top of page

2024年7月14日 聖霊降臨後第八主日

  • 執筆者の写真: 明裕 橘内
    明裕 橘内
  • 2024年7月14日
  • 読了時間: 13分

聖書交読 詩編85編9~14節(旧約p922)

司)85:9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

会) 85:10 主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。

司) 85:11 慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし

会) 85:12 まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。

司) 85:13 主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。

全) 85:14 正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。

聖書朗読 マルコ6章14~29節(新約p71)

6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。

6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。

6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。

6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。

6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。

6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、

6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、

6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。

6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。

6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。

6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。

6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、

6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。

6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。



説教 「これは始まりに過ぎない」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


先週は礼拝後に園田伝道所の会堂取得の件で臨時総会が開催されました。お祈りくださり、ご出席くださり感謝します。出席者全員一致で候補の物件の購入が議決され、無事先週金曜日、12日の午前に契約を済ませてまいりました。お祈り感謝いたします。契約に先立ち、重要事項の説明を受けておりました時に、不動産関係の話題でありながら、ふと聞きなじみのある言葉を耳にしました。それは、「ふくいん」でした。もちろんそれは、不動産の説明ですから、「道幅」の意味の「幅員」であったわけですけれども、私はふと私たちを救う良い知らせとしての「福音」の方もふと思い浮かべました。今回の会堂取得が、ぜひ福音の前進につながるよう、願うものです。


さて、本日の福音書の箇所をご一緒に見てまいりましょう。故郷では尊敬されなかったイエス様ではありましたが、十二人の派遣などもあって名声を高め、「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」(14節)と言われるほどになりました。ちなみにこのヘロデ王とはイエス様お誕生の頃のヘロデ大王のことではなく、この当時ガリラヤの領主をつとめていたヘロデ・アンティパスのことです。


そのように、イエス様の名声が高まるのはいいのですが、しかし、それによって、ある悲しい出来事が明るみに出ます。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」(同節)、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」(16節)といった声からわかるように、イエス様のための道備えをした重要人物、福音書の冒頭で活躍を見せた洗礼者ヨハネが、すでにこの世にいないことが明らかになるのです。この部分は、まずはそのような声を通して、先に洗礼者ヨハネの死が暗示され、その後で、彼の死の次第が具体的に語られる、という形式になっています。


17節からは、言ってみれば回想シーンのようなものになっています。物語はまだヨハネが存命中の時にさかのぼり、まず彼が捕えられ、牢につながれていることが描かれ、なぜそうなったのか、その理由があとから述べられます。彼は律法に基づいて、ヘロデ王を厳しく糾弾していたのです。そのせいで、彼は捕えられ、牢につながれていたのです。


彼の言葉を聞いてみましょう。「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」(18節)。17節にこの言葉が何を意味しているかが記されており、それによると、「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚して」いた(17節)、このことを指してヨハネは、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデを糾弾したのです。先ほど「彼は律法に基づいてヘロデを糾弾した」と申しましたが、それは彼の「律法で許されていない」という言葉に由来します。ヨハネはその言葉から、たいへん厳しい人として受け取られることが多いかもしれませんが、単に道徳的に厳しかった、というのではなく、律法において禁じられていることを、そのまま伝えた、ということでもあったわけです。


ヘロデと不適切な関係を持っていたヘロディアの方は、そのような指摘を受けて「ヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていた」(19節)と記されていますが、それでもヘロデはヨハネを保護していました。それはなぜだったかと言うと、「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って」いたから、と20節には記されています。何か他の人とは違う、口うるさく道義的なことを訴えてくる、野党的な輩とも違う、と感じていたわけです。だからヘロデは「彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」(20節)と言われています。


ヘロデは父であるヘロデ大王がイドマヤ人、すなわちエドム人で、生粋のユダヤ人ではありませんでした。母はと言うとサマリヤ人で、ルーツはイスラエルにありながら、ユダヤ人とはそりの合わない人々でした。そのような生育環境の中で、どれだけ律法に対する敬意があったのか。律法に禁じられている兄弟の妻をめとることからもわかる通り、あまり律法を尊重していなかったことは確かでしょう。しかし、洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主である以上、律法には敏感であってほしい、と願っていたのかもしれません。それで、ヨハネは自分の価値観で領主ヘロデに向かっていく。ヘロデの方は、それを「価値観の勝手な押し付け」とも感じたでしょうが、ヨハネのまっすぐな思いが眩しいと言うのか、何でこの人はこんなに確信を持って、自分の価値観に正直に生きているのだろう、というのがある意味不思議でならなかったのではないでしょうか。その辺りのことが、先ほどお読みした「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」(20節)という姿勢につながったのだと思います。


