいられない状況に置かれていました。病の人々も、満足な治療も受けられず、あとは神様に頼るしかない、というところにいたのです。この姿が、私たちにも訴えかけてきます。信仰の必要であることを訴えてくるのです。私たちの目の前に、どうしても動かしたい山があるでしょうか。今週の歩みを見通した時に、不安があり、これは一人でできるだろうか、と心配なことが待っているでしょうか。そのような時、イエス様の弟子たち同様、「私の信仰を増してください」と祈りましょう。そして、神様から信仰をいただいて、私たちも、ひたすら神様に信頼して、毎日の歩みを続けていくのです。そのようにして、いつか私たちの信仰に、イエス様が驚くほどになったら幸いですね。
お祈りいたします。
天の父なる神様。たいへん暑い中ではありましたが、今朝もこのように共に集まりまして、御言葉に聞き入ることができまして感謝いたします。私たちも、イエス様の故郷の人々同様、イエス様に驚かれるほどの不信仰の存在に過ぎないかもしれません。どうか私たちの信仰を増してください。そして、午後には園田伝道所の会堂取得の件で臨時総会がありますが、私たちの目の前にあるそのような大きな神様の働きに向かって、一致して進んでいくことができるように助けてください。それ以外にも、それぞれが、様々な生きにくさを抱えながら毎日の歩みを続けているかと思います。この災害級の暑さもそのうちのひとつかもしれません。あるいは人間関係のうちに悩みを抱えているでしょうか。そういった中で、神様から信仰をいただき、ひたすら神様に頼って歩み続けることができるように、導いてくださるようお願いします。今日もまた、災害や戦争によって過酷な状況下に置かれている人々に、神様の慈しみが注がれますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日礼拝後、園田伝道所の会堂取得について臨時総会を行います。ご出席ください。

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