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執筆者の写真明裕 橘内

2024年6月23日 聖霊降臨後第五主日


聖書交読 ヨブ38章1~11節(旧約p826)

司)38:1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。

会) 38:2 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。

司) 38:3 男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。

会) 38:4 わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。

司) 38:5 誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。

会) 38:6 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。

司) 38:7 そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた。

会) 38:8 海は二つの扉を押し開いてほとばしり/母の胎から溢れ出た。

司) 38:9 わたしは密雲をその着物とし/濃霧をその産着としてまとわせた。

会) 38:10 しかし、わたしはそれに限界を定め/二つの扉にかんぬきを付け

全) 38:11 「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。

聖書朗読 マルコ4章35~41節(新約p68)

4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。

4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。

4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。

4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。

4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。



説教 「嵐の中でも、向こう岸へ」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


今年の梅雨入りは遅いなと思っておりましたら、先週の金曜日に近畿地方も梅雨入りと発表されました。何かとうっとうしい雨の季節の到来です。最近は雨が降ると言っても豪雨のようなものも多く、また自然災害が懸念されます。今年は1月に能登で大きな地震があったばかりですから、なるべく被害が出ないようにと願うばかりです。


このような自然災害は、時に私たちの人生に起こる様々な困難や苦しみといったものの象徴として語られることがあります。有名な聖歌の「人生の海の嵐に」のように、私たちを襲う予想外の苦難を「嵐」と表現することは多いです。その人生の嵐の時において、私たちの主イエス様はどのようなお方なのか、弟子たちを襲う本当の嵐の中でのイエス様の姿から、読み取ってまいりましょう。


まず、本日の福音書の箇所の冒頭の部分です。


4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。


このように、いつもイエス様は私たちの先頭に立ち、「向こう岸に渡ろう」とお誘いくださいます。しかもそれは、暗闇迫る「夕方」のことでした。だいたい、そのような時間から、わざわざ向こう岸へ行こうとするだろうか、とも思います。これは、ガリラヤ湖の東の方の岸へ向かったことだと言われます。川を渡るのではない。決して小さいわけではないガリラヤ湖をこれから渡っていくわけです。ためらってもおかしくない、そのような状況で、イエス様はあくまで前向きに、「向こう岸に渡ろうではないか」と励ましてくださる。私たちの傍らには、このようなイエス様がいてくださるのです。心強いことです。


そもそも、嵐の前に、このようにイエス様は、人生の旅の途上で道を進みあぐねている私たちと共にいて、「向こう岸に渡ろう」と声をかけてくださり、前に進むことを促してくださる方です。夕闇迫る中で舟を漕ぎ出すのをためらうのは、人生の黄昏時に差し掛かり、もう前進するよりはむしろ後退していく時期だ、と思い始めている人に似ているかもしれません。あるいは、ある程度の経験、業績を積んできたので、今更新しい冒険など望まない、という心境かもしれない。そのような、なかなか前に進もうと思わない時に、イエス様は「向こう岸へ渡ろう」と、私たちを押し出してくださるのです。


ところが、それでは、ということでイエス様が一緒に舟に乗ってくださって向こう岸へと漕ぎ始めても、激しい突風が起こることもあるのです。イエス様が「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったからと言って、それは楽な道のりだ、というわけではありません。このように、言ってみれば嵐に遭遇することもあるわけです。これは、イエス様を信じたらすべてうまくいく、というわけではなく、やはりイエス様と一緒の人生においても、山あり谷ありなのだ、ということに似ています。向こう岸に向かって漕ぎ始めたのは、イエス様の励ましがあったからでした。それなのに、その道のりの途上で、嵐が起こる。どうして、と思いますが、これが現実なのです。だからこそ、私たちには、信仰が必要です。この前の箇所には、からし種のたとえが述べられており、どんな種よりも小さなからし種が驚くほどの成長を見せることが、拡張する神の国を表していました。同時に、マタイ17:20で「からし種一粒ほどの信仰」とも言われ、からし種は信仰になぞらえられることもあります。確かにイエス様が手を取ってくださって導いていてくださるはずのこの人生において、なぜ嵐に遭遇するのか。その疑問がわいてくるときにこそ、私たちには、からし種ほどでもいいから、信仰が必要なのです。


