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執筆者の写真明裕 橘内

2024年6月30日 聖霊降臨後第六主日


聖書交読 哀歌3章22~33節(旧約p1289)

司)3:22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。

会) 3:23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。

司) 3:24 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。

会) 3:25 主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。

司) 3:26 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。

会) 3:27 若いときに軛を負った人は、幸いを得る。

司) 3:28 軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。

会) 3:29 塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。

司) 3:30 打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。

会) 3:31 主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。

司) 3:32 主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。

全) 3:33 人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。

 

聖書朗読 Ⅱコリント8章7~15節(新約p334)

8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

 8:8 わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。

 8:9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 8:10 この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。

 8:11 だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。

 8:12 進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。

 8:13 他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。

 8:14 あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。

 8:15 「多く集めた者も、余ることはなく、/わずかしか集めなかった者も、/不足することはなかった」と書いてあるとおりです。



説教 「豊かな人生のために」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


皆さんは「豊かな人生」と聞きますと、どのようなイメージがあるでしょうか。経済的に豊かであれば豊かな人生なのか。では、それは年収がどれだけあったら、財産がどのぐらいあったら実感できるのか。今日は「豊かさ」について語る聖書の箇所を開いております。そこから、聖書の語る豊かさについて、一緒に読み取っていきたいと思います。


今日皆さんで一緒に開いておりますのは、今から2000年近く前に書かれた、パウロという人物の手紙の一部です。弟子のテモテが共同差出人として名前が挙げられていまして、7節にある「わたしたち」はこのパウロとテモテのことを指しています。


この手紙を書いた時、メインの差出人であるパウロはマケドニアに滞在していました。そこからこのコリントの信徒たちに手紙を書いたわけですが、そこで彼は、本日開いている部分のひとつのテーマになっている、慈善活動を目にしておりました。


ここで言われている「慈善の業」は、具体的には、苦境にあったエルサレム教会の支援のことでした。歴史的には、まだユダヤ教側からの反対と圧力によって、エルサレムの教会は経済的に厳しい状態にあったと言われています。そのような状態に置かれているエルサレム教会のために、マケドニアの教会は、自分たちも苦しい中にあったのだけれども、喜んで慈善の業に参加して、エルサレム教会を支援し、それによって神様からの恵みを受けていました。パウロがマケドニアの教会の姿から受け取ったのは、他者を助け、捧げることによる豊かさというものでした。まさに彼らが、豊かな人生を送っていたのです。


そのような流れの中で、パウロは、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています」と言い切ります(9節)。その恵みとは、「すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」こととして明らかにされています。イエス・キリストは天において神の御子としての豊かな栄光に満ちていたのですが、それをあえて捨て去ってこの世に降りて来られ、人々の身代わりに十字架にかかるまでに身を低くされました。そのような姿こそが私たちのための恵みである、と言うのです。


このようにイエス様が身を低くされたのには理由があり、それは「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」と説明されています。キリストが身を低くして貧しくなることが、コリントの教会の信徒たちの豊かさにつながる、ということなのです。これは、ひいてはこの聖書の言葉を読む私たちも同じように豊かになる、と読んでもいいと思うのです。豊かだったイエス様が貧しくなられ、その代わりに、却って貧しかった私たちが豊かにされた。このような交代劇は、主イエス・キリストの恵みとしか言えない出来事であって、それによって私たちはもともと豊かではなかったのに、豊かにされたのです。


その豊かさは、自覚はなくても、具体的に「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのです」(7節)と表現されています。ここに並べられている信仰、言葉、知識、熱心、愛、こういったものは、すべてもともと私たちには備わっていなかったものでした。特に信仰と愛。人間を越えた存在を信じるより、信じるなら自分を信じる、といった風潮もある中で、お互いの間にある愛も冷えていき、コロナ禍における孤立化も相まって、あまり周りの人に対する関心がない、周りで何が起ころうと我関せず、といったところもあるかもしれない。それなのにもし信仰や愛の面で豊かである、と言っていただけるとすれば、それはもはや自分から出たものではなく、神様由来のものであろう、ということです。自分で豊かになったのではなく、神様によって豊かにされた、と言った方がふさわしいでしょう。


