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執筆者の写真明裕 橘内

2024年6月16日 聖霊降臨後第四主日


聖書交読 詩編92編2~5,13~16節(旧約p931)

司)92:2 いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い

会) 92:3 朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは

司) 92:4 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ/琴の調べに合わせて。

会) 92:5 主よ、あなたは/御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。

司)92:13 神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。

会) 92:14 主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。

司) 92:15 白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし

全) 92:16 述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。

 

聖書朗読 マルコ4章26~34節(新約p68)

4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、

 4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。

 4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。

 4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

  4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。

 4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、

 4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。

 4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。


説教 「成長する群れ」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン


今私たちは、聖霊降臨後の、信仰の成長を図る、礼拝の色が緑の季節を過ごしています。もちろんそこには、植物の成長からのインスピレーションというものが多分にあるわけです。ただ、成長と言っても、その言葉の受け取り方は人それぞれです。成長、と聞いてプレッシャーを感じる、ということもないとは言えません。今日の御言葉は、どのような意味での成長について、述べていたのでしょうか。


26~29節の「成長する種」のたとえは、「人々の知らないうちに成長する種のたとえ」とも言われ、マルコによる福音書にしか記されていません。イエス様の「神の国は次のようなものである」という言葉に始まっており、神の国について教えるたとえであることがわかります。神の国が植物にたとえられ、成長する様子は、神の国をいわゆる「天国」のように、将来的に私たちが招き入れられるところ、とイメージすると、このたとえはわかりにくいものになります。むしろここでは、信じる者の群れを神の国と表現しているようです。その信じる者の群れの広がりを、神の国の成長という観点で捉えており、しかもそれが人手によらないものであることが示されています。私たちクリスチャンが何かをしなければ、という切迫感の中で生きている場合、このたとえは肩の力が抜けて、ほっとすることができる御言葉です。ルターが小教理において、「たしかに神の国は、わたしたちの祈りがなくても、みずからくるものであります」と書いた時、もしかしてこの箇所の御言葉を念頭に置いていたかもしれません。


それでも、29節は、「鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した」と告げるヨエル書4章13節(新改訳では3章13節)が背景にあるとも言われ、このたとえに終末的な彩を添えています。背筋が伸びるような思いがします。地上において神の国と称され、人の手によらず、ただただ神様の力によって成長を遂げるという信じる者の群れとは、終末の世界に無縁なものではなく、むしろその時に向かって進んでいく、という性質を持つことの表れなのでしょう。実を結ぶとは、終末の時代を視野に入れ、その時に向かって実を結んでいくことを指すのです。


続くからし種のたとえは、神の国の成長が爆発的であることを述べますが、それもまた、広い意味では人の手によらない成長です。「からし種」が登場しますが、植物としてのからしは恐らくパレスチナでは黒からしのことであろう、とも言われます。野生のからしもありますが、調味料として栽培もされていました。その場合、種は「地上のどんな種よりも小さい」(31節)と表現されるほど小さいのですが、成長すると3メートル、大きい場合には4,5メートルにも成長したと言われます。ユダヤ人は、非常に小さいもののたとえとしてこのからし種をことわざに用いたそうです。その伝統に沿って、イエス様も語っておられるわけです。聞く者にわかりやすいように、というイエス様の意図が見えてくるようです。


繰り返しになりますが、このからし種の爆発的な成長は、人間が見守っているからでもなく、丁寧に手入れしているからでもなく、人の知らないうちに、神様によってもたらされます。このからし種が象徴する神の国も、人の手によらず、神様によって成長するのです。そして、その神の国とは、信じる者の群れである、とお話ししました。基本的には、人の努力によらず、がんばりにもよらず、信じる者の群れは成長するのです。しかも、その勢いたるや、爆発的である、ということです。


このたとえでは、その成長の勢いだけが言われているわけではありません。さきほどの26-29節にある人知れず成長する種のたとえ同様に、ここにも終末的な要素が込められているようです。からし種が成長すると、「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど」になる、ということでしたが、これは伝統的な表現であると指摘されていて、たとえばダニエル4:18に、

「その木陰に野の獣は宿り、その枝に空の鳥は巣を作る」

というような、成長を表す類似した表現が見られます。これは「神の国の将来への大きな幻」である、と言われることもあり、その将来とは、終末の時代をも見通すものです。先ほど、「このたとえの中の神の国は、将来的に私たちが招き入れられるいわゆる天国のことではない」と申し上げましたが、だからと言って、そこに終末的要素がないわけではありません。やはり、今現在の信じる者の群れのことを指すとは言え、その群れは将来に向けて成長していくわけですから、その先には終末の時がある、と言うこともできるわけです。神の国は、際限なく成長していくわけではありません。植物の成長を考えた時に、「実を結ぶ」ということが一応のゴールであって、成長がそれを目指しているのと同じように、将来イエス様が再び来られ、そして世の終わりが来る、という時に、信じる者の群れ、すなわち神の国の成長は、その究極の実りの時とも言える終わりの時を目指すものです。そしてなおかつ、それに達した時には、地上において増え広がっていた神の国はいよいよ天の存在となり、今度は神様と、その右の座にイエス様がおられる世界に迎え入れられ、地上のものではない神の国として、広がりを見せていくのです。