それにしても、状況は、「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(37節)と言われています。私たちの歩みも、予想外の波をかぶって、台無しになってしまうこともあります。舟が水浸しになったら、水の上を進むのに妨げになることは間違いありません。嵐にあって遭難し、海などの上で必死に舟の中にまで侵入してきた水をかき出している様子は、テレビなどで何度か目にしてきたものです。そのままにしていてよいはずがない、ということがよくわかります。私たちが乗り込んでいる人生の舟が波をかぶって水浸しになったら、これはたいへんだということで、当然のことながら私たちは必至でその水をかき出そうとするでしょう。それに躍起になっている間に、舟は推進力を失い、進む方向を見失ってしまうかもしれない。すなわち、目の前に起こることへの対応で精一杯になり、人生を目的を持って大事に生きるとか、丁寧に人間らしく生きるとか、そういった大きな方向性を失った人生になってしまう、ということは、あり得ることなのです。



4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。


そんな時、イエス様は率先して対応してくださるかと言うと、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」(38節)というのです。こともあろうに、イエス様は船尾の方で眠っておられた。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(同節)と弟子たちが叫ぶのも無理もありません。


そもそも、イエス様はなぜ、よりによって「艫の方」、すなわち船尾の方で眠っておられたのでしょうか。これは、場所の問題です。なぜ眠っておられたのか、ということではなく、なぜそれが艫の方だったのか、ということです。このことについて調べますと、2つの説に

行き当たります。ひとつは、艫の方が舟の中で少し高くなっており、そのような所に客人を乗せていたのだ、という説。もうひとつは、艫の方とは、船頭のいる場所だった、という説です。舟のかじを取り、その操作を一手に引き受ける船頭が陣取っているような、まことに大事なところに、イエス様はおられた。誰かに仕えられるためではなく、自ら仕えるために来られたイエス様のご性格からすると、客人として鎮座していたというよりは、この方がピンときます。


しかし、問題は、そこでイエス様が寝ておられた、ということです。よく「大船に乗ったつもりで」と言いますが、かと言って寝てしまうというのは、安心するにもほどがある、という感じもします。どういうおつもりだったのでしょうか。でも、ここに、嵐の中でも穏やかな、実に平安なイエス様の姿が見られます。これは何を意味しているのでしょうか。やはり、私たちへのメッセージではないでしょうか。あなたがたも、やれ人生の海の嵐だ、私の人生の舟に水が入ってきた、と右往左往するのではなく、その中にあっても、私のように平安でありなさい、というメッセージです。


同じ舟に乗っているのですから、イエス様は弟子たちとは運命共同体、この同じ嵐の中で、イエス様だって言ってみれば命の危険にさらされているわけです。それなのに、この平安。これはまさに、「あなたがたも、からし種ほどでも信仰があったら、このように嵐の中でも平安なのだ」とイエス様が語りかけておられるとしか思えません。イエス様はご自身のありようを用いて、「嵐の中での平安」という尊いメッセージを私たちに発しておられるのです。


それにしても、そのイエス様に対する弟子たちのことばはどうでしょう。つい先ほど、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と弟子たちが叫ぶのも無理もありません、と申し上げたばかりなのですが、今になってみると、何とも恨みがましい言い方に聞こえてきます。ですが、これが人間の本当の姿なのでしょう。イエス様が、ご自身の身にも迫る危険の中で、嵐の中の平安というメッセージを発しておられるにも関わらず、人間はそれに気づくことなく、イライラして、「イエス様、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫ぶ。落ち着いて考えてみれば、イエス様がわたしたちがおぼれてもかまわないはずはないのです。ちょっと考えればそのぐらいのことはわかるはずなのに、人生の舟に波が押し寄せて水が入ってくると、それがわからなくなる。「こんなに今苦しんでいるのに、悩んでいるのに、一向にイエス様は顧みてくださらない。このまま私がたいへんな状況に陥っても、イエス様は一向にかまわないのですか」と恨みがましく言うのが私たちなのでしょう。弟子たちのことばもそうですが、これはもはや質問しているのではないのです。「構わないのかどうなのか、どちらか知りたい」というのではなく、言ってみれば、もう「あなたはわたしたちのことをかまってはくださらない」と非難しているのです。