そのように豊かにされた者は「慈善の業においても豊かな者となりなさい」と勧められています。具体的に、何か欠乏がある、というところに、惜しまずに支援の手を伸ばす、ということです。それもまた、豊かさにつながる、というのです。何もないのに支援せよ、というのではない。神様に豊かにしていただいたのだから、助けよう、ということなのです。


しかし、そうは言われても、どこかに、「支援、支援と言って捧げてしまっては、持っているものがなくなってしまうではないか」という疑念が残っていたり、そもそも、豊かにされていてもなおそれになかなか気づかず、「人に支援するほど豊かではない、そんなに持っていない」という思いもないわけではないでしょう。そのような時に目を留めたいのは、12節の御言葉です。


進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。(8:12)


なぜか人間には、今持っているものよりも、持っていないものの方が気になる傾向もあるようです。すでに神様によって豊かにされている面があるにもかかわらず、そこにはあまり目が行かないようで、あれもない、これもないと、ないものばかりが気になるのです。目を開けば、先ほどお読みしましたように、「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのです」という現実もあるのですから、そこから私たちは他者を支援していくことができると聖書は語ります。


現実世界においても、概して慈善活動には人手が有り余っている状態ではないでしょう。しかし、すでにあるものに目を留めることです。また、自分自身を振り返っても、自分の中の足りないものにばかり目を留めるのではなく、すでに持っているものに目を向けるのです。


少し逸れるかもしれませんが、こんなことも考えます。たとえば、被災地にボランティアに行ける人ばかりではないし、彼の地にたくさん募金できる人ばかりでもないわけです。それでも、私の存在は認められており、この世において、私の生きる場所は確保されている、ということです。今、来月から開催されるパリオリンピックに向けて、盛んに予選が行なわれていますが、オリンピックに出るような才能があり、身体能力がある人物でなくても、あるいは、本日午後は音楽発表会がありますが、優れた音楽を奏でることができる音楽家でなくても、私は私として、この世に存在できるのです。ないものにばかり目を向けない、ということです。


この節の終わりにある、「神に受け入れられるのです」という言葉は実に印象的です。もちろん、慈善活動において、多くてもわずかでも、私たちの捧げるものが神に受け入れられる、ということでしょうが、それを越えて、広く「神の受容」ということについて、語っているようにも思えてまいります。私たちは誰しも拒絶を恐れる者で、できれば受容されることを心のどこかで願っているのではないかと思います。こどもたちの、「見て、見て」と言う無邪気な声。それによって大人や周囲の人たちの注目を浴びることで、受容されている、ということを実感し、何の屈託もなく、笑顔ではしゃぎまわる。何かのことでその視線がそらされてしまうと、途端に笑顔は曇り、不機嫌になって動きが止まってしまうことを見ると、いかに受容ということが人間にとって大切で、安心感を与えるものか、ということがよくわかります。どんなに少なくても、今手に持っているものでとりあえず支援の手を差し伸べていく時に、神様による受容を経験していく。そして、心には喜びと安心感が生まれ、それが心のゆとりを生み出し、ひいてはそれが豊かさにつながっていく。そのように考えることもできるかと思います。


14節で「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことにな」る、といった文言を目にする時、支えられていた側も、いつかは支える側になるだろうし、支えていた側も、いつかは支えられる側になる、という、大げさに言えば人生の真理のようなものも見えてまいります。欠乏を補うべく支援をしたら、結局失うばかりで貧しい思いになる、というのではないのです。ある一時は私にゆとりがあったので欠乏ある所に向けて補ったけれども、その状況は固定的で変わらないのではない。やがて時が変わり、状況が変われば、今度は私が欠乏を感じることもあり、そしてその時には、かつて支援の手を差し伸べたその人々によって、私が却って補ってもらって、それで助かった、ありがたい、ということになる、ということもあることを、聖書は語っています。


