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執筆者の写真明裕 橘内

2024年7月28日 聖霊降臨後第10主日


聖書交読 詩編145編10~16節(旧約p985)

司)145:10 主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ

会) 145:11 あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。

司) 145:12 その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。

会) 145:13 あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。

司) 145:14 主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。

会) 145:15 ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。

全) 145:16 すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。


聖書朗読 エフェソ3章14~21節(新約p355)

3:14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。

3:15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。

3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、

3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、

3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

3:20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、

3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


説教 「キリストの愛」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


本当に暑い毎日が続いております。そのような中、皆様が無事集われたこと、神様の守りに感謝いたします。


本日午後は園田伝道所礼拝において洗礼式があります。親子三代にわたる洗礼式です。ぜひ皆さん、お祈りください。洗礼式は、洗礼を受ける方々だけに関係があるのではありません。すでに洗礼を受けた私たちにとっても、自らの洗礼の時の恵みを思い出す時でもあります。もちろん、赤ちゃんの頃で覚えていない、という方もあろうかと思いますが、幼き時に洗礼を受けた、という事実を思い起こすのです。洗礼は信仰生活のスタートであり、洗礼によって罪と死と悪魔から解放され、永遠の救いをいただくのです。


この洗礼の土台には、キリストの深い愛があります。ちょうど今日開いている聖書の箇所は、キリストの愛について語っています。


本日の聖書箇所は、エフェソの信徒たちへ送ったパウロの手紙の中で、パウロの祈りが記されている部分です。その中で、「愛」が強調されていることは確かで、17節から19節までで、愛について触れられています。その大事な愛について触れる前に、14~16節を見ていきたいと思います。


まずは、パウロの祈りの姿勢です。彼は、「ひざまずいて祈る」と書きました。私たちは現代、あまり祈り姿勢について気にしません。しかし、パウロの当時は「祈ると言えばひざまずく」というように、祈りの姿勢も決まっていたのではないでしょうか。まだ若い頃に東京の方におりました頃、クリスチャンの友人に連れられてインターナショナルな祈祷会に参加したことがあるのですが、リラックスして、寝そべってお祈りしている人までいて、驚きました。祈りの姿勢に決まりはないので自由ではありますが、神様への敬意と共に祈る人々への配慮は必要でしょう。パウロがひざまずいたから素晴らしいのではなく、その姿勢を通して神様への敬意と信心を表した、ということが大事なのです。


パウロの願いは、「内なる人が強められること」でした。この内なる人が強められれば、おどおどと自信なく過ごすこともありません。内なる声に耳を傾け、確信を持って過ごすことができます。このことを、キリストの父であり、私たちの父でもある方が、「その豊かな栄光に従い、その霊により」(16節)実現してくださる。神様の輝かしい栄光も、その霊も、私から遠く離れているのではなく、私の内側を強めるために、常に私たちの近くでその効果を発揮しているのです。


それでは、いよいよ今日のテーマである愛のことについて触れられている17節からの所に入って行きましょう。


17節で触れられている愛は、一般的な愛のこととも思われますが、18,19節で取り上げられている愛は「キリストの愛」のことです。


17節では、16節の「内なる人が強められる」という教えが発展して、「心の内にキリストが住むようになる」ということにまで話が及んでいます。そのように、心の中という、私たちのいちばん近くにキリストがいてくださる、しかも短期滞在ではなくて住んでくださる、という驚くべき恵みがあってこそ、それによって私たち信仰者が愛に根差し、愛にしっかりと立つ者となる、ということが示されています。ここでは単に「愛」と言われ、18節では「キリストの愛」と明確に言われていますから、先ほど申しあげた通り、ここでの「愛」は一般的な愛であるとも考えられます。ですが、もちろんその土台はキリストにあります。心にキリストが住んでくださるまでキリストと近くあることで、その十字架の愛に深く触れて心満たされ、心が耕されて、柔らかな、実りある愛の心を持つようになり、それによって根差し、愛を大切にして生きるようになる、ということでしょう。


そして、続く18節が、キリストの愛を理解することができるようになるように、という祈りとなっています。キリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るように」なることができるように、パウロは祈っています。


愛について、その深さについて語られることはありますし、時にその広さについて触れることもないわけではありませんが、愛の「長さ、高さ」という表現は普段あまりいたしません。ここで表されているのはまさに三次元的な、3Dの愛であって、それこそが「人の知識をはるかに超えるこの愛」と表現される理由でもあります。


この愛は、すでに「人の知識をはるかに超える」と言われていますので、人間が簡単に想像することのできないほどの大きな愛、ということなのでしょう。しかし、少しでもイメージできるように、今日はついこの前始まった、パリオリンピックを例にとって、少し想像を膨らませてみたいと思います。