これらのたとえの総括として、33節、34節が語られます。ここから短く、4つの点について

お話しして、まとめていきたいと思います。


まず、「聞く力に応じて」ということです。イエス様は、「人々の聞く力に応じて」語られました。ここで、「私がしっかりしないと、イエス様は語ってくださらない」と焦る必要はないと思います。むしろ、イエス様は私たちのことをわかっていてくださる、と知って、安心することができる御言葉なのです。


次に、イエス様は「御言葉」を語られました。マルコは、この福音書の冒頭で、イエス様を「神の子」である、と定義しました。そのイエス様が、御言葉を語られた、すなわちそれは、「神様の言葉を語られた」ということを意味するのです。人間の教師が語る言葉ではない、ということです。「たとえで」御言葉を語られた、ということは、その言葉には謎である面もある、ということでもあります。「たとえ」には、「なぞ」という意味合いもあると言われています。聞く耳を持たない人にとっては、なぞでしかない言葉。でも、それは神様によって自然に成長し、聞く力を与えられたものには、救いへと導く命の御言葉であるのです。


第三に、「たとえを用いずに語ることはなかった」という表現について、説明を加えておきます。これは、「たとえ以外で語ることがなかった」「イエス様が口を開けば、それはすべてたとえであった」、というよりは、イエス様が語られたすべては、たとえのテーマである神の国のことについて何かしら関係があった、というような意味である、と言われます。時にイエス様の言葉は、単に地上の知恵を教えるような言葉に聞こえるかもしれない。しかし、神様によって開かれた耳によって聞くならば、そのどこかに、神の国との関連性を聞き取ることができる。そのようなことではないでしょうか。神の国について、その福音について語られたのが、私たちの主、イエス様なのです。


第四に、「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」ということですが、ここには、まことに弟子たる者の責任は重い、ということが暗示されているようです。ほかの人たちはともかく、イエス様の近くで生活を共にし、イエス様の後をどこまでもついて行こう、とする者は、「このたとえの意味は何だった?」と疑問を持ったまま過ごすのではなく、イエス様によってすべて説明されて、特に神の国のことについて十分に理解して歩んでいくはずであったことがわかります。私たちも、弟子たち同様にイエス様に従っていこうとする時に、すべてを説明されているはずなのだからと、要求されることも多いわけです。しかし、どうでしょう。イエス様の弟子たちでさえ、すべてを説明されていたはずなのに、神の国についての決定的な理解に欠けており、イエス様を十字架へと追いやっていったのでした。私たちもまた、イエス様のことを理解しようと思いながらも、福音を律法のように誤解し、律法を福音のように誤解して、いらぬ心配をし、自分を追い込んで、そのままの姿でいかに神様に愛されているか、ということを忘れ、自分の力で神の国を成長させようと、やっきになっている面があるかもしれません。私たちの主イエス様は、私たちの救い主であり、御言葉を悟るに疎い私たちをたいせつに思い、すっかり赦して神の国における成長をむしろ促してくださっています。


今日、神の子イエス様が語られた御言葉を聞いた私たちとは、この先どうなるか不透明な中で不安に陥りやすかったり、そもそも成長、と言われても、成長どころか老いていって、昔のようにできない、と嘆いていたり、成長という言葉自体、プレッシャーになるから聞きなくない、というところがあるかもしれません。その半面、何か私がしなければならないのではないか、という焦りがどこかにある、というのも現実かもしれない。そのような中で、私たちはともに、この「人の手によらない成長」という、神様からの良い知らせを耳にしました。確かに神様の一方的な憐れみによって、園田伝道所の会堂取得に向かっている今、これもまた、神様が与えておられる成長のひとつだ、とも受け取ることができるでしょう。そのように、神様によって、群れは成長していくのです。信仰の成長を願うこの礼拝の色が緑の季節に、植物の成長の様子より、ますます神様から与えていただく成長の希望を頂きましょう。


お祈りいたします。

天の父なる神様。

御前に肉なる者が出ております。それでも、あなたは受け入れてくださり、慈しみと憐れみをもって接してくださることに、改めて感謝いたします。本当はそのあなたの思いに感じて、私たちが、自らの成長のために邁進しなければならないのかもしれません。しかし、残念ながらその力はないのです。そのような悩める魂に、あなたは「人の手によらない成長」という福音を知らせてくださいました。地上における神の国が、そのようにして成長していくこと、私たちもまた、成長する群れとして神様に覚えられているということ、感謝せずにはいられません。すっかりあなたに明け渡して、あなたが与えてくださる成長を喜び、希望を持って過ごしていけますように。私たちの共通の大きな祈りの課題である、園田伝道所の会堂取得が、神様の手によって進められてまいりますように。被災地、戦火の絶えない中に生きざるを得ない人々、そして、様々な生きにくさを抱えている人々に、あなたの慈しみと憐れみがありますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン



報告

・先週は馬渕主事の説教でした。橘内師は東鳴尾ルーテル教会の「聖書月間」のゲスト説教者としての奉仕でした。本日は礼拝後に青年会主催の聖書研究会があります。7月7日礼拝後、園田伝道所の会堂所得について臨時総会を行います。ご出席ください。




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