まさにそのようにして、平等となるわけです。14節の終わりの「こうして釣り合いがとれるのです」とは、実にそのことを意味しているのです。実際に「平等になる」と訳している日本語訳聖書もあるほどです。少し調べてみますと、この「釣り合い」とか「平等」と訳されているのは、「類似性」という意味を持つことばでありまして、単に持っているものが均等になった、ということを越えて、似た性質を持った者として存在するようになる、といった意味合いも持っているようです。多様性が叫ばれる社会でありますが、そのような違いを越えて、言ってみれば似た者同士として、お互いが存在するようになる。教会でよく使われる「信者は兄弟姉妹である」という連帯感、あるいは「人類みな兄弟」といった感覚に似ているかもしれません。そこには、持っている者と持たざる者、といったような対立概念や分断といったものはなく、一致した心を持って、互いをいたわり合い、思いやりをもって接し、むしろひとつになっていこうとする姿が見られるように思うのです。これもまた、豊かさのひとつの姿ではないでしょうか。


本日お読みした最後の15節には、もうひとつの側面として、神様の与えてくださる恵みとしての平等、といったことが、旧約聖書のエピソードから記されています。「『多く集めた者も、余ることはなく、/わずかしか集めなかった者も、/不足することはなかった』と書いてあるとおりです」とありまして、このパウロの「書いてあるとおりです」という言葉遣いが、旧約聖書のエピソードを引用していることの証拠となっています。旧約聖書の出エジプト記というところに記されているエピソードが土台となっておりまして、このパウロの時代からさかのぼることおよそ1400年ほど、まだ当時、イスラエルはエジプトにおける強制労働を神様の奇跡によってようやく逃れたばかりで荒れ野におり、食糧にも乏しい中で神様がお与えくださった不思議な食べ物、マナと呼ばれるもので養われていました。ある人は多く集め、またある人は少ししか集めなかったのに、それぞれ計ってみると多過ぎず少な過ぎず、それぞれ必要な分だけ集めた、と言われておりまして、果たしてどうやったらこのようなことが実現するのか、まさにこれこそ、人の手によらない神様による平等、ということになるでしょう。パウロはこの手紙を書いた時、旧約聖書の時代に奇跡的に実現したこのような平等が、時を越えて、今この時に、再び実現するのだ、といった感動を胸に抱いていたのではないでしょうか。


本日の聖書箇所は、私たちに豊かさについて、考えさせるものでした。救い主が身を低くして、そのようにして貧しくなってまで私たちをあらゆる面で豊かにしてくださった。その豊かにされた私たちに、他を支える支援の働きにおいても豊かになるように勧められていましたが、慈善の業のために捧げたからと言って乏しくなるのではない、というのが、このところでの主張でありました。それは、13、14節に繰り返し「釣り合いがとれる」と言われており、支援したり、支援していただいたりして、いずれ神様によって平等が実現するのだ、と述べられていることからも明らかでした。支援の手を差し伸べて貧しくなるどころか、私たちは思いやりの心を持って他を支援していく時、却って豊かな人生を送ることができるようになるのです。


お祈りいたします。

天の父なる神様。

一週間を礼拝をもって始めることができ、そこで神様の言葉である聖書に触れることができ、感謝いたします。「豊かさ」とは、物価高などで負担感の増す中、なかなか実感することの難しいものかもしれませんが、聖書から語りかけくださってありがとうございます。イエス様が私たちのために身を低くし、十字架にまでかかってくださったことで、実はすでに豊かにされているということを改めて知りました。そのように豊かにされた者として、今度は他を豊かにするために手を差し伸べていく。そのような生き方に憧れます。また、そのようにすることが真の豊かさであると、聖書を通して教えていただきました。聖書の言葉から教えられ、ますます豊かにされていることを実感し、豊かにされた者として、周りを豊かにしていく働きの中に身を投じることができますように。その中でも、いつも、先にイエス様の方が私たちを豊かにするために貧しくなられたことを思い出すことができますように。日本にも世界にも、被災地や戦火の続く場所で、支援の手を待っている人々がたくさんいます。そのことを忘れずに過ごすことができますように。また併せて、困難の中で生きづらさを感じている人々にも、助けの手が伸べられますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン


報告

・本日午後1時より、音楽発表会があります。来週7月7日礼拝後、園田伝道所の会堂取得について臨時総会を行います。ご出席ください。







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