パリオリンピックが開幕しまして、昨日の土曜日には開会式の様子が盛んに放映されていました。その中で、参加国が入場してくるところを見ていますと、本当に多くの国がオリンピックに参加していることがわかります。今まで聞いていたのと名前が変わっている国も多くあります。もちろん、今まで知らなかった国もあります。そのすべてにキリストの愛が及んでいるのです。もちろん、オリンピックに参加していない国にも、キリストの罪の赦しの愛は及んでいます。まさに、キリストの愛の広さ、深さを思わせるものです。


また、そこから発展して、世界の国々のことで言うと、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」とは、どんなに広い国土でも、どれだけ長い国土でも、その国にどんなに高い山、高地があろうと、どんなに深い谷があろうと、そこにもキリストの愛が及ぶ、という感覚かもしれないですね。


あるいは、そこに住む人々について、キリストの愛は、広い見識を得ようとしている人に、そんなに視野を広げなくても、キリストだけ見ていればいい、などと心の狭いことは言わず、そのような人にも臨むのであり、また、この地上で旅人として長い道のりを歩もうとしている人にも寄り添い、高い志を持って進む人々にはその支えとなり、深い悲しみを抱えている人には、同じ世の悲しみを味わったキリストだからこそ、「わかるよ」と言ってくださって、深い慰めを与えてくださる、そういったものなのではないでしょうか。


このような人の知識をはるかに超える愛、すなわち言い換えれば人知を超えた愛は、訓練や鋭い自己意識によって知ることができる類のものではありません。人間が、自ら知ることはできないのです。だから、祈りが必要なのです。「その愛を知ることができるように」という祈りによって知らされるものです。だからパウロは、ここで愛について説明するのではなく、祈っているのです。


ここで、なぜこのキリストの愛が人知を超えているか、ということも考えておきましょう。人間の捉えられる範囲内の愛であれば、それはさほど大きな愛、というわけではないのでしょう。それに、人間は何かと自分の手柄にしがちなので、私の知恵で、私の理解力でキリストの愛を捉えた、と自慢するのでしょう。それもまた虚しいものです。そうならないためにも、キリストの愛は人知を超えたものである必要があるのです。


私たちはそのような人知を超えたキリストの愛を受けて、ひとりひとりが救われました。私たちは、また私たちの心は、それぞれ違います。どのようにして自らの世界を広げてきたのか、どんなことに長く携わってきたのか、何に対して関心が高いのか、どんな深いところで神様を求めて来たのか、家族でも異なります。でも、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さはどんな人にもぴったり当てはまって、その心を捉えて離さず、慰め、いやして救いへと導いたのです。そして私たちはその愛によって満たされ、心豊かに歩むことができるのです。「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」とありますから、私たちは神様の豊かさによって、どんな人でも、すっかり満たされるのです。


最後の20,21節を残すのみとなりました。この部分は、父なる神様を高らかに賛美する、偉大なる頌栄であると言うことができます。


まず、20節の前半には「わたしたちの内に働く御力」とありますが、私たちの内なる人を強め、内にキリストが住むようにしてくださり、人知を超えたキリストの愛が働き、神様の豊かさによって私たちがあふれるばかりに満たされるというのですから、このことも理解できるものです。しかも、後半は私たちにとって気になる「願いがかなうかどうか」ということが話題となっていて、ここでは何と父なる神様が、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」であるとして紹介されています。


私たちはこのことを、正面から受け止めているでしょうか。どこかで話半分と言うか、ある程度の所で期待するのはやめておこう、願いがかなわなかったときに傷つくから、と思っているところはないでしょうか。思い出したいのは、キリストの愛の大きさです。キリストの愛の広さ、長さ、高さ深さは、単に私たちを感心させるとか、驚かせるためにあるのではありません。それは実際に私たち一人一人に働いて、私たちの深いところで私たちを慰め、励まし、感化し、いやし、満たしていくのです。そこまでの愛が迫っていて、神様が私たちの願いを軽くあしらって、かなえないままで置いておくようなことがあり得るでしょうか。時間はかかるかもしれない。私たちが願った通りではないかもしれない。でも、ここでは神様は自信を持って、私たちを裏切ることなく、私たちが求めたり、思ったりすることすべてをかなえることができる、と約束なさいます。しかも、私たちの想像をはるかに超えてかなえてくださる。園田の会堂のことも、求めて祈ってきた時に、奇跡的に道が開かれ、実現へと導かれてきました。信じて祈ってきた時に、家族の救いが実現しました。これが、キリストの大きな愛によるものでなかったら、何でしょうか。


お祈りいたします。

天の父なる神様。今日も暑い中ではありましたが、この週の初めの日、私たちを礼拝に招いてくださり感謝いたします。洗礼式を感謝します。洗礼を受けられる(受けられた)お一人お一人に、主の豊かな恵みと祝福が留まりますように。私たち一人一人が、人知を超えたキリストの愛の、その広さ、長さ、高さ、深さを神様によって理解して、満たされて歩むことができるように導いてください。暑い毎日が続いておりますので、どうか私たちの健康をお支えください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・来週は礼拝後、昼食会、婦人会があって、その後役員会となります。




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