4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。


しかし、イエス様はそれには直接お答えになられません。むしろ、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた」(39節)。このように、イエス様は逐次私たちに声を掛けられるとは限りません。船尾で寝ておられるような時もあり、沈黙を保たれることもあるのです。しかし、いざとなると、私たちよりずっと大きな存在、大自然に向けて声を発し、それらを制御なさる。そのようにして、嵐のような中でも、私たちを守ってくださり、向こう岸へ行けるように導いてくださるのです。


最後、残りの40,41節の所を読んでおきたいと思います。


4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」


これは、叱責なのか、それとも単なる問いかけなのか。それでも、怖がる理由を尋ねられているわけではないでしょう。かと言って、私たちの救い主であり、人生の主であるイエス様が、頭ごなしに私たちを叱責するのか。しかも、実に怖がりで、なかなか信じることができない私たちだというのは、イエス様はご存じのはずです。それなのに、私たちを叱責なさるでしょうか。


ひとつには、私たち自身に対してイエス様は語られたのではなく、私たちの心の中に陣取っている信じない心、不信仰に向かって、イエス様は嘆いておられる、とも考えられます。あるいは、このことばを大胆にもまったく反対に受け取って、「もう怖がる必要はない。もう、信じないままでいる必要はない」というメッセージである、と解釈するのも不可能ではないでしょう。ここには、からし種のような信仰が、イエス様の奇跡を体験することによって大きく育てられていく、そのような姿が描かれている、と見ることもできます。弟子たちは、人の手によらずに大きく成長する神の国のたとえを聞いてもなお、その信仰は躍動せず、信じる心は薄かった。そのような時に、嵐の中の平安が示されるとともに、動かしがたいと思われた凶暴な大自然が、イエス様の言葉一つですっかり変えられるという、大きな奇跡が示される。そのことによって、弟子たちの心においては信仰が成長し、もはや怖がることも、信じないままでいることもなくなっていく、というわけです。


4:41 には、「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」とあります。これは、迫害にあっているローマの教会を励ますために書かれた、とも言われます。すなわち、ローマによる迫害という大嵐の中で、主イエス様は風や湖といった、たとえローマ皇帝でさえ従わせることのできないものを、従わせることができる方だ、という強烈なメッセージである、ということです。これは時空を超えて、状況のまったく異なる現代の私たちの人生にも、大きなメッセージとして伝わってきます。私たちの前には、こればかりは動かしがたい、という現実があるでしょうか。それは少子高齢化の問題なのか、それとももっと身近な、人間関係の問題なのか。でも、私たちの主は、風も湖をも従わせる方でした。この方を前にして、動かないものなどあるでしょうか。このイエス様に頼ってまいりましょう。そうすれば、たとえ嵐のような中でも、私たちは向こう岸、すなわち新しい世界に向かっていくことができるのです。


お祈りいたします。

私たちを導いてくださる天の父なる神様。今日もあなたのみことばに触れ、新しい一週間のスタートを切ることができ感謝いたします。あなたが私たちのもとにお遣わし下さった私たちの主イエス様が、私たちをどんな時でも、向こう岸へ渡らせてくださる方であることに改めて感謝します。目の前に動かしがたい山のようなものがある時、私たちは怖気づいて前に進めなくなるものですが、イエス様はいつも一緒にいてくださり、私たちに嵐の中での究極の平安を示してくださり、また全世界に向けて声を発し、動かしがたいものを動かしてくださることに信頼しています。どうか足がすくんで神様が与えてくださる新しい世界へ一歩踏み出しきれない私たちを励ましてくださり、「向こう岸に渡ろう」というイエス様の招きに応じて、一歩踏み出すことができますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン



報告

・先週は礼拝後に青年会主催の聖書研究会がありました。7月7日礼拝後、園田伝道所の会堂所得について臨時総会を行います。ご出席ください。



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