そんな姿が、へロディアには優柔不断、どっちつかずに見えていたのではないでしょうか。ヘロデはヨハネを恐れていても、へロディアにはそんな思いはなかったわけで、むしろはっきりと「ヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていた」(19節)のですから、これは恐らく、ヘロデの保護がなかったら、もうへロディアはもっと早くに目障りなヨハネを亡き者にしていたことでしょう。夫のせいで手が出せない、そのことが歯がゆく、いつか何かのチャンスがあったら、とうかがっていたのではないでしょうか。


「ところが、良い機会が訪れた」と始まる21節以降、悲惨にもヨハネが命を奪われていく次第が描かれていますが、人の命を奪う機会を「良い機会」と捉えたへロディアたちの心の底の闇にぞっとする思いです。そのもとの所には、へロディアの中にあった、ヨハネへの恨みがありました。その恨みが、「この人などいない方がいい」ということで殺意につながり、良心が麻痺してしまって、人の大事な命が奪われてしまう悲しいタイミングのことを指して「良い機会が訪れた」と喜んでしまうようになっていくのです。人の心の闇がここに描かれています。


ヨハネに責められたへロディアのみならず、私たちの心の中には、どこか人には見せられない、隠しておきたい部分があるものです。それで、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)といったような、聖書に示された価値基準にはなかなか沿うことができず、それどころか、嫉妬心にさいなまれて喜ぶ人と共に喜べなかったり、冷徹な心で泣く人と共に泣けなかったりするものです。そのような人間の心の闇があるからこそ、イエス様の十字架が必要なのだと、改めて思うものです。それがあって、救いへと導かれていくわけですから、そのことを思うと、きっと私たちは神様に見捨てられていないのだろう、と感じます。


さて、この時何が起こったかを整理しておきましょう。ヘロデの誕生日がやってきました。その日ヘロデは高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催します。そこに、「 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた」(22節)とあります。わざわざ「へロディアの娘」と言われていますから、父親はヘロデではなかったのでしょう。ご機嫌を取るかのように、「王は少女に、『欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう』と言い(同節)、続いて、「更に、『お前が願うなら、この国の半分でもやろう』と固く誓った(23節)とあります。ガリラヤの領主の領主に過ぎないヘロデに、そんなことはできなかったはずでした。しかし、上機嫌なヘロデは、ついこのようなことを口走ってしまったのでした。それが、洗礼者ヨハネの悲しい最期につながっていくのです。


もしかしてへロディア親子は、このようなことになったらどう答えるか、ということを、前もってシミュレーションしていたのかもしれません。ヘロデの誘いに乗って、純真に褒美を求めるような少女ではありませんでした。示し合わせたかのように母にお伺いを立て、その母から言われたことをそのままヘロデに伝えます。いや、それどころか、その言葉を聞くと、母親よりもずっと残忍なことを要求しています。まさに、母親の狂気が、娘にも乗り移る、といったところでしょう。


当時、誓いというものは、そう簡単に翻すことのできるようなものではありませんでした。26節には、「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった」という、ヘロデの苦しい胸の内が記されています。ちなみに、ここで「王」と言われるヘロデは、先にご説明した通り、本当は領主であって、ローマ皇帝の許可なしに国の半分を少女に与えるような権威など持っていなかったわけですが、それでもマルコは「王」である、と言い続けておりまして、そこには痛烈な皮肉が込められているのかもしれません。


ここには、人を喜ばせることしか考えられないヘロデ王の姿が見られます。しかし、これが人間の限界かもしれない、とも思います。ここに至るまでは、一応ヨハネを保護していたわけですから。しかし、洗礼者ヨハネの声は聴かないが、母親の狂気が乗り移った少女の声は聴く、というのは何ともやりきれないような思いがいたします。結局は、葛藤の中で、ヘロデはヨハネの命を奪う命令を下すことになります。私たちも、誰の言うことを聞くのか、ということについて、考えさせられます。そして、誰を喜ばせるのか。律法に基づいて語る洗礼者ヨハネの声に従って行いを改め、神様を喜ばせるのか、それとも、ご機嫌取りで狂気の声を聞いて、それで人を喜ばせるのか。そのような鋭い対比が、実はこのところに隠されていました。私たちも同じです。聖書の言葉に従って神様を喜ばせる生活を送るのか、この世に流されて、周りの顔色を見て、人を喜ばせて生きるのか。私たちはどちらを選ぶのでしょうか。


