2024年6月2日 聖霊降臨後第二主日
- 明裕 橘内
- 2024年6月2日
- 読了時間: 10分
聖書交読 申命記5章12~15節(旧約p289)
司)5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
会) 5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
司) 5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。
全) 5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。
聖書朗読 マルコ2章23~3章6節(新約p64)
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」
3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
説教 「安息日の主は誰か」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
今年も聖霊降臨後の、緑の季節がやってまいりました。信仰の成長を願い、信仰による希望をいただく時期です。本日聖霊降臨後第二主日、すなわちこれは先週の三位一体主日が実質的に聖霊降臨後第一主日であったことを意味するのですが、この日に私たちは、ユダヤにおける安息日になさったイエス様の行動を福音書を通して見ています。
ここには空腹を覚える人々や、病に悩む人が登場します。今の日本にも、知らない間に広がる格差社会のせいで飢えに苦しむ人々が想像以上に多く存在します。また、これだけ医療が発達しても、病に苦しむ人は多いです。また、霊的に飢え乾き、いろいろな制約の中で積極性を失い、心理的に手足が出ない状態になってしまっている人はもっと多いことでしょう。そのような人々のことを、イエス様はどう見ておられるのか、ということです。本日の福音書のエピソードを、一つ一つ見てまいりましょう。
「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」(2章23節)とありますが、それは空腹によるものでした。仕方がないことと思いますが、律法に厳格なファリサイ派の人々は厳しく、「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」(24節)とイエス様に尋ねます。律法によると、「安息日を守ってこれを聖別せよ」(申命記5章12節)ということで、安息日にはいかなる仕事もしてはならないとされていました。弟子たちが空腹のあまり麦の穂を摘んでいたことが、「労働」にあたるとされて、「安息日にしてはならないこと」として非難されたわけです。あまりに理不尽だと思いますが、ファリサイ派の人々にとっては当然の指摘、ということだったのでしょう。
しかしイエス様は、ファリサイ派の人々も尊敬していたと思われるイスラエルの王、ダビデのエピソードを引き合いに出し、空腹の際には、あのダビデでさえ、律法に反することをしたのだ、と反論します(25,26節)。それだけでなく、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(27節)と明言なさった上で、ご自身を「安息日の主でもある」(28節)と宣言されたのです。
このことによって、イエス様はご自身を、すべてのものの上に立つ権威ある者としてお示しになられたのです。すなわち、たとえ「安息日にはいかなる労働をもしてはならない」という律法があろうと、それを越えて、「人が空腹を抱え、苦しんでいるなら、まずは助けの手が差し伸べられなければならない」として、空腹を満たすものを得ることを認めてくださるのです。
加えて、「安息日の主」ということですから、人を苦しみから解放し、本当の、あるいは本来の安息に入れてくださる方、という意味合いもあることでしょう。
また、細かいことですが、イエス様の、「人の子は安息日の主でもある」という言葉の言い回しにも注目しておきたいと思うのです。「人の子」はイエス様が、ご自分のことを指して好んで用いられた称号であることはもはや改めて触れるまでもないことですが、この「安息日の主『でも』ある」という言い回しです。この言い方は、「安息日の主でもあるけれども、ほかの主でもある、というメッセージを発している、とも受け取れます。そうすると、イエス様は「救いの主」、あるいは「人生の主」、ということになるでしょう。イエス様は私たちを罪の悩みの中から救い出してくださった、救いの主であられます。また、そうやって救われた私たちの人生をずっと最後まで導いてくださる、人生の主でもあるのです。この方が、私たちにかかわるすべてについて、責任をもって面倒を見てくださるのですから安心です。なおかつ、私たちが飢えているということを知ったら、律法をも超えて私たちを慈しみ、憐れんでくださる、全てのものの上に立つ、全権を持った主なのです。
続いて、もうひとつのいやしのエピソードのほうに移ってまいりましょう。こちらも、安息日の出来事であることで先ほどのエピソードと共通していますし、なおかつ、こちらも、安息日における労働についての問題であることで共通しています。
