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執筆者の写真明裕 橘内

2024年7月21日 聖霊降臨後第九主日


聖書交読 詩編23編(旧約p854)

司)23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

会) 23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

司) 23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

会) 23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

司) 23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

全) 23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

聖書朗読 エフェソ2章11~22節(新約p354)

2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。

2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。

2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、

2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、

2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

2:17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。

2:18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、

2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、

2:21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。

2:22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。


※本日は馬渕主事の説教の要約を掲載します。


説教 「私にとっての異邦人」


私たちは、往々にして、自らと異なる人々との交わりに入ることを躊躇い、避けようとします。しかし、今日の聖書は、そのような信仰の持ち方を薦めてはいません。ここで描かれているのは、ユダヤ人と、彼らとはさまざまな点で大きく異なるギリシャ人との関係についてです。当時の地中海の周辺世界にあって、この両者は、ある意味で正反対とも言えるような関係がありました。そして、その際に大きな問題となったのが、割礼のありなしだったのです。しかしパウロは、はっきりと言い切ります。「肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉は人からではなく、神からくるのです」と。


パウロはさらに「キリストこそが私たちの平和だ」と続けます。キリストが「敵意」という隔ての壁を取り壊されるのです。また、そのことが可能となるのは、十字架を通して、神と和解させられた結果、その敵意は滅ぼされたと述べるのです。ここで説かれていることは、異なる人々との間で、よい関係を築こうとするならば、その両者の直接的な関係を人間の力や知恵でもってよいものにすることには、限界がある、いや根本的な解決には至らないということです。パウロは語ります。「遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、キリストはおいでになり、平和の福音を告げ知らされました」。そのこと故に、私たちは皆、外国人でも寄留者でもなく、神の家族であるのです。



報告

・本日午後は青年会主催の聖書研究会です。来週午後は、三浦綾子読書会です。



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