さて、ここで、ヨハネの命を奪う側の声はいくつも記されているのに、ヨハネの最期の声は何も記録されていません。上機嫌なヘロデの、ご機嫌取りの言葉はふたつも残されています。「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」という言葉、そして更に、その権威もないのに、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったその言葉も記されています。また、内心しめしめと思いながら、すまして母親に「何を願いましょうか」と尋ねた少女の言葉、それに対して即座に「洗礼者ヨハネの首を」と言ったへロディアの狂気の言葉。それを受けて、いそいそと王の前に出て、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」などと、およそ少女が口になどしないような恐ろしい言葉をはっした、その言葉もちゃんと記録されているのです。このように、命を奪う側の言葉は残されている。しかし、義に生きた人、洗礼者ヨハネの言葉は一言も残されていません。何とも理不尽で、切ないものです。


このように、弁明の機会すら与えられずに最期を迎えた彼の姿は、沈黙を保って十字架で死んでいかれたイエス様の姿にそのままつながります。この悲しい出来事は、ある意味でイエス様の御苦しみの始まりに過ぎなかったとも言えるでしょう。すなわち、もっとこれから悲惨なことが起こっていく、ということです。そのクライマックスこそ、イエス様の十字架でありました。


このことから、私たちも、何かあったときに弁明できるとは限らない、ということも見えてきます。いつもいつも、自分の言動について、説明できるとも限らないわけです。「言葉で表さなければ伝わらない」というドラマのセリフがありましたが、かと言って、いつもいつも十分に言葉にできるとは限らないことにも薄々気づいています。いつでも、どこか言葉足らずの現実というものが、私たちにはつきまとっているのです。


そのような時には、何も言えないまま命を奪われていった洗礼者ヨハネのことを思い出してみるといいでしょう。またあるいは、それは始まりに過ぎないのであって、もっと悲惨なところを通って行かれたイエス様のことを思い起こすのもひとつです。イエス様も、「救い主なら、十字架から降りて来てみよ」などと散々ののしられても、「あなた方の救いのためにやってあげているのに」などと弁明することも言い訳することもなく、ただ黙々と、十字架にかかっていかれたのです。ですから、何の弁明ができなくても、説明ができなくても、ましてや言い訳などできなくても、イエス様がわかってくださる、と信じましょう。そこが、私たちが立つ位置なのです。そして、イエス様の十字架を深く思い、それによって実現された救いに感謝しましょう。


お祈りいたします。

天の父なる神様。この週の初めの日、共に集まってみことばを聞くことができありがとうございます。洗礼者ヨハネの最期の様子を通して、人間の心の闇の深さを改めて知らされました。恨みの心が人を亡き者にしようとする思いにまで発展したり、正しい人の声を聞かずに、神様ではなく人を喜ばせようとして、正しくない人の声を聞いたり、人間の心の中にはこのような罪があるものです。そのために、イエス様が十字架にかかられました。しかも、洗礼者ヨハネが沈黙の中で死を迎えていったように、イエス様も、何の弁明もせず、黙々と十字架にかかっていかれました。その十字架によって、私たちの罪がすっかり赦されたこと、改めて感謝します。私たちを、この福音を伝える者としてください。先日は園田伝道所の会堂のための総会を開くことができ、そこで出席者全員一致で購入の議決ができまして感謝します。その後、無事物件の契約ができまして、あなたの導きに心から感謝します。続きます諸手続きの上にも、あなたの守りがありますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・先週礼拝後、園田伝道所の会堂取得について臨時総会を行い、出席者全員一致で、候補の物件を購入することが議決されました。感謝します。



Comments


御影ルーテル教会

658-0047 神戸市東灘区御影3-10-5

tel: 0788420446

©2022 by 御影ルーテル教会  Wix.com で作成されました。

bottom of page