3章1節によりますと、「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた」と報告されています。これはまだ単なる事実の報告です。更に2節に目を移しますと、「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」とありまして、ここに、イエス様を取り巻く人々の思惑というものが示されています。イエス様がもしこの人をいやすとしたら、それは医療行為に当たる、ということで、それはすなわち律法に禁じられている「安息日における労働」ということになるのです。そうなると、「あなたは医療行為という、安息日に禁じられている労働をしたのだ」ということで、イエス様を訴えることができるようになる、ということです。当時のユダヤ人は、この「安息日における労働」というテーマに、非常に関心があったようです。だからこそ、「安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」と言われていたのです。現在、イエス様当時のユダヤ教の姿について様々な説が唱えられていますが、彼らは少なからず、この安息日律法にがんじがらめになっている面があったので、この点についてイエス様がどう対応するかに注目していたわけです。
どうでしょう。「注目する」と言えば聞こえがいいですが、要するに彼らは傍観者であったわけです。イエス様がどう行動するかに関心があったのであって、手が萎えて様々な苦しみにさいなまれていたと思われるその人のことなどどうでもよかったと言っても言い過ぎではないでしょう。
それに対し、イエス様の姿は決定的に異なります。イエス様はこうおっしゃいます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(3章4節)。そのように、イエス様はそこにいた人々に鋭く問いかけたのです。イエス様にとっては、安息日における労働の是非の問題を遥かに超えて、善悪の問題であり、命にかかわることであったわけです。労働を禁じるだけでなく、傍観していることも、イエス様にとっては同様に命を大事にしない行為だったのでした。
イエス様は安息日の主であったので、安息日律法を超えており、安息日に善を行い、命を救うことを行ないました。実はそれは大きな大きな犠牲を伴うことであったのに、それでも構わずに、イエス様はそれをなさったのです。実はそのせいで、イエス様はご自分が殺される相談をされるようになってしまったのです。次のように聖書は語ります。
「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(3章6節)。
イエス様は、安息日の主として、深い憐れみを示されて、病の人を癒したのです。安息日にしていいのは、命を救うことであって、命を奪うことであってはならない、と思われてのことでした。それなのに、却ってそれで、周りではご自身の命が奪われる計画が勃発してしまう。そしてどうでしょう。それは一時的な、突発的なこととして収まったのではなく、そのうねりは根強く、最終的には本当に、十字架でイエス様の命を奪ってしまうことにつながったのです。
ご自分が命を奪われてまで、私たちの幸せを願い、行動してくださった安息日の主、イエス様。思っているだけで動かなかったら何も変わりませんでした。実際に安息日にご自分が主であることを示してくださったからこそ、今私たち人間は解放され、日曜日であろうとどの日であろうと変わらず命が守られているのです。
安息日だろうと何だろうと、私たちが空腹であり、病の中にいることを心配し、霊的に飢え乾き、いろいろな心配事で手足が出ない状態になっていることに憐れみを示してくださって、手を伸ばしてくださるのが私たちの安息日の主、イエス様です。それだけ私たちに関心を持っておられる、ということです。私たちに関心を寄せておられるということは、私たちの人生に介入して、全ての事柄において責任を持ってくださる、ということにもつながります。私が今気になっているあのこと、このことも、イエス様が全責任を負ってくださると信じて、すべてお任せすることをお勧めします。究極的には、安息日の主として、イエス様は私たちに、本当の安息をご用意くださっています。それは、忙しい毎日の中で時折訪れる休日でほっとする、ということをはるかに凌駕し、本当に私たちの魂に安息を与え、ついには神の国へと導くほどのものであると確信します。私たちはあくまで今、この地上を旅人として歩んでいるに過ぎません。この地上では決定的なもの、最終的なものを手にすることはないのですが、私たちが天に引き上げられ、究極の安息のうちに安らぐ時、私たちは私たちを心配して、憐れみを注ぎ続けてくださるイエス様によって、地上では得ることのできなかったすべてのものを得るのです。その時を共に待ち望みましょう。
お祈り
天の父なる神様、あなたの尊いお名前を賛美します。
この朝も私たちをひとつ所に集めてくださり、尊い御言葉を与えてくださってありがとうございます。三位一体の神様であるあなたは私たち世に住む者たちを深く愛し、ひとり子イエス様をお与えくださいました。そして今朝、そのイエス様を私たちに改めて安息日の主として示してくださったことに感謝します。
イエス様は安息日の主として、すべてを越えておられる方です。そして、私たちが飢え乾き、病に陥るようなときに、真剣に私たちのことを思ってくださり、そこにどんなしがらみがあろうとそれを乗り越えて、私たちを憐れみ、慈しみを注いでくださいますことに、心から感謝します。
生きやすいとは言えないこの世に生きる私たち、様々な願いごとを内に抱える私たちに今週も安息日の主としてお現れくださり、私たちの毎日の暮らしを守り導いてくださるとともに、天の本当の安息の場に導かれるその時まで、変わらず私たちを支えてくださるようにお願いします。
困難の続く被災地や戦火の絶えない所に、主の憐れみがありますように。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
報告
・本日昼食会があります。その後に役員会となりますが、前半は園田伝道所の会堂についての話し合いになります。

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